『だれなの? 味方?』
怯えつつ、曹操の兵のほうに注意を戻す。
すると、曹操の兵も麋夫人《びふじん》の存在に気づいたらしい。
人食い鬼のような顔を土塀の向こうからのぞかせて、怒りの形相のまま、麋夫人と少年のところへやってくる。
そのときである。
曹操の兵のうしろから、にゅっと白い手が伸びた。
あっ、と麋夫人が驚く間もなく、その白い手は曹操の兵の髭だらけの口を覆いつくす。
つづいて、もう片方の手が、手際よく、男の首筋に短刀を突きつけていた。
口をふさがれたまま、男はなにかを叫んだ。
だが、ほどなく首筋からすさまじい出血をすると、膝から崩れ落ち、やがて絶命した。
あまりの手際のよい一連の展開に、麋夫人は声を上げることもできず、目を見張るしかない。
白い手の持ち主が男の背後からあらわれる。
いかにも婀娜《あだ》っぽい雰囲気の、短い筒袖の胡服《こふく》を着た女だった。
砂塵に巻かれて汚れてはいたし、身なりも崩れてはいたが、それでも十分に美しかった。
女は手際よく曹操の兵の脈をとり、死んだのをたしかめると、麋夫人に、やさしく微笑みかけた。
「間に合ってようございました。玄徳さまの奥様でらっしゃいますね?
以前にお見掛けしたことがございます」
麋夫人はことばをうまく紡ぐことが出来ず、ええ、と短く返事をすることしかできない。
しかし女は気にせず、こんなときだというのに、優雅に礼を取ってみせた。
「お初にお目にかかります、崔玉蘭《さいぎょくらん》と申します。
世間では藍玉《らんぎょく》という名で通っておりますわ」
「そ、そうでしたの。助けて下すって、ありがとう」
子ザルのような少年のほうを見ると、かれはにっ、と歯を見せて笑った。
「おいらは阿瑯《あろう》っていうんだ。奥方様をお見掛けして、助けに来たんだよ」
「まあ。ほんとうに、なんとお礼を申し上げたらよいか、わからないほどですわ」
そう口にしてから、やっと助けが来たのだということが実感できた。
ほっとして、力が抜けてくる。
泣きたくさえなってきたが、ぐっとこらえた。
劉備の妻は、めったなことでは挫けないのだ。
それにしても、男をあっさりと一撃で殺して見せる手際の良さといい、そのあとの堂々とした態度と言い、この女はかなりの修羅場をくぐりぬけてきた女だと、麋夫人は見抜いた。
自分よりかなり若いというのに、人生経験は女のほうが積んでいるというのが、落ち着きでわかる。
甘夫人《かんふじん》と同等か、それ以上の人生を歩んできた女なのかもしれない。
麋夫人は、この場は崔玉蘭についていくことに決めた。
「ほかに味方はおりますの?」
土塀の穴から外を見るが、ほかに人馬の影があるわけではなし、戦場から離れて、静かなものである。
玉蘭は、気の毒そうに顔をしかめた。
「申し訳ございません、わたくしどもだけです」
「あなたは、殿にお仕えしている方なのですか?」
細作《さいさく》かもしれないと期待しての問いだったが、玉蘭は首を横に振った。
「いいえ、残念ながらちがいます。でも、夏に玄徳さまたちに救われたひとりですわ」
夏のあいだに起こった痛ましい騒動とその顛末は、麋夫人もよく知っていた。
騒動の果てに救われた子供たちを匿《かくま》って、育てるつもりでいたほどだ。
玉蘭は救われたひとりだというが、おそらく、過去に子供たち以上に悲惨な目にあった女人なのだろう。
時と場合もかんがえて、あまり踏み込まないほうがいいと判断した麋夫人は話を変えた。
「これからどうやって殿に追いつきましょう」
「戦は小康状態になったようです。いまのうちに、ここを出ましょう。
ここから南の長阪橋までたどり着くことができたなら、玄徳さまにお会いできますよ」
「おいらたち、いったん長阪橋まで行ったんだけれど、仲間たちが心配で戻って来たんだよ」
と阿瑯が口をはさんだ。
「うちの奥様は、とっても義理堅いんだ」
玉蘭は、阿瑯に、これ、といって軽口を制した。
玉蘭の子にしては大きい子だとおもっていたが、どうやら阿瑯は、実子ではないらしい。
歩けるかしら、と麋夫人は自分の足元を見た。
豆が破れて血だらけの足である。
それでも、歩かねば、だれも助けようがないのだと覚悟を決めた。
「わかりました、玉蘭さんの言うとおりにいたします」
「玉蘭と呼び捨てにしてくださいませ。奥様の足が限界なのは見てわかります。
でもご安心ください、はぐれた馬をひそかにかくして持ってまいりました」
「まあっ、すばらしいわ」
顔を輝かせる麋夫人に、玉蘭はたのもしくうなずいた。
玉蘭の言うとおりで、廃屋の少し先の木の陰に、馬がつないであった。
麋夫人はふたりに助けられながら、馬にまたがる。
そこまで夢中だったので、はじめて気づいた。
「あなたがたはどうするのですか」
「ご心配なく、わたくしたちは徒歩で追いつきます」
でも、と言おうとしたとき、北のほうから、軍馬の群れの音が近づいているのがわかった。
まだ姿も見えなかったが、そのあまり急いでいない間隔の音からして、曹操軍の兵が、敗残兵を狩りに押し寄せてきたのだと、すぐにわかってしまった。
「幸い、この馬は大きいですし、よ、四人で」
「いいえ、それでは橋につくまえに、馬がつぶれてしまいます。
ためらっていてはいけません、おはやくご出発を」
つづく
怯えつつ、曹操の兵のほうに注意を戻す。
すると、曹操の兵も麋夫人《びふじん》の存在に気づいたらしい。
人食い鬼のような顔を土塀の向こうからのぞかせて、怒りの形相のまま、麋夫人と少年のところへやってくる。
そのときである。
曹操の兵のうしろから、にゅっと白い手が伸びた。
あっ、と麋夫人が驚く間もなく、その白い手は曹操の兵の髭だらけの口を覆いつくす。
つづいて、もう片方の手が、手際よく、男の首筋に短刀を突きつけていた。
口をふさがれたまま、男はなにかを叫んだ。
だが、ほどなく首筋からすさまじい出血をすると、膝から崩れ落ち、やがて絶命した。
あまりの手際のよい一連の展開に、麋夫人は声を上げることもできず、目を見張るしかない。
白い手の持ち主が男の背後からあらわれる。
いかにも婀娜《あだ》っぽい雰囲気の、短い筒袖の胡服《こふく》を着た女だった。
砂塵に巻かれて汚れてはいたし、身なりも崩れてはいたが、それでも十分に美しかった。
女は手際よく曹操の兵の脈をとり、死んだのをたしかめると、麋夫人に、やさしく微笑みかけた。
「間に合ってようございました。玄徳さまの奥様でらっしゃいますね?
