続・説教将軍、悪疫に伏す
風邪をすっかり治して、すぐさま職務に復帰した孔明。
しかし、たった一日休んだだけというのに、こなさねばならぬ仕事は、誇張でもなんでもなく山のようにあった。
事実、左将軍府にきたとたん、文机のうえに、崩れかけの書簡の山がどっさり載っていたのである。
仕事が難解であればあるほど、そして忙しければ忙しいほど燃えるのも孔明である。
気合を入れて、早速、片っ端からつぎつぎと書面に目を通し、目にも止まらぬ早業で、決裁を下していったのであるが…
「乗りに乗っておりますな」
と、となりに机を構える胡偉度が、わき目も振らずに書面に目を落としつづける孔明に言った。
とくに用もないのに話しかけてくるのは偉度の癖である。
孔明が返事をしないとわかっていても、懲りずに話しかけてくるのだ。
いちど、なぜそんな無駄なことをするのか、とたずねたことがあるが、答えはやはり曖昧なもので、なんとなく、ということであった。
おそらく、単にさびしいのだろう。
「風邪もすっかりよくなられたようで」
「お陰さまでな」
と、病み上がりらしい、掠れた声で、孔明はちゃっちゃと筆を動かしつつ、言う。
「あの方が、風邪を持っていってくださったからでしょう」
ぴたり、と孔明は筆を止め、そ知らぬ顔をして書面を読むフリをしている主簿のほうを見る。
「まことか」
「本日は、ご出仕なさらず、休んでおられるとか。ひどい熱があるご様子ですよ。うつされた風邪、というのは厄介でございますからな」
鬼の霍乱、と憎まれ口を叩く偉度を尻目に、孔明は筆を置くと、立ち上がった。
「どちらへ」
「わかっておるだろう。すぐ戻るゆえ、そなたはここで留守を頼む」
すると偉度は、あからさまに迷惑そうにかたちのよい眉をしかめた。
「ご冗談を。軍師がいらっしゃらなければ、すべてはわたくしに集中いたします」
「がんばれ」
「がんばりたくありません。わたくしも参りますよ。御者を呼ぶ手間が惜しい。わたくしが手綱を持ちますゆえ、あなたさまは馬車に揺られているあいだ、すこしでも仕事をやっつけておしまいなさい」
孔明は、偉度に言われるまま、書簡をまとめ、それから執務室の奥にある、仮眠をとるためにつかっている小部屋に行くと、以前に自分で処方した、感冒に効く薬の入った箱をひらいた。
感冒、といっても、鼻にくるもの、咽喉にくるもの、熱ばかりが高くなるもの、さまざまである。
わたしはこれであったから、と思い、孔明は咽喉からくる感冒の薬を持ち、それから咽喉の痛みに効く煎じ茶も持ち出した。
これは咽喉に利く、清涼感のつよい葉をあつめて煎じたもので、気付け薬にも使われることがある。
咽喉がひりつくときには一番だ。
※
孔明が左将軍府を出るころには、偉度はすでに馬車の用意をして、表で待っていた。
御者台に座ってすました顔をしている偉度を見て、ふと孔明は、おや、この子はまた背が伸びたのではないかな、と思う。
以前は偉度の地面に映える影法師は、門の前にたつ孔明の足元まで伸びなかった。
「背が伸びたか」
馬車に乗り込みつつ孔明がたずねると、偉度は妙なことを、と呟きつつ、答えた。
「わたくしの背を、なぜ気になさる」
「それは気にするだろう。どれくらいになったのだ。いいなさい」
「七尺は越えました」
「そうか、ならば、あとでおまえの屋敷に、あらためて衣を届けに行く」
「衣?」
素っ頓狂な声をあげつつ、偉度は馬車を走らせる。
後ろに乗った孔明は、さっそく書簡を開いて、ああでもない、こうでもない、と考えながら、器用に偉度の問いに答えた。
「わたしの着なくなった衣をやろう。丈を詰めれば、まだ十分に着られるはずだぞ」
「あなたの衣を、わたしに? 衣の贈与は相当な仲でなければふつうはしないものです。それにもうひとつ意味が…邪推するものが出ますぞ」
「その、もうひとつの意味とやらは知らぬな。それに、邪推したい者には、させればよいではないか。勿体無いのだよ。わたしの衣を着こなせる物は、なかなかない」
「白まゆげの弟はどうです。中身はともかく、趣味は悪くなかったから」
