※
石広元の屋敷で数日ほど世話になったあと、その足で、徐庶は、襄陽をあえて通り過ぎ、孔明が隠遁しているという、隆中へと向かった。
教えられた道のとおりに孔明の庵へ行くと、その途中、拍子抜けするほど、あっさりと、本人と再会した。
孔明は、なだらかな丘のうえで、ひとり、身をかがめて、草を摘んでいた。
農作業をしている、というふうではない。
人の影もまばらな、のどかな光景のなかにあっても、孔明は相変わらずの着道楽だった。
だれも見ていないというのに、質のよさそうな洒落た衣を纏っているのが、孔明らしいといえばらしかった。
孔明は草叢で、丹念に植物を取って、几帳面についている土を払っている。
薬草を集めているようだ。
旅の中で、さまざまな顔を見た。
男の顔、女の顔、年寄りの顔、子供の顔、人種もばらばらな顔だ。
しかし、孔明の顔というのは、やはり際立っている。
美しさもそうであるが、男の顔とも女の顔とも判断つかない、性の曖昧な、それでいて、気高くはっきりとした線を持っている顔。
離れていた二年のあいだに、ずいぶんまた、迫力が増して、綺麗になったじゃないか、と徐庶は思った。
その容姿を形容するのに、綺麗などという言葉がすんなり出てきてしまうところも、孔明のすごさである。
見ただけで判った。
孔明は、二年のあいだに、とんでもなく成長したのだ。
その内面の成長が、外面にも大きな磨きをかけた。
そして、徐庶は、はっきりと予感した。
人生は残酷だ。
迷い、悩み、苦しみ、もがき、それでも楽しかった日々は、もうとっくに終わっていた。
はっきりとした節目を迎えないままに、俺たちの道は、すでに分けられてしまった。
俺たちは、節度というものを知り、おのれという者を知り、互いの形をはっきりと見た。
境界線のあやふやだった昔には、もう戻れないのである。
孔明は、額にかかる後れ毛を、繊細そうな細長い指先で払っていたが、その途中で、ふと気づいたように、こちらに顔を向けてきた。
唖然としている顔が、またおかしい。
とうとう吹きだすと、それを合図に、孔明が草木を踏み分けて、丘の上から駆け寄ってきた。
「いつ!」
と、孔明は言った。
「十日ほど前だ」
短く答えると、孔明は、まだ信じられない、というふうに、まじまじと、目のまえの徐庶を見た。
言葉を失っている顔や、目じりににじみはじめた涙を見て、徐庶は、こいつもまた、俺のことを忘れてはいなかったなと思って、うれしくなった。
かけがえのない友である。
これほど強烈に惹かれた人間は、ほかにはいない。
最初は、孤立している少年を見ておられなかったから、面倒を見た。
だが、そのうち、孔明から与えられる愛情が、かけがえのない大事なものになった。
孔明は、そのすべてで、自分自身の明るいところを、太陽のように照らしてくれた。
孔明がいなかったら、ここまでしっかりと学問を修めることができただろうか。
偏見に克って、人生を見つめなおすことができただろうか。
そうだな、俺は、こいつに育ててもらった人間だ。
俺がこいつに感謝しているのと同じくらい、俺もこいつから、一緒に年月を過ごしたことを、感謝される人間にならなくてはいけない。
出会ったのが孔明だったからこそ、襄陽での俺の暮らしは、いま思うと、切ないほどに、楽しいものになったのだろう。
それなのに、ずっと一緒にいることは、もう出来ないのだ。
これからは、互いに同じ方向を向きながらも、決して交わることのない道を、真っすぐ歩いていく。
出来ることは、励ましあうことだけだ。
そして、徐庶はおのれのこころを知った。
なぜ、大恩ある司馬徽のいる襄陽を無視して、まず孔明のもとへやって来たのか。
「元気そうだな」
「元気だよ。驚いた。白昼夢でも見ているのじゃなかろうか」
そうつぶやく孔明の目尻から、静かに涙が、白い頬に線を描いて落ちた。
つんけんした態度を取っているわりに、情が厚いのが孔明なのだ。
ふと、そんなに堅苦しく考えるな。突き詰めずに、今までと同じように振る舞って、のんびりと田舎で過ごせばいいじゃないかという思いが頭をよぎった。
それを振り切るようにして、徐庶は空を仰ぐ。
