馬謖、字を幼常。
馬家の五男坊であり、弁舌さわやかな好青年(自称)。
しかし彼が渋い顔をして辞令を見つめているのは、なにも山椒の実を食べたからではない。
卓の上には劉備直筆の辞令書。
そして卓の向いがわでは、荊州から連れてきた老いた母が、しくしくと泣いている。
部屋には、ほかに馬良もいた。
これは旅装も解いていない状態で、その場に立ち尽くしている。
「なにかの間違いでございます。ええ、そうですとも」
と、馬謖は鼻をつんと逸らせて気丈に言う。
だが、強気な言をうけて、辞令の上の言葉が魔法のように変わるというわけではなく、そこには変わらず、武骨な文字で
「綿竹・成都の令を命ずる。ガンバレ」
とあった。
馬謖はがたん、と乱暴に席を立ち、辞令を床に叩きつけた。
「やっぱり納得なんてできないっ! 母上、兄上、わたくし、明日にでも宮城の主公のもとへ参り、この辞令は別の者に渡すものではなかったかと糺してまいります!」
「よさぬか、無礼者! そのようなことをしたら、馬家全体に累が及ぼうぞ!」
「なにを言うのです、良や! 謖がこのような低位なわけがない! これは馬家に対する陰謀かもしれませぬ!」
嗚呼、この世の終わりです、などと大げさになげく母親の姿にあきれつつ、馬良は、そっと戸口から、どうしたらよいものかと顔を覗かせている従者に、とりあえず荷をほどいておくように、と伝えた。
このたび、馬良は劉備に成都に呼び寄せられ、孔明と並んで補佐につくよう命じられた。
だが、それとほぼ同時に、弟の馬謖と母親より、至急、成都にこられたしという手紙を受け取っていたのである。
詳細はあきらかではなかったが、内容がともかく切羽詰っていたので、何事かと単身、駆けつけた馬良の前に突きつけられたのが、馬謖に与えられた『辞令』であった。
馬良は、ああ、またかとウンザリして、怒りに燃える母親とわがままな弟を諭すように言う。
「謖、この辞令になんの不満がある? そなたはいくつだ。年齢にはとても見合わぬほどの高位と思うのだがな」
それを聞いた母親が、んまー! と抗議の声を挙げた。
「齢二十六で片田舎の令! それが高位と言えるのですか!」
「十分でございますよ。謖がなにか大きな手柄を立てたというわけでもなし。だいたい、母上はだれを基準に、低いだの高いだのおっしゃっておられるのですか」
「決まっております、諸葛孔明どのです!」
やはりな、と思いつつ、長旅の疲れも有り、痛んできたこめかみを押さえつつ、馬良は言った。
「くらべる相手が悪すぎます。孔明と謖では月とすっぽん、格がちがう」
「もちろん、すっぽんは孔明どののほうでしょうね?」
「ウチがすっぽんです。しかし謖よ、不満があるという、おまえのその根拠のない自信はどこからくるのだ?」
馬謖は、分からず屋の兄にいらいらしながら、叫ぶように言った。
「わたくしの全身から理由があふれているでしょう! この誰より優れたわたくしが、なぜに『令』などという低位! 主公の目は」
「おっと、待て。それ以上口にしたら、わたしはそなたを密告せねばならなくなる」
「密告!」
「なんという子でしょう! そんなことをしたら、十歳までおねしょをしていたことをみなにばらしますよ!」
「母上は口をお出しにならないでください。謖に甘すぎます! それに、なんだって亮くんばかり目の仇になさるのですか」
「なにを言うのです、そなたは悔しくないのですか? 徐州からの難民が、あれよあれよというまに劉左将軍に取り入って、いつの間にやら軍師将軍ですって? しかも親戚だというのに、わたくしたちになんの恩恵も与えてくださらない。しかも、そなたのほうが優秀だというのに、彼の御方のほうが高位というこの理不尽! 母は黙っておられませぬ。これはもしかしたら、孔明どのの、馬家による嫌がらせなのかも!」
孔明が馬家に悪感情をもっている、ということはない。
むしろ、馬良の母が、諸葛家に悪感情を持っている。
馬良の母は、孔明の弟、均の結婚をめぐるいざこざで、中心となって、その幸福に水を差しまくった女性なのである。
ああ、父上がしっかりしておられたら(馬家の隠居は最近、ぼけかけていた)、兄上がご健勝であられたら、と馬良は嘆息する。