「色が合わないよ。あれは案外、地黒だからな。と、するとおまえしかおらぬのだ。材質はどれも折り紙つきだぞ。不満か?」
「ぞっとしませんね」
そうか、と答えつつ、孔明は案件をすでに二つ、まとめていた。
同時進行で、脳裏に、自分の衣をまとった偉度の姿が浮かぶ。
襄陽時代に、やはり二十を過ぎたころに身にまとっていたものだ。
材質が上等なので、大事にとっておいたから、傷みもせずに、まだ着ることが出来る。
とはいえ、色合いが、三十を越した孔明には、華かにすぎるのである。
だから、二十を過ぎたばかりの偉度であれば、着こなしも洗練されているのだし、うまく着てくれるだろうとおもったのだが。
がらがらと馬車が進む中、ぼそりと、御者台の若者は言った。
「どうしても、というのであれば、戴きます」
「うむ、どうしてもなのだよ。では、あとで届けさせる」
やれやれ、これで物を無駄にしなくて済んだ、と孔明は喜び、偉度もまた、いつもなら冷笑的な笑みを浮かべるのが常のこの青年にしてはめずらしく、子供のように嬉しそうにしていたのであるが、それは孔明には見えなかった。
※
趙雲の屋敷は、孔明の屋敷のほど近いところにある。
敷地が広く、屋敷は狭いというつくりで、広い敷地のほとんどが、あつめた馬を納めておく厩である。
趙雲は、ヒマができると厩にいって、馬だの驢馬だのの世話をして時間を費やしている。
馬専用の、立派な井戸もあるほどだ。
家人のほとんどは、趙雲のあつめた馬の世話をする者たちで、実際に屋敷の中で働いている者はすくない。
趙雲には妻がいないため、家令が屋敷の一切を取り仕切る形となる。
とはいえ、どの世界にもお節介は存在するわけで、あるじに伴侶のいないことを気の毒に思った家令やそのほかの思惑をもつ一派は、趙雲に嫁をもらってもらう、嫁でなくてもせめて妾を、と運動をはじめた。
すなわち、屋敷に住み込みで雇う飯炊き女などに、自分たちに縁のある、若い美形の娘ばかりをあつめたのである。
趙雲の後宮屋敷、などと悪口を聞くものもいるが、たしかに屋敷はある種の華やぎがある。
しかし、肝心のあるじが娘たちに感心がないために、咲き誇る花は、客人の目を楽しませるばかりで、本来の目的をまるで果たしていない。
趙雲のもとに集った娘を、横取りしてやれと思う不埒な者もいて、このところ、趙雲の屋敷には、来訪者があとを絶たないとかなんとか。
「いい加減に、身を固めてしまえばよいものを」
「本当にそう思ってらっしゃいますか」
偉度の問いに、孔明は即答した。
「いいや」
「だったら、冗談でも薄情なことをおっしゃいますな。趙将軍が二度と病床から起き上がらなくなったら、どうなさる」
「? 子龍がなぜ、わたしのことばで、ずっと寝込むことになる?」
「いいから、黙ってらっしゃい。ごめんくださいまし、軍師将軍の主簿、胡偉度でございます。こたびはあるじとともに趙将軍のお見舞いに参じた次第にございます」
偉度は、とんとん、と扉を叩くのであるが、返事はまったくない。
おかしいな、とつぶやき、そっと門扉を開くと、やはりだれの姿もなく、屋敷内はしんと静まり返っているのであった。
「みなで、療養のために温泉にでも出かけたのではないか」
呑気にいう孔明に、偉度は、あきれたように答えた。
「だったら、留守居のひとりくらいは残しておくものでしょう。仕方がない。入りますよ」
孔明が静止するのも待たず、偉度はさっさと趙雲の屋敷に入っていく。
趙雲の屋敷は厩の立派さがひときわめにつくもので、風向きによっては獣臭い。
それを緩和するために、ふだんから玄関には高級な香が焚かれており、これは唯一といってよい、趙雲の使用するぜいたく品なのである。
ずかずかと中に入り込んでいく偉度のあとに、気まずくついていく孔明である。
木蓮や柘植の木の青葉が、陽光にすけて、鮮やかな緑を見せているのが目に映える。
遠くから、馬のいななきがたまに聞こえてくるので、まったく誰もいない、というわけではなさそうだ。
つづく……
お待たせしましたー。
説教将軍シリーズ、まだつづく。