雲ひとつない蒼穹は、深い深い色をたたえて、果てしなく広がっている。
なんという高い空か。
かつて、まだおのれをはっきり知らなかった頃は、怖いものなど何もなかった。
空でさえも飛べるのではと信じていた。
空も飛べないこの小さな身の、ちっぽけな限界を超えるために、先へすすむ勇気をもたなければならない。
共にあろうといえば、孔明は喜んで従う。
けれど、それは互いに成長するどころか、元に戻ることを意味する。
あまりに近くにありすぎた。
だからこそ、あまりに互いに依存してしまった。
弱さすら優しく許してしまうまでに馴れ合ってしまったこの関係に、未来は用意されていない。
もしも相手をなにより大切に思うのならば、優しい過去と決別しなければならないのだ。
願わくば、孔明が、これから先も、高く飛び立てることができるように。
俺がその礎になれればいい。
深く傷ついた人間同士で、互いに支えあって生きた。
お互いの境目がわからなくなってしまうほどに、共にあることにこだわったのは、きっと寂しかったからなのだろう。
俺たちは、そういうふうに出会ったのだなと、運命の苦さを噛みしめながら、徐庶は、ゆっくりと、別れの言葉を口にした。
「孔明、俺は仕官をするだろう。そのために戻ってきた。
たぶん、おまえと顔を合わせることは、これからしばらく、ないだろう……」
終
石広元の屋敷で数日ほど世話になったあと、その足で、徐庶は、襄陽をあえて通り過ぎ、孔明が隠遁しているという、隆中へと向かった。
教えられた道のとおりに孔明の庵へ行くと、その途中、拍子抜けするほど、あっさりと、本人と再会した。
孔明は、なだらかな丘のうえで、ひとり、身をかがめて、草を摘んでいた。
農作業をしている、というふうではない。
人の影もまばらな、のどかな光景のなかにあっても、孔明は相変わらずの着道楽だった。
だれも見ていないというのに、質のよさそうな洒落た衣を纏っているのが、孔明らしいといえばらしかった。
孔明は草叢で、丹念に植物を取って、几帳面についている土を払っている。
薬草を集めているようだ。
旅の中で、さまざまな顔を見た。
男の顔、女の顔、年寄りの顔、子供の顔、人種もばらばらな顔だ。
しかし、孔明の顔というのは、やはり際立っている。
美しさもそうであるが、男の顔とも女の顔とも判断つかない、性の曖昧な、それでいて、気高くはっきりとした線を持っている顔。
離れていた二年のあいだに、ずいぶんまた、迫力が増して、綺麗になったじゃないか、と徐庶は思った。
その容姿を形容するのに、綺麗などという言葉がすんなり出てきてしまうところも、孔明のすごさである。
見ただけで判った。
孔明は、二年のあいだに、とんでもなく成長したのだ。
その内面の成長が、外面にも大きな磨きをかけた。
そして、徐庶は、はっきりと予感した。
人生は残酷だ。
迷い、悩み、苦しみ、もがき、それでも楽しかった日々は、もうとっくに終わっていた。
はっきりとした節目を迎えないままに、俺たちの道は、すでに分けられてしまった。
俺たちは、節度というものを知り、おのれという者を知り、互いの形をはっきりと見た。
境界線のあやふやだった昔には、もう戻れないのである。
孔明は、額にかかる後れ毛を、繊細そうな細長い指先で払っていたが、その途中で、ふと気づいたように、こちらに顔を向けてきた。
唖然としている顔が、またおかしい。
とうとう吹きだすと、それを合図に、孔明が草木を踏み分けて、丘の上から駆け寄ってきた。
「いつ!」
と、孔明は言った。
「十日ほど前だ」
短く答えると、孔明は、まだ信じられない、というふうに、まじまじと、目のまえの徐庶を見た。
言葉を失っている顔や、目じりににじみはじめた涙を見て、徐庶は、こいつもまた、俺のことを忘れてはいなかったなと思って、うれしくなった。
かけがえのない友である。
これほど強烈に惹かれた人間は、ほかにはいない。
最初は、孤立している少年を見ておられなかったから、面倒を見た。
だが、そのうち、孔明から与えられる愛情が、かけがえのない大事なものになった。
孔明は、そのすべてで、自分自身の明るいところを、太陽のように照らしてくれた。
