嘘は通じまい。
文偉は、似た面差しを持ちながらも、あまりに純粋で、真っ正直にすぎる姜維の眼差しを受けながら、静かに言った。
「丞相のご遺志だ」
姜維は柳眉をしかめた。
「まさか」
「丞相は、二人を連れて行くと言い切った。その志にわたしは従ったまでのこと。おまえは勘違いを起こしているかもしれぬが、わたしは楊威公の狂気を煽り立ててはおらぬ。公務から外すように進言したのも、蜀の未来のためだ」
とたん、姜維は、秀麗な顔を険しくして、怒鳴った。
「未来? 未来ですって? どのような未来なのですか! 丞相がいなくなった途端、魏文長は叛き、楊威公は狂い、貴方は陰湿な陰謀に耽っている! だれも、丞相のお心ざしを引き継いでいない! どういうことなのです!」
「楊威公が庶民に落とされて、蒋琬は守られたが、それでは済まなかったのが、楊威公その人だ。自分が零落した原因は、蒋?などではなく、都合が悪くなると見捨てた『その者』にあるのだと気づいてしまった。
そこで、庶民に落ちてからは、蒋琬ではなく、『その者』への激烈な誹謗文を書きはじめた。こうなると、もはやわたしでも手を出せぬ。楊威公は真に狂っていたのかもしれぬ。だから逮捕されることになった」
「それがまことであるというのなら、牢内での自害は、ほんとうに自害なのですか?」
「わからぬ。いまとなっては、そうであったらよいと思うばかりだ。だが、突き詰めれば、結局、わたしが楊威公を死に追いやったのかもしれぬ」
楊威公の死は、調べさせたものの、真相は不透明なまま終わった。
調べても、はっきりと陰謀の証拠を見つけることができなかったのである。
自害ともいえるし、陰謀とも疑える状況で、結局、うやむやにせざるを得なかった。
牢内での楊儀の死が、自らの意志による死であったらよいと願う気持ちは、おのれの罪が重くなることを恐れてのものか、それとも、内なる敵の非情さを恐れる気持ちなのか、文偉のなかでは、まだ整理がついていない。
「われらに出来ることは、ともに庶民に落とされていた楊威公の妻子を、ふたたび成都に戻してやることだけであった。それが、真相だ」
姜維の顔色が悪く見えるのは、けして葉陰のせいだけではあるまい。
「では、『その者』は、もう大人しくしているのでしょうか」
「いまはな。しかし、丞相にさえ心を開かなかったその者が、われらに心を開くかどうかは疑問だ。あの休昭さえ、手を焼くことが多くなったそうだからな。しかし、われらは、その者に期待を込めて呼びかけることを止めてはならぬ。これは、そういう戦いなのだ」
とたん、姜維は眦をつよくして、言った。
「なぜです? あの方は、いったいなにが不満だというのですか? この険阻な要害の地の奥にあって、みなに守られ、傅かれ生きている! まともに政務もしようとしない! 一度たりとも前線に出たことのない人間に、われらの苦労のなにが判るというのです! 安全な場所にいる者に、丞相のお気持ちなど、我らの気持ちなど、判るはずがない!」
「それは」
わかる、と言葉をつづけようとして、ふと、文偉は、姜維の言葉に、魏延の言葉と重なる部分を見つけて、思わず口を閉ざした。
こうして、あの男も不平を募らせて行ったのだ。
姜維の毒を引き受けてやって欲しいと、孔明は言った。
姜維は、孔明とはちがい、怖いくらいに純粋だ。
それは美点であり、同時に欠点でもある。
生真面目すぎるのだ……楊儀のように。
あの二人のように、孤立させてはならない。
「伯約よ、おまえの怒りは、わたしや休昭、蒋?も同じなのだ。だが、怒りをもって人を制することは、やはり出来ないのだよ。それは相手を滅ぼすだけだ。丞相も苦しんでおられた。
しかし、あの方はそれを耐え抜いたぞ。おまえが、丞相の遺志を継ぐというのなら、同じように耐えて見せるがいい。われらもまた、おまえと同じ苦しみを抱えていることを忘れるな」
言うと、姜維は悲しげに目を曇らせて、口はしに苦笑を浮かべた。
「一人が抱えていた苦しみを、四人で苦しもうというのですね」
「そうだ。人を恨み、卑屈になってはならぬ。その服を纏っていた方は、どんな辛苦の中にあろうと、いつも前を見据えておられた。辛いことではあるが、辛さに打ち勝ったからこそ、龍は龍でありえたのだ。おまえもそれに続け」
「丞相の後に続けとおっしゃるか」
「そうだ。おまえならば、出来よう」
力強く文偉が言うと、姜維は、すこし照れくさそうにして、笑った。
その、どこか憂いを帯びたうつくしい笑顔は、かつて青年であったころに見た、諸葛孔明の笑顔によく似ていた。
孔明は、姜維の器を作りきれなかったと言っていた。
どこまで出来るかはわからない。
しかし、文偉は、孔明がやり遂げられなかった事業を、蒋?が引き継ごうとしているのであれば、自分は、孔明が作ろうとしていた大器を、育ててみようと決意した。
歴史は紡がれゆくが、真実がかならずしも、そこに織り込まれていくとはかぎらない。
この静かなる戦いを、やがて見い出すものはあるだろうか。
龍は死んだ。しかし、まだ志は、われらの中に残っている。
志を守り、戦いに勝つこと。
それが、志なかばで挫折し、不本意な死をむかえた……いや、わたしが殺した、二人への手向けとなればいい。
しかし、わたしの罪は、許されることはないだろうと、文偉は覚悟し、瞑目した。