風邪をすっかり治して、すぐさま職務に復帰した孔明。
しかし、たった一日休んだだけというのに、こなさねばならぬ仕事は、誇張でもなんでもなく山のようにあった。
事実、左将軍府にきたとたん、文机のうえに、崩れかけの書簡の山がどっさり載っていたのである。
仕事が難解であればあるほど、そして忙しければ忙しいほど燃えるのも孔明である。
気合を入れて、早速、片っ端からつぎつぎと書面に目を通し、目にも止まらぬ早業で、決裁を下していったのであるが…
「乗りに乗っておりますな」
と、となりに机を構える胡偉度が、わき目も振らずに書面に目を落としつづける孔明に言った。
とくに用もないのに話しかけてくるのは偉度の癖である。
孔明が返事をしないとわかっていても、懲りずに話しかけてくるのだ。
いちど、なぜそんな無駄なことをするのか、とたずねたことがあるが、答えはやはり曖昧なもので、なんとなく、ということであった。
おそらく、単にさびしいのだろう。
「風邪もすっかりよくなられたようで」
「お陰さまでな」
と、病み上がりらしい、掠れた声で、孔明はちゃっちゃと筆を動かしつつ、言う。
「あの方が、風邪を持っていってくださったからでしょう」
ぴたり、と孔明は筆を止め、そ知らぬ顔をして書面を読むフリをしている主簿のほうを見る。
「まことか」
「本日は、ご出仕なさらず、休んでおられるとか。ひどい熱があるご様子ですよ。うつされた風邪、というのは厄介でございますからな」
鬼の霍乱、と憎まれ口を叩く偉度を尻目に、孔明は筆を置くと、立ち上がった。
「どちらへ」
「わかっておるだろう。すぐ戻るゆえ、そなたはここで留守を頼む」
すると偉度は、あからさまに迷惑そうにかたちのよい眉をしかめた。
「ご冗談を。軍師がいらっしゃらなければ、すべてはわたくしに集中いたします」
「がんばれ」
「がんばりたくありません。わたくしも参りますよ。御者を呼ぶ手間が惜しい。わたくしが手綱を持ちますゆえ、あなたさまは馬車に揺られているあいだ、すこしでも仕事をやっつけておしまいなさい」
孔明は、偉度に言われるまま、書簡をまとめ、それから執務室の奥にある、仮眠をとるためにつかっている小部屋に行くと、以前に自分で処方した、感冒に効く薬の入った箱をひらいた。
感冒、といっても、鼻にくるもの、咽喉にくるもの、熱ばかりが高くなるもの、さまざまである。
わたしはこれであったから、と思い、孔明は咽喉からくる感冒の薬を持ち、それから咽喉の痛みに効く煎じ茶も持ち出した。
これは咽喉に利く、清涼感のつよい葉をあつめて煎じたもので、気付け薬にも使われることがある。
咽喉がひりつくときには一番だ。
※
孔明が左将軍府を出るころには、偉度はすでに馬車の用意をして、表で待っていた。
御者台に座ってすました顔をしている偉度を見て、ふと孔明は、おや、この子はまた背が伸びたのではないかな、と思う。
以前は偉度の地面に映える影法師は、門の前にたつ孔明の足元まで伸びなかった。
「背が伸びたか」
馬車に乗り込みつつ孔明がたずねると、偉度は妙なことを、と呟きつつ、答えた。
「わたくしの背を、なぜ気になさる」
「それは気にするだろう。どれくらいになったのだ。いいなさい」
「七尺は越えました」
「そうか、ならば、あとでおまえの屋敷に、あらためて衣を届けに行く」
「衣?」
素っ頓狂な声をあげつつ、偉度は馬車を走らせる。
後ろに乗った孔明は、さっそく書簡を開いて、ああでもない、こうでもない、と考えながら、器用に偉度の問いに答えた。
「わたしの着なくなった衣をやろう。丈を詰めれば、まだ十分に着られるはずだぞ」
「あなたの衣を、わたしに? 衣の贈与は相当な仲でなければふつうはしないものです。それにもうひとつ意味が…邪推するものが出ますぞ」
「その、もうひとつの意味とやらは知らぬな。それに、邪推したい者には、させればよいではないか。勿体無いのだよ。わたしの衣を着こなせる物は、なかなかない」
「白まゆげの弟はどうです。中身はともかく、趣味は悪くなかったから」
