※
馬をひととおり走らせ、村々のあいだをくぐりぬけたあと、のどかな田園がひろがるところまできて、趙雲はようやく馬の足をゆるめた。
「やっと足をゆるめたな」
孔明がぶつくさいうのを背に、趙雲はゆったりと馬の背に揺られている。
たまに、ちらっと振り返ろうとするが、その様子は、かなりこちらに遠慮しているようである。
なんであろう、相談事でもあったのかな。
孔明は馬を操りつつ、ひとり、首をかしげる。
水を向けてやれば、口を開くであろうか。
それとも、沈黙をつづけて、自然と口を開くのを待つべきか。
孔明が思案していると、ようやく趙雲は振り返り、言った。
「今日は良い天気だ。雲もないほどだ」
見上げれば、たしかにそのとおりで、蒼い空には白い雲の欠片すらなく、初夏の太陽がかんかんと大地を容赦なく照らしている。
風がだいぶあり、それが冷たさを含んでいるから、まだ過ごしやすい。
だが、それは体の動きを止めていればの話。
田園に出て、野良仕事をしている農夫たちの動きが、どうも緩慢に見えるのは、気のせいではあるまい。
雲がない?
そうか、天気の話からまずはいって、こちらの反応を見ようというのだな。
合点した孔明は、趙雲のことばを受けて、つづけた。
「雲が、大地の果ての気があふれたものだという話は、ほんとうだろうか。大地の果てから雲が生まれところは見たことがないが、泰山から立ち上る霧が雲に転じていく風景は見たことがある」
「泰山か。霊山だな。いちど行ってみたい」
「武帝の碑があったよ。封禅が行われたときの記念碑だったな。そのときは父上もお元気で、わたしに碑の内容を読んで教えてくださったものだ」
「そうか。いい思い出なのだな」
たしかにいい思い出だが、それを互いに語り合うために、こんな田舎にきたわけではあるまい。
趙雲が言いたいことはなんだろう。
孔明は、率直に、趙雲にたずねた。
「子龍、なぜここに」
来たのだ、とみなまで言わせず、趙雲がまた切り出した。
「雲というと、おのれの名と同じだからかな、空を見ると気になってしまう」
「そういうものか」
「あんたの名は亮だったな」
「そう。亮というと、光るものを表現する言葉だ。なかでも『月亮』ということばが有名だから、わたしなんぞは、どうしても月に興味を持つ。月には、ほんとうに蝦蟇がいて、不死の樹が生えているのかな、とかな」
「不死の樹なんぞ、ぞっとする。むかし秦の始皇帝が不死の薬をもとめて、徐福に蓬莱という国を探させたという伝説があるが、あれがどうしても理解できぬ。俺なんぞは、そんなに生きつづけて、なにが楽しいのかと不思議に思うところだな」
「意外だな」
実感として孔明がそういうと、趙雲のほうが顔をしかめた。
「なぜ。軍師も始皇帝とおなじ類いか」
「不死か。そんなもの、あこがれたこともないし、考えたこともない。仮に不老不死なんぞになったら苦しいだろうな」
すると、趙雲は、じつに満足そうに、うなずいた。
「そうだろう。長く生きるということは、それだけ苦しい思いもしなければならないということだ。始皇帝という男は、よほど人生が楽しかったと見える。俺にはよくわからん」
「あなたも武人なら、不老はともかく不死になって、無敵な男になりたいと思うことはないのか」
「戦は一人でするものではない。俺以外の仲間たちも不死だというのならともかく、俺ひとりが不死になったとしたら、どうだ。勝っても負けても、仲間のだれかは欠けるだろう。
いや、それどころか、戦に負けて、仲間がすべて死んでしまったら、どうなる? 悲しいどころの話ではないだろう。俺はみなの後を追うこともできず、ずっと地上を彷徨うことになる。最悪だ」
「いわれてみればたしかにそうだが」
孔明は意外に思った。
そして先行する馬の背に揺られる、日に焼けた顔を見た。
その視線に気づいたのか、趙雲が不思議そうにたずねてくる。
「なんだ」
「いや、おどろいたのだ。あなたがこんなふうに想像豊かな人だと思っていなかったから。気を悪くしたのなら許してくれ」
「気は悪くしない。が、そうか。ふつうは、あまりこういう発想は、しないものかな」
などと言いつつ、趙雲は首をかしげる。
たしかに、張飛あたりに不死について語らせたなら、死ななくていいのであれば暴れまくって敵をすべて滅ぼすと言い切るだろう。
それにしても。
さきほどの泰山の話といい、不死の話といい、趙雲が伝えたいことはなんなのだろう。
「ところで、わたしたちはいま、どこへ向かっているのだろう。このあたりに集落はあるが、なにも問題がなさそうに見える。あなたには気になることでも?」
「いいや」
あっさりと趙雲は首を振る。
「では、これからどこへ向かうのだ」
「あの山だ」
趙雲が指す方角には、鬱蒼とした山の連なりがある。
そのなかのひとつに、入ろうということであるらしい。
孔明は、おもわず周囲を見回す。
ともかく、なにもない、平和な田園風景である。
家も納屋も人も家畜も、めったに見当たらないほどの。
「そうだ、軍師、聞き忘れていたが、野宿はできるよな?」
「野宿だって?」
てっきり、山里のそばの人家に宿をとるのだろうと推測していた孔明は、野宿と聞いてうろたえた。
なぜにうろたえたかといえば、孔明が気合を入れて纏ってきた派手な衣裳、それが一張羅だったからである。