以前にお見掛けしたことがございます」
麋夫人はことばをうまく紡ぐことが出来ず、ええ、と短く返事をすることしかできない。
しかし女は気にせず、こんなときだというのに、優雅に礼を取ってみせた。
「お初にお目にかかります、崔玉蘭《さいぎょくらん》と申します。
世間では藍玉《らんぎょく》という名で通っておりますわ」
「そ、そうでしたの。助けて下すって、ありがとう」
子ザルのような少年のほうを見ると、かれはにっ、と歯を見せて笑った。
「おいらは阿瑯《あろう》っていうんだ。奥方様をお見掛けして、助けに来たんだよ」
「まあ。ほんとうに、なんとお礼を申し上げたらよいか、わからないほどですわ」
そう口にしてから、やっと助けが来たのだということが実感できた。
ほっとして、力が抜けてくる。
泣きたくさえなってきたが、ぐっとこらえた。
劉備の妻は、めったなことでは挫けないのだ。
それにしても、男をあっさりと一撃で殺して見せる手際の良さといい、そのあとの堂々とした態度と言い、この女はかなりの修羅場をくぐりぬけてきた女だと、麋夫人は見抜いた。
自分よりかなり若いというのに、人生経験は女のほうが積んでいるというのが、落ち着きでわかる。
甘夫人《かんふじん》と同等か、それ以上の人生を歩んできた女なのかもしれない。
麋夫人は、この場は崔玉蘭についていくことに決めた。
「ほかに味方はおりますの?」
土塀の穴から外を見るが、ほかに人馬の影があるわけではなし、戦場から離れて、静かなものである。
玉蘭は、気の毒そうに顔をしかめた。
「申し訳ございません、わたくしどもだけです」
「あなたは、殿にお仕えしている方なのですか?」
細作《さいさく》かもしれないと期待しての問いだったが、玉蘭は首を横に振った。
「いいえ、残念ながらちがいます。でも、夏に玄徳さまたちに救われたひとりですわ」
夏のあいだに起こった痛ましい騒動とその顛末は、麋夫人もよく知っていた。
騒動の果てに救われた子供たちを匿《かくま》って、育てるつもりでいたほどだ。
玉蘭は救われたひとりだというが、おそらく、過去に子供たち以上に悲惨な目にあった女人なのだろう。
時と場合もかんがえて、あまり踏み込まないほうがいいと判断した麋夫人は話を変えた。
「これからどうやって殿に追いつきましょう」
「戦は小康状態になったようです。いまのうちに、ここを出ましょう。
ここから南の長阪橋までたどり着くことができたなら、玄徳さまにお会いできますよ」
「おいらたち、いったん長阪橋まで行ったんだけれど、仲間たちが心配で戻って来たんだよ」
と阿瑯が口をはさんだ。
「うちの奥様は、とっても義理堅いんだ」
玉蘭は、阿瑯に、これ、といって軽口を制した。
玉蘭の子にしては大きい子だとおもっていたが、どうやら阿瑯は、実子ではないらしい。
歩けるかしら、と麋夫人は自分の足元を見た。
豆が破れて血だらけの足である。
それでも、歩かねば、だれも助けようがないのだと覚悟を決めた。
「わかりました、玉蘭さんの言うとおりにいたします」
「玉蘭と呼び捨てにしてくださいませ。奥様の足が限界なのは見てわかります。
でもご安心ください、はぐれた馬をひそかにかくして持ってまいりました」
「まあっ、すばらしいわ」
顔を輝かせる麋夫人に、玉蘭はたのもしくうなずいた。
玉蘭の言うとおりで、廃屋の少し先の木の陰に、馬がつないであった。
麋夫人はふたりに助けられながら、馬にまたがる。
そこまで夢中だったので、はじめて気づいた。
「あなたがたはどうするのですか」
「ご心配なく、わたくしたちは徒歩で追いつきます」
でも、と言おうとしたとき、北のほうから、軍馬の群れの音が近づいているのがわかった。
まだ姿も見えなかったが、そのあまり急いでいない間隔の音からして、曹操軍の兵が、敗残兵を狩りに押し寄せてきたのだと、すぐにわかってしまった。
「幸い、この馬は大きいですし、よ、四人で」
「いいえ、それでは橋につくまえに、馬がつぶれてしまいます。
ためらっていてはいけません、おはやくご出発を」
つづく
※ いつも閲覧してくださっているみなさま、ありがとうございます!(^^)!
ん? なんだか演義とはちがう展開……?
次回をおたのしみにー!