年々、母親は頑なになって、老いが迫っているのも自覚しているせいか、五男坊への偏愛が増しているように思える。
「お待ちくだされ、なにを根拠にそのような。わたくしは、亮くんはもっと高位であってもおかしくないと思っておりますよ。てっきり蜀郡太守になるのではと思っていたのですからね。軍師将軍と左将軍府事の兼任ということは、主公になにかのお考えがあるのでしょう。わたくしが思うに、亮くんがまだ若すぎるので、しばし経験を積ませ、それからもっと高位につけようという、主公のお気遣いかと思われます」
「では、うちにはどのような配慮が?」
そうだ、このひとたちは、常に自分が世の中の中心でいなければ気が済まない性質であるのだった、と心底ウンザリしつつ、馬良は苛立ちを抑えて言った。
「配慮はございます。それが、馬謖のこのたびの『厚遇』でございましょう」
「納得できませぬ!」
「納得するのだ! まったく、手に入らぬおもちゃを欲しがってぐずる子供のようではないか。いつであったか、人間は位じゃない、黙っていてもにじみ出る風格だ、と言っていたではないか。それがどうしてコロリと変わったのだ」
「兄上、兄上は、孔明どのの主簿をご存知か」
孔明の主簿、と聞いて、馬良はすこしびくりとする。
馬良は性格の好さから、たいがいの人物に好かれるし、それだけが唯一の自分のとりえだと思っていたのだが、どうもほかと勝手が違うのが、孔明の主簿の胡偉度であった。
地味にしているものの、よくよく見れば端麗な容姿を持つ青年で、孔明と実の弟の均が似ていないものだから、偉度のほうが、孔明の弟のようにさえ見える。
しかし、見た目は桜花のように華やかで儚げでも、その実際はへびいちご。
仕事のうえで偉度と対決することが何度もあったのだが、そのたびに馬良は心の臓が止まるような思いをしてきた。
なぜだか、馬謖よりも年下のこの青年、怖いのである。
「偉度どのがどうした」
「おかしいのです。このあいだ、成都の宮城で会ったのですが、やはり位は変わらず、孔明どのの主簿ということでした」
「それのどこがおかしい。官位についておらぬというところがか?」
「そうではありませぬ。兄上、胡偉度は、ただの主簿でございましょう? それなのに、禄がわたくしの数倍も高いのです。ほかの将軍方と肩を並べられるほどなのですぞ?」
「まことか! というか、よく人さまの給付を聞けたものだな」
「そこはそれ、謖の弁舌の巧みさゆえでございます」
と自慢げに胸を張る弟を、くらくらして馬良は見た。
この図々しさ、大物の兆しだといって父や母はもてはやしていたが、単に気遣いが大量不足しているだけである。
「孔明殿は、偉度殿を贔屓されているとしか思えませぬ。兄上、ですからわたくしは腹を立てておるのです!」
孔明は、人事にあたり、贔屓を反映させることはない。
それに、今回の人事は、孔明よりも、劉備の意向が強く出ている。
益州方に遠慮といっていいほどに配慮した人事となっているのだ。
そのなかで、胡偉度だけが主簿という地位にもかかわらず、禄が高い、という。
それを聞き、馬良はようやく疑問が解けたような思いがした。
馬謖よりもずっと若いというのに、孔明の主簿を立派に勤め上げている能力の高さ、そして時折見せる、背筋が寒くなるほどのつめたい眼差し。
孫子の用間篇の一節が思い浮かび、馬良は納得する。
曰く、
「三軍のこと、間(間者)より親しきはなく、賞(賞与)は間より厚きはなく、事は間より密なるはなし。」
そういうことであったか…
「なにを納得しておられるのです、兄上? あの主簿め、わたくしより年下だというのに、此度の人事に不満があると打ち明けたら、そんなことは、わたしのしったことじゃない、文句があるなら、だれもがそれはおかしいと言ってくれるように、実力をつけなさい、と言うのですよ!」
「正論だ」
「正論でも何でも、年上に対して、この口の利き方は許せませぬ!」
「許せなかろうと、なんであろうと、兄としては、おまえがウカツにも、主公の決定に不服があると口外したことが許せぬぞ」
「う。それはそれ、ともかく、わたくしは、明日、ひとまず孔明どのに抗議をしに参ります!」
「亮くんに? なぜ?」
「あの主簿が、主公に言う前に、孔明どのに言えば、なんとかなるかもしれないと」
