それは、姜維の本音であっただろう。
残暑のなか、庭の茂みから、のどかな虫の声が響いている。
庭の様子を、並ぶ部屋の扉の隙間から、子供たちが、こわごわと覗いているのが見えた。
どうしたものかと困っていると、奥から家人があらわれて、子供たちは遠ざけられ、扉は閉ざされた。
「わたしが楊威公を殺したと思うか」
「はい」
「殺す理由はなんだ?」
「わからない。だから、お聞きしているのです」
「伯約、聞いたとして、おまえはどうする。このことを上訴し、わたしに楊威公と同じ運命を辿らせるか」
「お話によります」
「おまえの心に叶う理由であったら?」
「生涯、沈黙を守ります」
「よろしい」
文偉は、息をつくと、一瞬だけ、まぶたを閉じた。
薄く閉ざされた闇の向こうに、亡き孔明の姿を思い出す。
貴方は偉大な方だった。すべての苦しみを引き受けていこうとした。
しかし、貴方は偉大だけれども、神ではなかった。
我らはやはり、貴方の抱えていた苦しみを、同じように抱えていくのだ。
そして、いま、貴方がもっとも心を残していった、貴方の志を受け継ぐ遺児に、同じものを背負わせようとする、このわたしをお許しください。
文偉はふたたび目を開き、姜維をまっすぐ見据えて、口を開く。
「蒋琬を守るためだ」
その言葉に、姜維はますます怪訝そうに眉をしかめた。
反論しそうなところを無視して、文偉は先を進めた。
「ある者がいる」
と、文偉は、慎重に言葉を選びながら話をつづけた。
「その者は、戦を拒む。国が疲弊すれば、己の地位が危うくなる…そう信じているからだ。だからこそ、戦を止めさせたいのであるが、しかし丞相が健在のあいだは、まちがってもそんなことを口にはできなかった。その者にとって、丞相は、実父より近しく、そして恐ろしい存在であったからだ。
しかし、丞相が病み、寿命が尽きかけていると知るや、その者は、丞相の志を継がない者を、つぎの後継に据えようと考えた。つまり、自分の意のままにできる人間だ。そこで、選ばれたのが楊威公だった。魏文長では駄目だった。かれは戦を好むからな。
そこで、その者は、楊威公とひそかに誼を通じ、その旨を伝えるのであるが、丞相がそれに気づかぬはずがない。すかさず密書を送り、つぎの後継は蒋琬が適任であることを伝え…丞相は多くは語られなかったが、もしかしたら、なんらかの策を必要として、やっと認められたのかもしれぬ…蒋琬は選ばれた。
しかし、丞相が亡くなれば、状況はひっくり返せると、その者は思っていたのかもしれぬ。楊威公の、丞相が亡くなられたときにみせた、奇妙な自信や言動は、その者の存在があったからこそなのだ。
蒋琬は、丞相より、後継を指名されていたから、丞相が亡くなったさい、早急に軍をととのえ、北上せんとした。しかし、結局、出発が遅れたのは、その者が、蒋琬を後継と、正式に認めるのをためらったからにほかならない。それが、蒋琬が、急使にもたせた、わたし宛の密書に書いてあったことだ」
密書には、すぐにでも孔明の元に参じたいが、ままならない現状に対する悔しさが綴られていた。
忘恩の徒とはいえ、長年の苦労をともにしてきた勇将を、狼のように狩りたてて殺すのは忍びないとも、蒋琬は書いていた。
もしも、蒋琬の出発が早く、南谷口に到着するのに間に合っていたなら、魏延は、自分が後継ではないことを認め、降伏した可能性がある。
蒋琬が後継だと知ったなら、魏延は態度を変えたかもしれないのだ。
魏延は、楊儀が許せなかったのだから。
反逆した事実は動かないから、やはり死を迎える結果になったであろう。
だが、その後の、楊儀の狼藉を許すような状態には、ならなかったはずである。
「楊威公が後継になれなかった理由は、単純なことだ。魏文長が死に、ただ帰国するだけならばよかったのだが、魏文長の遺体に楊威公が狼藉を働いたことは、みなの目には奇行としか映らなかった。
それゆえ、その者も、丞相のご遺志を曲げて、楊威公を後継に指名することはかなわなくなり、蒋琬が正式に後継となったのだ」
「では、楊威公を公務から遠ざけるように進言したのは、再び力をつけて、貴方のおっしゃる『その者』と結託することを防ぐため?」
「そうだ。今後のために、どうしても楊威公を失脚させる必要があった。伯約、わたしは丞相を苦しめた楊威公を、魏文長と同等に憎んだ。そのことは認めよう。
しかし、丞相は、楊威公を憐れみ、なるべくならば殺したくないとおっしゃった。成都に帰還してからの楊威公の態度が目に余るものであったのは、おまえも知っているだろう。過去の功績のことなど持ち出さず、そのまま刑場に送ることも可能であった。すくなくとも、わたしはそのつもりであった」
しかし、思いとどまったのは、最後に幕舎で聞いた、孔明の愁嘆が心の中にあったからである。
懐かしい時代を知る者だからこそ、つい甘やかしてしまったのだと、孔明は自戒もこめて悲しんでいた。
自分の甘さは、孔明の棺と共に葬ったつもりであった。
しかし、考えを変え、上奏し、庶民に落すことを進言したのは、自分を裏切っていると知りながら、それでも長生きをしてほしいと願っていた、孔明のためである。
楊威公に心があるならば、それが通じるだろうと、文偉は思っていた。
しかし、庶民に落とされた楊威公は、成都から遠く離れたことで、かえって、自分が利用されたことに気づいてしまったのである。
