はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

虚舟の埋葬 12

2009年07月31日 20時46分25秒 | 虚舟の埋葬
「すまぬな。瀕死の病人のわがままだと思って聞いてくれ。この醜い有様を、おまえの記憶に刻みたくない。いまさら見栄を張るなと思うであろうが」
「いいえ」
「むかし、江東の美周郎が死んだとき、その有様は、病のために醜くやつれ果て、まるで本人の面影を残していなかったと言う。あれほど容姿の優れた人物であったのに、無残な姿で死んだと聞いて、わたしはそうありたくないと、ずっと恐れていた。
死に際し、ひとは心を裸にして逝くのが一番よいと聞いたことがあるが、わたしは最期まで、己の外観に縛されて、逃げることが敵わぬようだな」
「丞相は蜀の化身のようなお方。注目を浴びるのが仕事のようなものなのですから、外観を気になさるのは当然でございましょう。それにわたしは、丞相ほどにお美しい顔をしてらっしゃる方を、ほかに知りませぬ」
「そうか、ありがとう。むかしは、美しいといわれるたびに、女のようだといわれている気がして腹を立てていたが、いまは素直に聞けるな」
「誉めたのに喧嘩を売られては、こちらもたまりませぬ」
「それはそうだ」
と、孔明は、肩肘を卓の上に預けるかたちで姿勢を崩し、声をたてて笑った。
こんなふうに軽口を叩いていれば、孔明が瀕死の状態であるということを忘れてしまう。
平静を装ってはいるが、この人はいま、どれだけの忍耐を駆使して、わたしの前にあるのだろうと思い、文偉は申し訳なく思った。
「丞相、わたくしへのお話とは、なんでありましょう」
「うむ、そうであったな。単刀直入に言う。さきほどの趙直の件であるが、わかるな?」
「はい」
「あれはわたしがやらねばならぬ。これは意地なのだ。趙直の夢解きが絶対だとは思わぬが、これは、血が流されずにすむ話ではなかろう。
あの二人の気性ならば、衝突が起こるのはまちがいない。おまえがいて、わたしがいればこそ、あの二人は生きた。だが、わたしは、もう逝く」
孔明はそこで、深く息をつき、間を置いて、つづけた。

「あの二人も、連れて行かねばなるまい」

低く漏らした孔明の言葉に、文偉は、ぞくりと身を震わせた。
孔明という名前の通り、常に公正な光あるところを歩いてきた人だという印象は、あくまで思い込みでしかない。
この人とて、数々の修羅をくぐって、丞相という地位にまで上りつめた人なのだ。
その手は、想像以上に血塗られている。
それを、いままで気取られないように振る舞ってきたのだ。
この人が、一身に背負ってきたものは、なんと重いのだろう。
その中に含まれる闇も含めて、重さに潰されずに耐え切っていたのは、やはり、このひとが紛れもなく英雄の器であったからだ。
龍。皇帝を示す霊獣。
世俗での地位など、欲するはずもない。
そもそも、生まれついての皇帝に、人間が勝手につくった地位など、なんの価値もなかったのだ。

「文偉、よく聞け。わたしのつぎの後継は、楊儀でも魏延でもない。蒋琬だ。すでに陛下には、ご了解を頂いた」
やはり、という思いとともに、それでよいのかという戸惑いもある。
蒋琬は、たしかにだれより有能で、孔明がもっとも目を掛けている男であるが、しかし、その名は、天下にはもちろん、巴蜀のなかでも、ほとんど知られていない。
「姜維ではなく?」
思わず口にすると、孔明は、乾いた笑い声をたてた。
枯葉が地面に擦れるような、耳障りな笑い声であった。
「すると、わたしは、伯約を後継にと考えているように振る舞っていた、ということか」
「いえ、高く評価しておられましたし、伯約は降将とはいえ、十分な能力がございますゆえ」
文偉の言葉に、孔明は首を振った。
表情が影になって見えないために、なにを思って否定しているのかは、読み取ることができない。
「蒋琬に万一のことがあり、倒れることがあったなら、そのあとはおまえが継げ。おまえがもし倒れるようなことがあれば、そのあとは、だれがなっても同じ。国は続くまい」

孔明の突き放した言葉を、文偉は恐怖をもって聞いた。
これほどまでに冷徹な言葉を吐く孔明は、はじめてであった。
蒋琬の次に、と指名されても、うれしさは微塵もなかった。
のしかかる重圧に対する恐怖。それしか感じない。
いままで、孔明がひとりで抱え、支えていたものが、その身が朽ちることで、徐々に漏れて、自分たちにこぼれてきている。
見えない泥のようなものに、自身が徐々に身を固められ、動けなくなる幻想を、文偉は描いた。



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