ならぬだろう、と馬良は思ったが、もしかしたら孔明が偉度に、そのように指示をしたのかもしれない。しばらく黙っていることにしようと判断し、息巻く弟を宥めるのに終始した。
※
「なんともならぬであろう」
「わかっておりますよ。そこはそれ、趙将軍の口から、ずばっとお願いいたします」
趙雲が、俺は忙しい、といって踵を返そうとすると、偉度はあわてて引き止めた。
宮城の廊下である。
ほかに人はまばらで、だれか通りすぎたとしても、いそがしいのか目礼だけして足早に去っていく。
それはそうであろう。
人事が刷新されたことで、仕事は山のように増えた。
趙雲としてもひまではなかったら、偉度の話をさっさと切り上げようとしていた。
「まあまあ、お待ちなさい。あの馬幼常とかいう、白まゆげの弟にはみな困っているのですよ。ともかくわがままでうぬぼれや。協調性のカケラもない。悪気がないから余計に注意がしづらいし」
「白まゆげ…それは馬季常どののことか」
「そうですよ、白まゆげ。ほかに呼び様がないでしょう。白まゆげ。ちなみに黄漢升さまは山羊髯じいさま、張益徳さまは虎髯の親父さん」
「おまえたち、俺のことも妙な渾名で呼んでいるのだろうな」
「ご安心を、『カッコイイ趙将軍』」
「嘘をつけ! くだらぬ、俺は帰るぞ」
「わかりましたよ、たしかに嘘です。趙将軍は、隙がないのでよい渾名が付けられません。そんな貴方様にぜひお願いしたい。そろそろ左将軍府にやってくる馬幼常に、『身の丈に過ぎる高位を頂戴していて、文句を言うな』。そのひとことでかまいませぬ」
「おまえが言えばよかろう。いや、これは軍師の仕事だ。軍師はなにをしている」
「熱を出して寝込んでおります」
風邪、と聞いて趙雲の顔色が変わるのを、胡偉度はいつものことだが、と思いつつ、呆れて見た。
「相変わらず、軍師に関する諸事項にはするどい関心を示される。お気の毒な趙将軍、熱にうなされる軍師のかわりに、ぜひこの面倒な仕事をまかされていただきたい」
「俺のなにが気の毒だというのだ。軍師はなぜ熱を?」
「昨日、宮城に主公のお召しで参内されまして、その際に、阿斗さまと対面されたのです。阿斗さまは、軍師に一緒に遊んでほしいとおっしゃられまして、軍師もそれに乗ったのです。子供が苦手なくせに、よくやるなと、わたくしなんぞは思ったのですが」
「ひと言多い。軍師にとって、阿斗さまは特別なお子なのだ。主公の軍師になられたちょうど同じころに生を受けられた御子だからな。で?」
「軍師と阿斗さまたちは、目隠し鬼を始められたのですが、軍師が鬼になったとき、見事にとろいところを披露なさいまして、中庭の池にどぶん、と」
「それで風邪を引いたわけか」
「すぐに着替えれば問題がなかったのですよ。池に落ちた軍師におどろいた阿斗様が泣いてしまわれて、軍師がぬれねずみのくせして宥めておられたものですから、そのあいだに体が冷えて、風邪を引いたのです。莫迦ですよ、あのひと」
偉度は、自分以外に孔明が優しくしているところを見ると臍を曲げる、幼子のようなところがある。
今回もそれなのだ。
その性質をよく知っている趙雲は、ぶちぶちいう偉度の言葉を流した。
「あとで見舞いに行かねばならぬな。それはそうと、馬謖はどうするのだ」
「どうするもこうするも、あの意味不明なほどに高すぎる鼻を、趙将軍がいちど、ぺしゃんこにするべきでございます」
「おまえがやればよかろう」
「わたくしではだめです。位も低いし、年も下。説得力がございませぬ。その点、趙将軍は完璧」
「どこがどう、完璧だ?」
「ほら、噂をすればなんとやら」
と、偉度が示した先には、意気揚々と馬謖が左将軍府の廊下を歩いてくるところであった。
だが、廊下の途中にいる趙雲の姿をみて、ぎくりとした様子で、足を止める。
それでも、引き返すのは誇りが許さないとでもおもっているのか、引きつった笑みを浮かべつつ、近づいてきた。
「お久しぶりでございますな、趙将軍。軍師はいずれに?」
「風邪を引いて自邸で寝込んでいるそうだ」
「それはいけませぬ。わたくしの話を聞いてもらいがてら、お見舞いとすることにいたしましょう」
それを聞いて、趙雲は不本意ながら、ここでこやつを止めねばならぬ、と決めた。
