ケセラセラ主婦参上・・・日記(○ゝз・)b⌒☆

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4匹猫に囲まれてφ(゜▽゜*)♪

朝から感動・・・そして涙

2009年04月15日 | Weblog
朝掃除機をかけながらテレビをつけていたのでたまたまその画面の字幕に目が離れず・・・・?考えていました。
数ヶ月前にもだったと思うのですが「スーパー・モーニング」の中で紹介された人物でした。

その人の名前はポール・ポッツさんです。
一夜の番組のオーディションで一躍スポット・ライトをの中心人物になった人です。

私は前回も涙を出しながら聴いていた歌でしたがその後の様子はわかりませんでした。
それがなんと今ではオペラ歌手でそして6月に日本にもこられるとテレビで言っていました。
今回も回顧録のように前回からの様子がテレビに出されまたそのオーデション番組で優勝されたとのことです。
前回も涙、今回も涙を流しながら聴いてしまいました。
テレビを見ながらメモ用紙にその人の小さいころの生い立ちなどを書き留めましたが名前で検索をしたら詳しいことが”ウイキペティア・フリー百科事典”に載っていたのでそのそれをコピーしました。



イングランド西部の港湾都市ブリストル出身。10歳から教会で聖歌隊として歌い始める。生い立ちがあまり恵まれず、周囲からいじめられ続けていた中、「歌っている時だけ唯一、自分に自信が持てた」とインタビューで語っている。

1986年(16歳の時)、世界三大テノールの一人でありオペラ歌手のホセ・カレーラスの声と出会い、彼の美しい歌声に魅了されたポッツは、「いつか彼のようになり満員のオペラハウスで歌いたい」という夢を抱いていた。しかし、当時ヨーロッパではオペラ歌手は憧れの職業と見なされていて、歌の実力はもちろんだが容姿も重要視されていた。そのため、ポッツは自分に自信が持てず、プロへの道を一時断念する。

ユニバーシティ・カレッジ・プリマス セント・マーク・アンド・セント・ジョン(en:University College Plymouth St Mark & St John)では人文学を専攻し、1993年に優等学位を得て卒業した。1994年、大学を卒業した後、スーパーマーケットに就職。この間に自由民主党のブリストル市議員(1996年~2003年)を務めた[1]。プロの道は断念したものの、その後もアマチュアのオペラ劇団でオペラを学び、ボイストレーニングを続けた。

1999年、英国ITVの番組"Barrymore's My Kind of Music"に出演して、賞金8000ポンドを獲得した。その賞金を充てて自費でイタリアに渡り、本格的にオペラを学んだ。

1999年~2003年、彼はアマチュアのオペラ劇団(Bathにあるバース・オペラ )やアマチュアのオペラ・プロダクション(ロンドンを拠点にするthe Southgate Opera Company)に参加し、無償でオペラ活動を続けた。

2001年2月、インターネットのチャットルームで女性ジュリー=アンと知り合い、その2年後の2003年5月に結婚。結婚式では妻にオペラの名曲「カヴァティーナ」を捧げたという。

2003年ある日、急性盲腸炎になり、副腎腫瘍があることが発覚。医者の勧めで切除手術を受けることになるが、医者の反対を押し切り、その間にもオペラを歌い続けていた、とポッツは後日のインタビューで明かしている。

2003年7月、自転車で出勤中に交通事故に遭い鎖骨を骨折。ムチ打ちにも悩まされた。命に別状はなかったが、長期の入院生活を余儀なくされ仕事を失う。退院すると莫大な治療費の請求が来たため、妻の反対も押し切って歌のレッスンを辞め、所属していたアマチュアのオペラ劇団も退団。オペラの世界を封印した。

その後、生活のために数々の職業を経て、ヨーロッパ有数の携帯電話会社の販売店であるThe Carphone Warehouseのセールスマンとなる。

4年間、遠ざけていたオペラだが、2007年、妻の後押しもあり、イギリスで放映されているタレント発掘するオーディション番組「Britain's Got Talent」(America's Got Talentの英国版)へ出場を決意。これで駄目なら歌はきっぱり諦める覚悟で臨んだという。


Britain's Got Talent [編集]
2007年3月にオーディション、同年6月に準決勝および決勝のTV放映。オーディションで「トゥーランドット」の名曲「誰も寝てはならぬ」を熱唱すると、審査員全員と会場全体を熱狂させ、番組を勝ち続けて見事優勝し、同番組の激辛審査員としても知られるプロデューサー、サイモン・コーウェルに認められ、一夜にして携帯電話ショップの店員から世界的歌手となる。