残暑のなか、庭の茂みから、のどかな虫の声が響いている。
庭の様子を、並ぶ部屋の扉の隙間から、子供たちが、こわごわと覗いているのが見えた。
どうしたものかと困っていると、奥から家人があらわれて、子供たちは遠ざけられ、扉は閉ざされた。
「わたしが楊威公を殺したと思うか」
「はい」
「殺す理由はなんだ?」
「わからない。だから、お聞きしているのです」
「伯約、聞いたとして、おまえはどうする。このことを上訴し、わたしに楊威公と同じ運命を辿らせるか」
「お話によります」
「おまえの心に叶う理由であったら?」
「生涯、沈黙を守ります」
「よろしい」
文偉は、息をつくと、一瞬だけ、まぶたを閉じた。
薄く閉ざされた闇の向こうに、亡き孔明の姿を思い出す。
貴方は偉大な方だった。すべての苦しみを引き受けていこうとした。
しかし、貴方は偉大だけれども、神ではなかった。
我らはやはり、貴方の抱えていた苦しみを、同じように抱えていくのだ。
そして、いま、貴方がもっとも心を残していった、貴方の志を受け継ぐ遺児に、同じものを背負わせようとする、このわたしをお許しください。
文偉はふたたび目を開き、姜維をまっすぐ見据えて、口を開く。
「蒋琬を守るためだ」
その言葉に、姜維はますます怪訝そうに眉をしかめた。
反論しそうなところを無視して、文偉は先を進めた。
「ある者がいる」
と、文偉は、慎重に言葉を選びながら話をつづけた。
「その者は、戦を拒む。国が疲弊すれば、己の地位が危うくなる…そう信じているからだ。だからこそ、戦を止めさせたいのであるが、しかし丞相が健在のあいだは、まちがってもそんなことを口にはできなかった。その者にとって、丞相は、実父より近しく、そして恐ろしい存在であったからだ。
しかし、丞相が病み、寿命が尽きかけていると知るや、その者は、丞相の志を継がない者を、つぎの後継に据えようと考えた。つまり、自分の意のままにできる人間だ。そこで、選ばれたのが楊威公だった。魏文長では駄目だった。かれは戦を好むからな。
そこで、その者は、楊威公とひそかに誼を通じ、その旨を伝えるのであるが、丞相がそれに気づかぬはずがない。すかさず密書を送り、つぎの後継は蒋琬が適任であることを伝え…丞相は多くは語られなかったが、もしかしたら、なんらかの策を必要として、やっと認められたのかもしれぬ…蒋琬は選ばれた。
しかし、丞相が亡くなれば、状況はひっくり返せると、その者は思っていたのかもしれぬ。楊威公の、丞相が亡くなられたときにみせた、奇妙な自信や言動は、その者の存在があったからこそなのだ。
蒋琬は、丞相より、後継を指名されていたから、丞相が亡くなったさい、早急に軍をととのえ、北上せんとした。しかし、結局、出発が遅れたのは、その者が、蒋琬を後継と、正式に認めるのをためらったからにほかならない。それが、蒋琬が、急使にもたせた、わたし宛の密書に書いてあったことだ」
密書には、すぐにでも孔明の元に参じたいが、ままならない現状に対する悔しさが綴られていた。
忘恩の徒とはいえ、長年の苦労をともにしてきた勇将を、狼のように狩りたてて殺すのは忍びないとも、蒋琬は書いていた。
もしも、蒋琬の出発が早く、南谷口に到着するのに間に合っていたなら、魏延は、自分が後継ではないことを認め、降伏した可能性がある。
蒋琬が後継だと知ったなら、魏延は態度を変えたかもしれないのだ。
魏延は、楊儀が許せなかったのだから。
反逆した事実は動かないから、やはり死を迎える結果になったであろう。
だが、その後の、楊儀の狼藉を許すような状態には、ならなかったはずである。
「楊威公が後継になれなかった理由は、単純なことだ。魏文長が死に、ただ帰国するだけならばよかったのだが、魏文長の遺体に楊威公が狼藉を働いたことは、みなの目には奇行としか映らなかった。
それゆえ、その者も、丞相のご遺志を曲げて、楊威公を後継に指名することはかなわなくなり、蒋琬が正式に後継となったのだ」
「では、楊威公を公務から遠ざけるように進言したのは、再び力をつけて、貴方のおっしゃる『その者』と結託することを防ぐため?」
「そうだ。今後のために、どうしても楊威公を失脚させる必要があった。伯約、わたしは丞相を苦しめた楊威公を、魏文長と同等に憎んだ。そのことは認めよう。
しかし、丞相は、楊威公を憐れみ、なるべくならば殺したくないとおっしゃった。成都に帰還してからの楊威公の態度が目に余るものであったのは、おまえも知っているだろう。過去の功績のことなど持ち出さず、そのまま刑場に送ることも可能であった。すくなくとも、わたしはそのつもりであった」
しかし、思いとどまったのは、最後に幕舎で聞いた、孔明の愁嘆が心の中にあったからである。
懐かしい時代を知る者だからこそ、つい甘やかしてしまったのだと、孔明は自戒もこめて悲しんでいた。
自分の甘さは、孔明の棺と共に葬ったつもりであった。
しかし、考えを変え、上奏し、庶民に落すことを進言したのは、自分を裏切っていると知りながら、それでも長生きをしてほしいと願っていた、孔明のためである。
楊威公に心があるならば、それが通じるだろうと、文偉は思っていた。
しかし、庶民に落とされた楊威公は、成都から遠く離れたことで、かえって、自分が利用されたことに気づいてしまったのである。