「おまえたち以外の部隊も、同じように不安がっているのだろうか?」
尋ねると、士卒長と、その背後で畏まり、すがるような目をしている、いくつもの顔が頷いた。
「魏将軍の目が光っておりますので、大っぴらには口にできませんでしたが、みな同じ思いでございます」
「陣の様子はどうだ」
「夜なども、つねに誰かが我らを見張っております。夕餉のときも、見張りがあらわれまして、すこしでも魏将軍を疑うようなことを口にするものは、捕らえられて鞭打ちを受けます」
逆をいえば、見張っておらねば、脱走する者が多いということである。
真から魏延の志に惚れて、付いてきている者は少なかろう。
魏延の陣にて動きがある、と報告が入り、見れば、先陣として、弓兵と騎兵の混成部隊が、こちらに向けて配されている。
同じく、士卒たちの裏切りを避けるためであろう。
魏延の自慢の近衛兵たちが率いる精鋭部隊が、弓隊を監視する形で並んでいる。
問題は、近衛兵たちだ。
さすが剛勇でならした魏延の部下だけあり、勇猛な戦いぶりは、蜀で随一である。
かれらを相手にせねばならぬとなると、こちらの被害も覚悟せねばなるまい。
文偉は虜となった兵たちのなかで、動ける者を選び出し、何平につけて、魏延の陣に向け、大声で呼びかけさせた。
自分たちは捕らえられたが、お咎めはなく、無事である。
叛いたのは魏延のほうで、楊儀は孔明の遺志を正しく継いで、成都に戻ろうとしているのだ、と。
何平も、兵卒たちと共に、馬上より、魏延の陣に叫んだ。
「丞相のご遺体の、まだ温かいうちに、おまえたちはご恩を忘れ、身勝手にも叛こうとしている。なぜにこのような不義を平気ですることができるのか!
士卒どもも聞くがいい。いまならば、おまえたちは謀反人に騙されたということで、罪には問われぬ。しかし、この儂と刃を交わすつもりであるならば、もはやただでは済まぬぞ! すみやかに武器を捨て、陣を出て投降せよ!」
遠目で、魏延の先陣に配された兵卒の、それぞれの表情はわからない。
北谷口に移していた弓隊は、熟練の兵卒だけで編成していた。
弓の改良に熱心であった孔明の恩を、もっとも受けた花形の部隊である。
孔明は、何度もかれらのもとに足を運んでいるから、恩を感じている者も多いはずだ。
何平の言葉は、聞こえているだろう。
言葉に応じたい者がほとんどのはずだ。
しかし、近衛兵が、かれらを見張っているために、動けない。
近衛兵の、魏延への忠誠は揺るがないだろうか。
かれらとて、国に家族を残してきている。
この状況では、どちらに非があるにせよ、魏延も、魏延に連座する者も、ただではすまないと、感じ取っていないだろうか。
「動きませぬな。このままでは、戦になりますぞ」
渋い表情で風を受けながら、姜維がつぶやいた。
「わかっておる。現状で考えられる策は三つだ。
ひとつは、全軍で魏延を攻め、これを討つこと。しかし多くの兵が傷つくこととなる。それに、兵卒に、同胞殺しの傷を負わせることは、蜀の未来にとっては最悪である。下策中の下策と考えねばならぬ。
ふたつ目は、陣を包囲し、干上がるのを待つ。しかし司馬仲達の動きを考えれば、悠長なことはしておられぬ。これもやはり、味方を危険に晒す策だ。
みっつ目は、陣を無視し、我らだけで定軍山へ向かう」
「みっつ目を選択する利点はございますか? 魏文長が、われらの背後を突く形となりますが」
「そうだ。陣から誘い出し、襲ってきたところを迎撃する。軍を四方から囲い、兵卒に投降を呼びかければ、魏文長の軍は崩壊しよう」
「どちらにしろ、血は流されるというわけですな。丞相がご覧になったら、なんとおっしゃるだろう」
孔明は、軍の撤退に関してと、魏延が追撃してきた場合の策は授けてくれたが、先回りをされた場合にどう対処するかの策は、残していかなかった。
あとは自分たちで考えろということではあるまい。
孔明の、人に対する優しい幻想が、最後まで裏目に出たのだ。
魏延が、味方を平然と危険にさらすような真似はすまいと思ったにちがいない。
らしいといえば、らしい。思わず、文偉は苦笑してしまう。
姜維のいうとおり、このありさまを遠くから眺めているとしたら、おそらく、やはりわたしは至らぬと、己を責めたであろう。