つづく……
馬家の五男坊であり、弁舌さわやかな好青年(自称)。
しかし彼が渋い顔をして辞令を見つめているのは、なにも山椒の実を食べたからではない。
卓の上には劉備直筆の辞令書。
そして卓の向いがわでは、荊州から連れてきた老いた母が、しくしくと泣いている。
部屋には、ほかに馬良もいた。
これは旅装も解いていない状態で、その場に立ち尽くしている。
「なにかの間違いでございます。ええ、そうですとも」
と、馬謖は鼻をつんと逸らせて気丈に言う。
だが、強気な言をうけて、辞令の上の言葉が魔法のように変わるというわけではなく、そこには変わらず、武骨な文字で
「綿竹・成都の令を命ずる。ガンバレ」
とあった。
馬謖はがたん、と乱暴に席を立ち、辞令を床に叩きつけた。
「やっぱり納得なんてできないっ! 母上、兄上、わたくし、明日にでも宮城の主公のもとへ参り、この辞令は別の者に渡すものではなかったかと糺してまいります!」
「よさぬか、無礼者! そのようなことをしたら、馬家全体に累が及ぼうぞ!」
「なにを言うのです、良や! 謖がこのような低位なわけがない! これは馬家に対する陰謀かもしれませぬ!」
嗚呼、この世の終わりです、などと大げさになげく母親の姿にあきれつつ、馬良は、そっと戸口から、どうしたらよいものかと顔を覗かせている従者に、とりあえず荷をほどいておくように、と伝えた。
このたび、馬良は劉備に成都に呼び寄せられ、孔明と並んで補佐につくよう命じられた。
だが、それとほぼ同時に、弟の馬謖と母親より、至急、成都にこられたしという手紙を受け取っていたのである。
詳細はあきらかではなかったが、内容がともかく切羽詰っていたので、何事かと単身、駆けつけた馬良の前に突きつけられたのが、馬謖に与えられた『辞令』であった。
馬良は、ああ、またかとウンザリして、怒りに燃える母親とわがままな弟を諭すように言う。
「謖、この辞令になんの不満がある? そなたはいくつだ。年齢にはとても見合わぬほどの高位と思うのだがな」
それを聞いた母親が、んまー! と抗議の声を挙げた。
「齢二十六で片田舎の令! それが高位と言えるのですか!」
「十分でございますよ。謖がなにか大きな手柄を立てたというわけでもなし。だいたい、母上はだれを基準に、低いだの高いだのおっしゃっておられるのですか」
「決まっております、諸葛孔明どのです!」
やはりな、と思いつつ、長旅の疲れも有り、痛んできたこめかみを押さえつつ、馬良は言った。
「くらべる相手が悪すぎます。孔明と謖では月とすっぽん、格がちがう」
「もちろん、すっぽんは孔明どののほうでしょうね?」
「ウチがすっぽんです。しかし謖よ、不満があるという、おまえのその根拠のない自信はどこからくるのだ?」
馬謖は、分からず屋の兄にいらいらしながら、叫ぶように言った。
「わたくしの全身から理由があふれているでしょう! この誰より優れたわたくしが、なぜに『令』などという低位! 主公の目は」
「おっと、待て。それ以上口にしたら、わたしはそなたを密告せねばならなくなる」
「密告!」
「なんという子でしょう! そんなことをしたら、十歳までおねしょをしていたことをみなにばらしますよ!」
「母上は口をお出しにならないでください。謖に甘すぎます! それに、なんだって亮くんばかり目の仇になさるのですか」
「なにを言うのです、そなたは悔しくないのですか? 徐州からの難民が、あれよあれよというまに劉左将軍に取り入って、いつの間にやら軍師将軍ですって? しかも親戚だというのに、わたくしたちになんの恩恵も与えてくださらない。しかも、そなたのほうが優秀だというのに、彼の御方のほうが高位というこの理不尽! 母は黙っておられませぬ。これはもしかしたら、孔明どのの、馬家による嫌がらせなのかも!」
孔明が馬家に悪感情をもっている、ということはない。
むしろ、馬良の母が、諸葛家に悪感情を持っている。
馬良の母は、孔明の弟、均の結婚をめぐるいざこざで、中心となって、その幸福に水を差しまくった女性なのである。
ああ、父上がしっかりしておられたら(馬家の隠居は最近、ぼけかけていた)、兄上がご健勝であられたら、と馬良は嘆息する。