「色が合わないよ。あれは案外、地黒だからな。と、するとおまえしかおらぬのだ。材質はどれも折り紙つきだぞ。不満か?」
「ぞっとしませんね」
そうか、と答えつつ、孔明は案件をすでに二つ、まとめていた。
同時進行で、脳裏に、自分の衣をまとった偉度の姿が浮かぶ。
襄陽時代に、やはり二十を過ぎたころに身にまとっていたものだ。
材質が上等なので、大事にとっておいたから、傷みもせずに、まだ着ることが出来る。
とはいえ、色合いが、三十を越した孔明には、華かにすぎるのである。
だから、二十を過ぎたばかりの偉度であれば、着こなしも洗練されているのだし、うまく着てくれるだろうとおもったのだが。
がらがらと馬車が進む中、ぼそりと、御者台の若者は言った。
「どうしても、というのであれば、戴きます」
「うむ、どうしてもなのだよ。では、あとで届けさせる」
やれやれ、これで物を無駄にしなくて済んだ、と孔明は喜び、偉度もまた、いつもなら冷笑的な笑みを浮かべるのが常のこの青年にしてはめずらしく、子供のように嬉しそうにしていたのであるが、それは孔明には見えなかった。
※
趙雲の屋敷は、孔明の屋敷のほど近いところにある。
敷地が広く、屋敷は狭いというつくりで、広い敷地のほとんどが、あつめた馬を納めておく厩である。
趙雲は、ヒマができると厩にいって、馬だの驢馬だのの世話をして時間を費やしている。
馬専用の、立派な井戸もあるほどだ。
家人のほとんどは、趙雲のあつめた馬の世話をする者たちで、実際に屋敷の中で働いている者はすくない。
趙雲には妻がいないため、家令が屋敷の一切を取り仕切る形となる。
とはいえ、どの世界にもお節介は存在するわけで、あるじに伴侶のいないことを気の毒に思った家令やそのほかの思惑をもつ一派は、趙雲に嫁をもらってもらう、嫁でなくてもせめて妾を、と運動をはじめた。
すなわち、屋敷に住み込みで雇う飯炊き女などに、自分たちに縁のある、若い美形の娘ばかりをあつめたのである。
趙雲の後宮屋敷、などと悪口を聞くものもいるが、たしかに屋敷はある種の華やぎがある。
しかし、肝心のあるじが娘たちに感心がないために、咲き誇る花は、客人の目を楽しませるばかりで、本来の目的をまるで果たしていない。
趙雲のもとに集った娘を、横取りしてやれと思う不埒な者もいて、このところ、趙雲の屋敷には、来訪者があとを絶たないとかなんとか。
「いい加減に、身を固めてしまえばよいものを」
「本当にそう思ってらっしゃいますか」
偉度の問いに、孔明は即答した。
「いいや」
「だったら、冗談でも薄情なことをおっしゃいますな。趙将軍が二度と病床から起き上がらなくなったら、どうなさる」
「? 子龍がなぜ、わたしのことばで、ずっと寝込むことになる?」
「いいから、黙ってらっしゃい。ごめんくださいまし、軍師将軍の主簿、胡偉度でございます。こたびはあるじとともに趙将軍のお見舞いに参じた次第にございます」
偉度は、とんとん、と扉を叩くのであるが、返事はまったくない。
おかしいな、とつぶやき、そっと門扉を開くと、やはりだれの姿もなく、屋敷内はしんと静まり返っているのであった。
「みなで、療養のために温泉にでも出かけたのではないか」
呑気にいう孔明に、偉度は、あきれたように答えた。
「だったら、留守居のひとりくらいは残しておくものでしょう。仕方がない。入りますよ」
孔明が静止するのも待たず、偉度はさっさと趙雲の屋敷に入っていく。
趙雲の屋敷は厩の立派さがひときわめにつくもので、風向きによっては獣臭い。
それを緩和するために、ふだんから玄関には高級な香が焚かれており、これは唯一といってよい、趙雲の使用するぜいたく品なのである。
ずかずかと中に入り込んでいく偉度のあとに、気まずくついていく孔明である。
木蓮や柘植の木の青葉が、陽光にすけて、鮮やかな緑を見せているのが目に映える。
遠くから、馬のいななきがたまに聞こえてくるので、まったく誰もいない、というわけではなさそうだ。
つづく……
お待たせしましたー。
説教将軍シリーズ、まだつづく。