孔明がいなかったら、ここまでしっかりと学問を修めることができただろうか。
偏見に克って、人生を見つめなおすことができただろうか。
そうだな、俺は、こいつに育ててもらった人間だ。
俺がこいつに感謝しているのと同じくらい、俺もこいつから、一緒に年月を過ごしたことを、感謝される人間にならなくてはいけない。
出会ったのが孔明だったからこそ、襄陽での俺の暮らしは、いま思うと、切ないほどに、楽しいものになったのだろう。
それなのに、ずっと一緒にいることは、もう出来ないのだ。
これからは、互いに同じ方向を向きながらも、決して交わることのない道を、真っすぐ歩いていく。
出来ることは、励ましあうことだけだ。
そして、徐庶はおのれのこころを知った。
なぜ、大恩ある司馬徽のいる襄陽を無視して、まず孔明のもとへやって来たのか。
「元気そうだな」
「元気だよ。驚いた。白昼夢でも見ているのじゃなかろうか」
そうつぶやく孔明の目尻から、静かに涙が、白い頬に線を描いて落ちた。
つんけんした態度を取っているわりに、情が厚いのが孔明なのだ。
ふと、そんなに堅苦しく考えるな。突き詰めずに、今までと同じように振る舞って、のんびりと田舎で過ごせばいいじゃないかという思いが頭をよぎった。
それを振り切るようにして、徐庶は空を仰ぐ。
雲ひとつない蒼穹は、深い深い色をたたえて、果てしなく広がっている。
なんという高い空か。
かつて、まだおのれをはっきり知らなかった頃は、怖いものなど何もなかった。
空でさえも飛べるのではと信じていた。
空も飛べないこの小さな身の、ちっぽけな限界を超えるために、先へすすむ勇気をもたなければならない。
共にあろうといえば、孔明は喜んで従う。
けれど、それは互いに成長するどころか、元に戻ることを意味する。
あまりに近くにありすぎた。
だからこそ、あまりに互いに依存してしまった。
弱さすら優しく許してしまうまでに馴れ合ってしまったこの関係に、未来は用意されていない。
もしも相手をなにより大切に思うのならば、優しい過去と決別しなければならないのだ。
願わくば、孔明が、これから先も、高く飛び立てることができるように。
俺がその礎になれればいい。
深く傷ついた人間同士で、互いに支えあって生きた。
お互いの境目がわからなくなってしまうほどに、共にあることにこだわったのは、きっと寂しかったからなのだろう。
俺たちは、そういうふうに出会ったのだなと、運命の苦さを噛みしめながら、徐庶は、ゆっくりと、別れの言葉を口にした。
「孔明、俺は仕官をするだろう。そのために戻ってきた。
たぶん、おまえと顔を合わせることは、これからしばらく、ないだろう……」
終
※2007年のあとがき※
いつか書きたいな、と思っていた襄陽時代の孔明と徐庶。リクエストいただいたので、いままで書きたかったことをあれやこれや書いてみました。
かなり難産だったことを正直に告白させていただきます…本編の番外編的な意味も持たせられたし、書いていてとても楽しかったのですが、それがうまく伝わる作品になったかなー?
最後まで読んでくださったみなさまに、厚く御礼申し上げますm(__)m
かなり難産だったことを正直に告白させていただきます…本編の番外編的な意味も持たせられたし、書いていてとても楽しかったのですが、それがうまく伝わる作品になったかなー?
最後まで読んでくださったみなさまに、厚く御礼申し上げますm(__)m
※2023年のあとがき※
2007年に頑張って書いた作品の一つ。
当時はいろいろ悩んだり、考えたことをすべてここに入れていたのだなあ、と感慨深く読み直した。
昔の自分のほうが考えがしっかりしていた気がする…
長い文章が多かったので、これを分ける作業が多かった。
当時、かなり気合を入れて書いていたのだな、とあらためておどろいた。
当時の自分に負けないように、どんどんいまも書いていきたいものである。
次回、「あとがきにかえて」で、「臥龍的陣」、ひとまず終了です。
ここまでお付き合いくださったみなさま、ほんとうにありがとうございました(^^♪
明日も見てくださいねー。
ではでは、今日がよりよい一日になりますように!