年々、母親は頑なになって、老いが迫っているのも自覚しているせいか、五男坊への偏愛が増しているように思える。
「お待ちくだされ、なにを根拠にそのような。わたくしは、亮くんはもっと高位であってもおかしくないと思っておりますよ。てっきり蜀郡太守になるのではと思っていたのですからね。軍師将軍と左将軍府事の兼任ということは、主公になにかのお考えがあるのでしょう。わたくしが思うに、亮くんがまだ若すぎるので、しばし経験を積ませ、それからもっと高位につけようという、主公のお気遣いかと思われます」
「では、うちにはどのような配慮が?」
そうだ、このひとたちは、常に自分が世の中の中心でいなければ気が済まない性質であるのだった、と心底ウンザリしつつ、馬良は苛立ちを抑えて言った。
「配慮はございます。それが、馬謖のこのたびの『厚遇』でございましょう」
「納得できませぬ!」
「納得するのだ! まったく、手に入らぬおもちゃを欲しがってぐずる子供のようではないか。いつであったか、人間は位じゃない、黙っていてもにじみ出る風格だ、と言っていたではないか。それがどうしてコロリと変わったのだ」
「兄上、兄上は、孔明どのの主簿をご存知か」
孔明の主簿、と聞いて、馬良はすこしびくりとする。
馬良は性格の好さから、たいがいの人物に好かれるし、それだけが唯一の自分のとりえだと思っていたのだが、どうもほかと勝手が違うのが、孔明の主簿の胡偉度であった。
地味にしているものの、よくよく見れば端麗な容姿を持つ青年で、孔明と実の弟の均が似ていないものだから、偉度のほうが、孔明の弟のようにさえ見える。
しかし、見た目は桜花のように華やかで儚げでも、その実際はへびいちご。
仕事のうえで偉度と対決することが何度もあったのだが、そのたびに馬良は心の臓が止まるような思いをしてきた。
なぜだか、馬謖よりも年下のこの青年、怖いのである。
「偉度どのがどうした」
「おかしいのです。このあいだ、成都の宮城で会ったのですが、やはり位は変わらず、孔明どのの主簿ということでした」
「それのどこがおかしい。官位についておらぬというところがか?」
「そうではありませぬ。兄上、胡偉度は、ただの主簿でございましょう? それなのに、禄がわたくしの数倍も高いのです。ほかの将軍方と肩を並べられるほどなのですぞ?」
「まことか! というか、よく人さまの給付を聞けたものだな」
「そこはそれ、謖の弁舌の巧みさゆえでございます」
と自慢げに胸を張る弟を、くらくらして馬良は見た。
この図々しさ、大物の兆しだといって父や母はもてはやしていたが、単に気遣いが大量不足しているだけである。
「孔明殿は、偉度殿を贔屓されているとしか思えませぬ。兄上、ですからわたくしは腹を立てておるのです!」
孔明は、人事にあたり、贔屓を反映させることはない。
それに、今回の人事は、孔明よりも、劉備の意向が強く出ている。
益州方に遠慮といっていいほどに配慮した人事となっているのだ。
そのなかで、胡偉度だけが主簿という地位にもかかわらず、禄が高い、という。
それを聞き、馬良はようやく疑問が解けたような思いがした。
馬謖よりもずっと若いというのに、孔明の主簿を立派に勤め上げている能力の高さ、そして時折見せる、背筋が寒くなるほどのつめたい眼差し。
孫子の用間篇の一節が思い浮かび、馬良は納得する。
曰く、
「三軍のこと、間(間者)より親しきはなく、賞(賞与)は間より厚きはなく、事は間より密なるはなし。」
そういうことであったか…
「なにを納得しておられるのです、兄上? あの主簿め、わたくしより年下だというのに、此度の人事に不満があると打ち明けたら、そんなことは、わたしのしったことじゃない、文句があるなら、だれもがそれはおかしいと言ってくれるように、実力をつけなさい、と言うのですよ!」
「正論だ」
「正論でも何でも、年上に対して、この口の利き方は許せませぬ!」
「許せなかろうと、なんであろうと、兄としては、おまえがウカツにも、主公の決定に不服があると口外したことが許せぬぞ」
「う。それはそれ、ともかく、わたくしは、明日、ひとまず孔明どのに抗議をしに参ります!」
「亮くんに? なぜ?」
「あの主簿が、主公に言う前に、孔明どのに言えば、なんとかなるかもしれないと」
