はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

虚舟の埋葬 11

2009年07月30日 21時10分13秒 | 虚舟の埋葬
結局のところ、文偉が行き着いた先は、ほかならぬ孔明の眠る幕舎の外であった。
孔明は、なにもかも知っているのだ。
あとはわたしがやる、と言い切ったからには、本当に実行しようとするだろう。そういう人だ。

止めねばならぬ。
趙直の思いは、文偉も同じだ。
これ以上の苦しみを、負うことはない。
しかし、素直に聞いてくださるだろうか。
姜維の帰還を待ち、相談して、二人で止めるべきではないか。
文偉は、自分のことばより、姜維のことばのほうが、より孔明に威力を持っていることを知っていた。
孔明は姜維を実の子のように可愛がっているのである。
あからさまな贔屓はしないひとであったが、姜維に特別な感情を持っていることは、常日頃の態度からわかっていた。
自分の言うことは聞かなくても、姜維のことばのならば、素直に聞くかもしれない。

考え直し、踵を返そうとすると、ふと、幕舎の中から、声がかかった。
「文偉、そこにおるのか」
起きていたのかと驚き、文偉はすぐさま返事をして、孔明の世話をまかされているらの案内で、幕舎の中に入る。
まず鼻についたのは、嗅いだだけで口の中が苦くなるような、薬草をすりつぶしたときの匂いであった。
暗い。
幕舎は、陽射しが入らぬように、四方を固く布で塞いである。
わずかに、入り口からこぼれる明かりが、まっすぐに伸びており、そのさきに、驚いたことに、孔明は起き上がって、机に向かって書をしたためているのが見えた。
とはいえ、孔明の姿は、輪郭だけとなっており、詳細はわからない。
机のうえにのみ陽射しが入り込み、その明かりをもとに、孔明は筆を走らせているのだ。
文偉がたしなめようとするより先に、孔明が言った。
「今日はすこし気分がよいのだよ。筆を持っても重くない」
つまりは、筆を持つことすらできないほど、体力が落ち込んでいるということではないか。
「では、せめて代筆をさせてくださいませ」
と、文偉は願い出たが、孔明は首を振った。
「これは陛下に宛てた手紙なのだ。わたしの字で書きたい。文偉、おまえ、しばらく医者の代わりを勤めてくれぬか。どうであろう、侍医どの、文偉が貴方の代わりをするので、わたしのほうは大事無い。しばらく二人にしてくれないだろうか」
それを聞くと、孔明の背後に控えていた侍医は、わずかに悲しそうに目を伏せて、仕方ありませんなと言いながら、手伝いのと一緒に、幕舎を出て行った。
同時に、孔明は護衛の兵も外に出したので、幕舎のなかは、孔明と文偉の二人だけとなった。

久しぶりに、そばに寄ることが許された。
孔明は、陽の光が体にさわるのか、夕闇のように薄暗い幕舎のなかに、痩躯の影を浮き上がらせていた。
表情は、翳ってわからない。
容貌の細部が見えないこともあり、輪郭だけの孔明は、かつて自分が青年であったころに、まるで兄のように慕っていた時と、ほとんど変わりがないように思える。
しかし、陣の入り口から差し込む光に浮き上がる、卓の上の、震える指先で筆を持つ手をみれば、病に侵され、異様なほど白く、枯れ木のように皺が寄っているのが見える。
はじめて、諸葛孔明という人と顔を合わせたとき、この世の中に、これほどに、明るい光を全身からたたえているような、美しい人がいるのかと感嘆したものである。
その光は、あくまで清らかで、その名の通り、世の中で、もっともまばゆく光りつづけた人だ。

「もうすこし待ってくれ。あとすこしで終わる」
孔明の声には力がない。
昔日の、張りのある声に何度も励まされた身としては、いまのか細い孔明の声が信じられなかった。
「どうぞ、ごゆっくり。文偉は、いつまでもお待ちいたします」
平静であろうとしたが、声が震えた。
己の弱さに心の中で舌打ちしつつ、顔を上げられずにいると、孔明が言った。
「おまえのよいところは、素直なところだな。趙直は、おまえに話してしまったのか」
はっとして、文偉は顔を上げた。

ここ数年の、病を得てからの孔明の洞察力というのは、人間離れしている。
薄暗い陣のなかで、卓の前に座る孔明が、こちらを見ているのがわかった。
顔のおぼろな輪郭しかわからない。
その唇の端が、うすく笑った。
孔明からは、文偉の表情がよく見えているらしい。
「本当に、おまえは顔に出るな。そのように、情けない顔をするものではない」
「申し訳ございませぬ」
「謝ることはない。ならば、前置き無しで言う。文偉、止めるな。これはわたしがやるべきことだ。おまえは手を出すな」
「いいえ、こればかりは、聞いていただきます。あとは、どうぞ我らにお任せを。丞相は、これ以上、お心を煩わすことなく、お静かにお過ごしくださいませ」
「そして、黙って死ねというのか」
「いえ!」
文偉が飛び出してきそうな勢いであったためか、孔明は、落ち着け、と手ぶりを示して、それから静かに言った。
「文偉、おまえや趙直の心遣いは、ありがたく思う。しかし、これは、わたしのやるべきことなのだ。わかるだろうか」
「わかりませぬ。丞相が、さいごまで責務を果たそうとされていることは、ご立派でございます。しかし、なぜに最期まで苦しい道を選ばれますのか」
「立派であろうか? そうではなかろう」
笑おうとした孔明であるが、力が入らず、咳き込む。
あわてて文偉は孔明の側によろうとするが、しかし、孔明は、素早く口を押さえていないほうの手で、文偉を押し止めた。
幕舎の外で控えている侍医たちが、外で、中にはいるか否かで、迷っている影が、厚い布越しに見えた。
「その場で聞け。いまのわたしを見られたくない」
「ですが」
「表の者が動揺するといけない。よい機会だ。おまえには、どうしても伝えねばと思っていたことだ。その場から動くな。わたしは大丈夫だ」
近づけば、孔明はもっと無理をする。
文偉は、近寄りたい気持ちをおさえて、その場に留まった。



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