おわり
文偉は、似た面差しを持ちながらも、あまりに純粋で、真っ正直にすぎる姜維の眼差しを受けながら、静かに言った。
「丞相のご遺志だ」
姜維は柳眉をしかめた。
「まさか」
「丞相は、二人を連れて行くと言い切った。その志にわたしは従ったまでのこと。おまえは勘違いを起こしているかもしれぬが、わたしは楊威公の狂気を煽り立ててはおらぬ。公務から外すように進言したのも、蜀の未来のためだ」
とたん、姜維は、秀麗な顔を険しくして、怒鳴った。
「未来? 未来ですって? どのような未来なのですか! 丞相がいなくなった途端、魏文長は叛き、楊威公は狂い、貴方は陰湿な陰謀に耽っている! だれも、丞相のお心ざしを引き継いでいない! どういうことなのです!」
「楊威公が庶民に落とされて、蒋琬は守られたが、それでは済まなかったのが、楊威公その人だ。自分が零落した原因は、蒋?などではなく、都合が悪くなると見捨てた『その者』にあるのだと気づいてしまった。
そこで、庶民に落ちてからは、蒋琬ではなく、『その者』への激烈な誹謗文を書きはじめた。こうなると、もはやわたしでも手を出せぬ。楊威公は真に狂っていたのかもしれぬ。だから逮捕されることになった」
「それがまことであるというのなら、牢内での自害は、ほんとうに自害なのですか?」
「わからぬ。いまとなっては、そうであったらよいと思うばかりだ。だが、突き詰めれば、結局、わたしが楊威公を死に追いやったのかもしれぬ」
楊威公の死は、調べさせたものの、真相は不透明なまま終わった。
調べても、はっきりと陰謀の証拠を見つけることができなかったのである。
自害ともいえるし、陰謀とも疑える状況で、結局、うやむやにせざるを得なかった。
牢内での楊儀の死が、自らの意志による死であったらよいと願う気持ちは、おのれの罪が重くなることを恐れてのものか、それとも、内なる敵の非情さを恐れる気持ちなのか、文偉のなかでは、まだ整理がついていない。
「われらに出来ることは、ともに庶民に落とされていた楊威公の妻子を、ふたたび成都に戻してやることだけであった。それが、真相だ」
姜維の顔色が悪く見えるのは、けして葉陰のせいだけではあるまい。
「では、『その者』は、もう大人しくしているのでしょうか」
「いまはな。しかし、丞相にさえ心を開かなかったその者が、われらに心を開くかどうかは疑問だ。あの休昭さえ、手を焼くことが多くなったそうだからな。しかし、われらは、その者に期待を込めて呼びかけることを止めてはならぬ。これは、そういう戦いなのだ」
とたん、姜維は眦をつよくして、言った。
「なぜです? あの方は、いったいなにが不満だというのですか? この険阻な要害の地の奥にあって、みなに守られ、傅かれ生きている! まともに政務もしようとしない! 一度たりとも前線に出たことのない人間に、われらの苦労のなにが判るというのです! 安全な場所にいる者に、丞相のお気持ちなど、我らの気持ちなど、判るはずがない!」
「それは」
わかる、と言葉をつづけようとして、ふと、文偉は、姜維の言葉に、魏延の言葉と重なる部分を見つけて、思わず口を閉ざした。
こうして、あの男も不平を募らせて行ったのだ。
姜維の毒を引き受けてやって欲しいと、孔明は言った。
姜維は、孔明とはちがい、怖いくらいに純粋だ。
それは美点であり、同時に欠点でもある。
生真面目すぎるのだ……楊儀のように。
あの二人のように、孤立させてはならない。
「伯約よ、おまえの怒りは、わたしや休昭、蒋?も同じなのだ。だが、怒りをもって人を制することは、やはり出来ないのだよ。それは相手を滅ぼすだけだ。丞相も苦しんでおられた。
しかし、あの方はそれを耐え抜いたぞ。おまえが、丞相の遺志を継ぐというのなら、同じように耐えて見せるがいい。われらもまた、おまえと同じ苦しみを抱えていることを忘れるな」
言うと、姜維は悲しげに目を曇らせて、口はしに苦笑を浮かべた。
「一人が抱えていた苦しみを、四人で苦しもうというのですね」
「そうだ。人を恨み、卑屈になってはならぬ。その服を纏っていた方は、どんな辛苦の中にあろうと、いつも前を見据えておられた。辛いことではあるが、辛さに打ち勝ったからこそ、龍は龍でありえたのだ。おまえもそれに続け」
「丞相の後に続けとおっしゃるか」
「そうだ。おまえならば、出来よう」
力強く文偉が言うと、姜維は、すこし照れくさそうにして、笑った。
その、どこか憂いを帯びたうつくしい笑顔は、かつて青年であったころに見た、諸葛孔明の笑顔によく似ていた。
孔明は、姜維の器を作りきれなかったと言っていた。
どこまで出来るかはわからない。
しかし、文偉は、孔明がやり遂げられなかった事業を、蒋?が引き継ごうとしているのであれば、自分は、孔明が作ろうとしていた大器を、育ててみようと決意した。
歴史は紡がれゆくが、真実がかならずしも、そこに織り込まれていくとはかぎらない。
この静かなる戦いを、やがて見い出すものはあるだろうか。
龍は死んだ。しかし、まだ志は、われらの中に残っている。
志を守り、戦いに勝つこと。
それが、志なかばで挫折し、不本意な死をむかえた……いや、わたしが殺した、二人への手向けとなればいい。
しかし、わたしの罪は、許されることはないだろうと、文偉は覚悟し、瞑目した。
おわり