ならぬだろう、と馬良は思ったが、もしかしたら孔明が偉度に、そのように指示をしたのかもしれない。しばらく黙っていることにしようと判断し、息巻く弟を宥めるのに終始した。
※
「なんともならぬであろう」
「わかっておりますよ。そこはそれ、趙将軍の口から、ずばっとお願いいたします」
趙雲が、俺は忙しい、といって踵を返そうとすると、偉度はあわてて引き止めた。
宮城の廊下である。
ほかに人はまばらで、だれか通りすぎたとしても、いそがしいのか目礼だけして足早に去っていく。
それはそうであろう。
人事が刷新されたことで、仕事は山のように増えた。
趙雲としてもひまではなかったら、偉度の話をさっさと切り上げようとしていた。
「まあまあ、お待ちなさい。あの馬幼常とかいう、白まゆげの弟にはみな困っているのですよ。ともかくわがままでうぬぼれや。協調性のカケラもない。悪気がないから余計に注意がしづらいし」
「白まゆげ…それは馬季常どののことか」
「そうですよ、白まゆげ。ほかに呼び様がないでしょう。白まゆげ。ちなみに黄漢升さまは山羊髯じいさま、張益徳さまは虎髯の親父さん」
「おまえたち、俺のことも妙な渾名で呼んでいるのだろうな」
「ご安心を、『カッコイイ趙将軍』」
「嘘をつけ! くだらぬ、俺は帰るぞ」
「わかりましたよ、たしかに嘘です。趙将軍は、隙がないのでよい渾名が付けられません。そんな貴方様にぜひお願いしたい。そろそろ左将軍府にやってくる馬幼常に、『身の丈に過ぎる高位を頂戴していて、文句を言うな』。そのひとことでかまいませぬ」
「おまえが言えばよかろう。いや、これは軍師の仕事だ。軍師はなにをしている」
「熱を出して寝込んでおります」
風邪、と聞いて趙雲の顔色が変わるのを、胡偉度はいつものことだが、と思いつつ、呆れて見た。
「相変わらず、軍師に関する諸事項にはするどい関心を示される。お気の毒な趙将軍、熱にうなされる軍師のかわりに、ぜひこの面倒な仕事をまかされていただきたい」
「俺のなにが気の毒だというのだ。軍師はなぜ熱を?」
「昨日、宮城に主公のお召しで参内されまして、その際に、阿斗さまと対面されたのです。阿斗さまは、軍師に一緒に遊んでほしいとおっしゃられまして、軍師もそれに乗ったのです。子供が苦手なくせに、よくやるなと、わたくしなんぞは思ったのですが」
「ひと言多い。軍師にとって、阿斗さまは特別なお子なのだ。主公の軍師になられたちょうど同じころに生を受けられた御子だからな。で?」
「軍師と阿斗さまたちは、目隠し鬼を始められたのですが、軍師が鬼になったとき、見事にとろいところを披露なさいまして、中庭の池にどぶん、と」
「それで風邪を引いたわけか」
「すぐに着替えれば問題がなかったのですよ。池に落ちた軍師におどろいた阿斗様が泣いてしまわれて、軍師がぬれねずみのくせして宥めておられたものですから、そのあいだに体が冷えて、風邪を引いたのです。莫迦ですよ、あのひと」
偉度は、自分以外に孔明が優しくしているところを見ると臍を曲げる、幼子のようなところがある。
今回もそれなのだ。
その性質をよく知っている趙雲は、ぶちぶちいう偉度の言葉を流した。
「あとで見舞いに行かねばならぬな。それはそうと、馬謖はどうするのだ」
「どうするもこうするも、あの意味不明なほどに高すぎる鼻を、趙将軍がいちど、ぺしゃんこにするべきでございます」
「おまえがやればよかろう」
「わたくしではだめです。位も低いし、年も下。説得力がございませぬ。その点、趙将軍は完璧」
「どこがどう、完璧だ?」
「ほら、噂をすればなんとやら」
と、偉度が示した先には、意気揚々と馬謖が左将軍府の廊下を歩いてくるところであった。
だが、廊下の途中にいる趙雲の姿をみて、ぎくりとした様子で、足を止める。
それでも、引き返すのは誇りが許さないとでもおもっているのか、引きつった笑みを浮かべつつ、近づいてきた。
「お久しぶりでございますな、趙将軍。軍師はいずれに?」
「風邪を引いて自邸で寝込んでいるそうだ」
「それはいけませぬ。わたくしの話を聞いてもらいがてら、お見舞いとすることにいたしましょう」
それを聞いて、趙雲は不本意ながら、ここでこやつを止めねばならぬ、と決めた。
つづく……