人より先に、自分を責める人であった。
尋ねると、士卒長と、その背後で畏まり、すがるような目をしている、いくつもの顔が頷いた。
「魏将軍の目が光っておりますので、大っぴらには口にできませんでしたが、みな同じ思いでございます」
「陣の様子はどうだ」
「夜なども、つねに誰かが我らを見張っております。夕餉のときも、見張りがあらわれまして、すこしでも魏将軍を疑うようなことを口にするものは、捕らえられて鞭打ちを受けます」
逆をいえば、見張っておらねば、脱走する者が多いということである。
真から魏延の志に惚れて、付いてきている者は少なかろう。
魏延の陣にて動きがある、と報告が入り、見れば、先陣として、弓兵と騎兵の混成部隊が、こちらに向けて配されている。
同じく、士卒たちの裏切りを避けるためであろう。
魏延の自慢の近衛兵たちが率いる精鋭部隊が、弓隊を監視する形で並んでいる。
問題は、近衛兵たちだ。
さすが剛勇でならした魏延の部下だけあり、勇猛な戦いぶりは、蜀で随一である。
かれらを相手にせねばならぬとなると、こちらの被害も覚悟せねばなるまい。
文偉は虜となった兵たちのなかで、動ける者を選び出し、何平につけて、魏延の陣に向け、大声で呼びかけさせた。
自分たちは捕らえられたが、お咎めはなく、無事である。
叛いたのは魏延のほうで、楊儀は孔明の遺志を正しく継いで、成都に戻ろうとしているのだ、と。
何平も、兵卒たちと共に、馬上より、魏延の陣に叫んだ。
「丞相のご遺体の、まだ温かいうちに、おまえたちはご恩を忘れ、身勝手にも叛こうとしている。なぜにこのような不義を平気ですることができるのか!
士卒どもも聞くがいい。いまならば、おまえたちは謀反人に騙されたということで、罪には問われぬ。しかし、この儂と刃を交わすつもりであるならば、もはやただでは済まぬぞ! すみやかに武器を捨て、陣を出て投降せよ!」
遠目で、魏延の先陣に配された兵卒の、それぞれの表情はわからない。
北谷口に移していた弓隊は、熟練の兵卒だけで編成していた。
弓の改良に熱心であった孔明の恩を、もっとも受けた花形の部隊である。
孔明は、何度もかれらのもとに足を運んでいるから、恩を感じている者も多いはずだ。
何平の言葉は、聞こえているだろう。
言葉に応じたい者がほとんどのはずだ。
しかし、近衛兵が、かれらを見張っているために、動けない。
近衛兵の、魏延への忠誠は揺るがないだろうか。
かれらとて、国に家族を残してきている。
この状況では、どちらに非があるにせよ、魏延も、魏延に連座する者も、ただではすまないと、感じ取っていないだろうか。
「動きませぬな。このままでは、戦になりますぞ」
渋い表情で風を受けながら、姜維がつぶやいた。
「わかっておる。現状で考えられる策は三つだ。
ひとつは、全軍で魏延を攻め、これを討つこと。しかし多くの兵が傷つくこととなる。それに、兵卒に、同胞殺しの傷を負わせることは、蜀の未来にとっては最悪である。下策中の下策と考えねばならぬ。
ふたつ目は、陣を包囲し、干上がるのを待つ。しかし司馬仲達の動きを考えれば、悠長なことはしておられぬ。これもやはり、味方を危険に晒す策だ。
みっつ目は、陣を無視し、我らだけで定軍山へ向かう」
「みっつ目を選択する利点はございますか? 魏文長が、われらの背後を突く形となりますが」
「そうだ。陣から誘い出し、襲ってきたところを迎撃する。軍を四方から囲い、兵卒に投降を呼びかければ、魏文長の軍は崩壊しよう」
「どちらにしろ、血は流されるというわけですな。丞相がご覧になったら、なんとおっしゃるだろう」
孔明は、軍の撤退に関してと、魏延が追撃してきた場合の策は授けてくれたが、先回りをされた場合にどう対処するかの策は、残していかなかった。
あとは自分たちで考えろということではあるまい。
孔明の、人に対する優しい幻想が、最後まで裏目に出たのだ。
魏延が、味方を平然と危険にさらすような真似はすまいと思ったにちがいない。
らしいといえば、らしい。思わず、文偉は苦笑してしまう。
姜維のいうとおり、このありさまを遠くから眺めているとしたら、おそらく、やはりわたしは至らぬと、己を責めたであろう。
人より先に、自分を責める人であった。