彼の運命を変えるきっかけともなった番組「Britain's Got Talent」の模様は、YouTubeを通じて、世界中に配信され、感銘を呼んだ。日本でも2007年夏頃から、番組を勝ち抜く姿がネット上の動画サイトなどで話題となる。その後、サッカー開会式での国歌斉唱など様々な場面でその歌唱力を披露している。


デビュー&ツアー [編集]
念願のレコード・デビューのチャンスをつかみ、デビュー作はアルバム「ワン・チャンス」(BMG JAPAN)。本作は、2007年7月23日付で全英初登場1位、3週間連続で1位を記録する。アメリカでは同年11月24日付、ビルボード総合チャートで、前週115位から23位へ急上昇。全世界で300万枚以上ものセールスを達成した。前述の通り、特異な経歴が受け、世界中で旋風を巻き起こしている。携帯電話のセールスマンの仕事は、半年の休暇を取り歌手としてツアー活動をしていたが2008年3月に正式にセールス職から退職。

イギリスの首相ゴードン・ブラウン首相から官邸に招待されたり、エリザベス2世から直々に賞賛の辞を受けるなど数々の栄誉を得た。その模様は彼のドキュメンタリー番組で放映された。[2]

2008年1月全英ツアー、3月に初の北米ツアー、4月にニュージーランド/オーストラリア公演のあと、2008年4月29日には世界ツアーで来日しコンサートを開き、二日間の公演は満席となった。


メディア [編集]
初回2007年6月9日、セミファイナル6月14日、 最終6月17日のBritain's Got Talentの放映後、各メディアから注目を集める。

2007年6月15日、アメリカのナショナル・パブリック・ラジオの番組 "Day to Day"で取り上げられる。2007年6月18日、アメリカのNBCのNBCナイトリーニュースと、そのケーブルニュースMSNBC で、「ポッツの勝利」という特番で取り上げられる。また2007年6月21日、NBC番組の"Today"の生中継で出場。

彼の経歴ドキュメントは『奇跡体験!アンビリバボー』(フジテレビ・2008年6月5日)[3]や、『誰も知らない泣ける歌』(日本テレビ・2009年1月13日)といった日本のテレビ番組でも放送された。2008年秋に放送された龍角散のCMでは、「誰も寝てはならぬ」を歌う彼と、その経歴に関する字幕が映し出されるものになっている。


映画化 [編集]
また、ポッツの半生を描いたハリウッド映画も米パラマウント・ピクチャーズのもとで制作されることが決定されている。この映画は上記の音楽プロデューサーのサイモン・コーウェルが、初めて映画製作を行うことになった。また、ポッツ役はプロ・アマを問わず、オーディションで決めるという。映画のタイトルはデビューアルバムと同じ「ワン・チャンス」。脚本は「最高の人生の見つけ方」で脚本を担当したジャスティン・ザッカムが執筆する。

最後にインタビューで言っていた言葉にもその人の人柄が表れていましたので紹介しますね。
「自分自身に正直であることが一番大切、そして妻を愛し続けること」だそうです
レコードの題名も”ワンチャンス”だそうです。四百万枚確か売れているといわれたと思います。
私も久しぶりに買おうかなー 音楽を聴く余裕も持ちたいですわー
ワンチャンス・・・私もチャンスは何回あったんだろうか?

数日前の日曜日だったかわかりませんが長時間と言っても6時間ぐらいです。
ラルオとハッチだけにして留守をしていました。
家に帰るとハッチの首輪がありません。問いただしても全然返答がなし(当たり前ですけど)部屋中を探したつもりですが見当たりません。
2日間首輪の無い生活でした。本人はなんてことないでしょうが此方が鈴の音でどこにいるか判断をしていました。
赤い首輪から今回は幸せの黄色い首輪にしました。首輪には名前と電話番号を書くようになっているので書きましたが家から出さないので・・・といってもドアーを開けた瞬間に出ることもあるのでいつもドアーをあけるときには気をつけています。
新しい首輪の感想は?ハッチ?なんとも無いそうです。
  
たぶん忘れたぐらいに首輪が見つかるでしょうね。
ラルとハッチがじゃれあったときにどこかに落としたんじゃないかと思っているのですがラルもハッチも何かのあってはいけないので首輪はすぐ取れるぐらいに大きくしています。