野宿なんぞをするのであれば、一張羅を着てはこなかった。
「野宿自体には慣れているが」
「が?」
「最初から野宿をすると言ってくれないか。であれば、こんな装いをしてこなかったのに。それとも、あの山の中にに、だれか住んでいて、わたしたちをもてなしてくれるのか」
「集落とちかいから、山小屋くらいはあるかもしれぬが、あいにくと、俺はそこに用はない。軍師は用事があるのか」
「あるわけなかろう。だいたいこのあたりがどこかすらわからないのに」
「うむ、そうだろうな。野宿だとあらかじめ言わなかった俺も、口が足りなかった。謝る。しかし山の頂上までたどり着くのに、一日では無理だからな」
「山の頂上、だと?」
なぜ趙雲が自分を山に連れ出そうとしているのか。
わからない。
混乱しつつ、孔明は仕方なく趙雲のいう山に向けて、馬を歩かせた。
どちらにしろ、もう新野城に帰るには、時間が経ちすぎていた。
あと数刻もすれば、日暮れだ。
つづく
(2006/08/13 初稿)
(2021/11/26 改訂1)
(2021/12/20 改訂2)
(2021/12/26 推敲1)
(2022/1/3 推敲3)
馬をひととおり走らせ、村々のあいだをくぐりぬけたあと、のどかな田園がひろがるところまできて、趙雲はようやく馬の足をゆるめた。
「やっと足をゆるめたな」
孔明がぶつくさいうのを背に、趙雲はゆったりと馬の背に揺られている。
たまに、ちらっと振り返ろうとするが、その様子は、かなりこちらに遠慮しているようである。
なんであろう、相談事でもあったのかな。
孔明は馬を操りつつ、ひとり、首をかしげる。
水を向けてやれば、口を開くであろうか。
それとも、沈黙をつづけて、自然と口を開くのを待つべきか。
孔明が思案していると、ようやく趙雲は振り返り、言った。
「今日は良い天気だ。雲もないほどだ」
見上げれば、たしかにそのとおりで、蒼い空には白い雲の欠片すらなく、初夏の太陽がかんかんと大地を容赦なく照らしている。
風がだいぶあり、それが冷たさを含んでいるから、まだ過ごしやすい。
だが、それは体の動きを止めていればの話。
田園に出て、野良仕事をしている農夫たちの動きが、どうも緩慢に見えるのは、気のせいではあるまい。
雲がない?
そうか、天気の話からまずはいって、こちらの反応を見ようというのだな。
合点した孔明は、趙雲のことばを受けて、つづけた。
「雲が、大地の果ての気があふれたものだという話は、ほんとうだろうか。大地の果てから雲が生まれところは見たことがないが、泰山から立ち上る霧が雲に転じていく風景は見たことがある」
「泰山か。霊山だな。いちど行ってみたい」
「武帝の碑があったよ。封禅が行われたときの記念碑だったな。そのときは父上もお元気で、わたしに碑の内容を読んで教えてくださったものだ」
「そうか。いい思い出なのだな」
たしかにいい思い出だが、それを互いに語り合うために、こんな田舎にきたわけではあるまい。
趙雲が言いたいことはなんだろう。
孔明は、率直に、趙雲にたずねた。
「子龍、なぜここに」
来たのだ、とみなまで言わせず、趙雲がまた切り出した。
「雲というと、おのれの名と同じだからかな、空を見ると気になってしまう」
「そういうものか」
「あんたの名は亮だったな」
「そう。亮というと、光るものを表現する言葉だ。なかでも『月亮』ということばが有名だから、わたしなんぞは、どうしても月に興味を持つ。月には、ほんとうに蝦蟇がいて、不死の樹が生えているのかな、とかな」
「不死の樹なんぞ、ぞっとする。むかし秦の始皇帝が不死の薬をもとめて、徐福に蓬莱という国を探させたという伝説があるが、あれがどうしても理解できぬ。俺なんぞは、そんなに生きつづけて、なにが楽しいのかと不思議に思うところだな」
「意外だな」
実感として孔明がそういうと、趙雲のほうが顔をしかめた。
「なぜ。軍師も始皇帝とおなじ類いか」
「不死か。そんなもの、あこがれたこともないし、考えたこともない。仮に不老不死なんぞになったら苦しいだろうな」
すると、趙雲は、じつに満足そうに、うなずいた。
「そうだろう。長く生きるということは、それだけ苦しい思いもしなければならないということだ。始皇帝という男は、よほど人生が楽しかったと見える。俺にはよくわからん」
「あなたも武人なら、不老はともかく不死になって、無敵な男になりたいと思うことはないのか」
「戦は一人でするものではない。俺以外の仲間たちも不死だというのならともかく、俺ひとりが不死になったとしたら、どうだ。勝っても負けても、仲間のだれかは欠けるだろう。
いや、それどころか、戦に負けて、仲間がすべて死んでしまったら、どうなる? 悲しいどころの話ではないだろう。俺はみなの後を追うこともできず、ずっと地上を彷徨うことになる。最悪だ」
「いわれてみればたしかにそうだが」
孔明は意外に思った。
そして先行する馬の背に揺られる、日に焼けた顔を見た。
その視線に気づいたのか、趙雲が不思議そうにたずねてくる。
「なんだ」
「いや、おどろいたのだ。あなたがこんなふうに想像豊かな人だと思っていなかったから。気を悪くしたのなら許してくれ」
「気は悪くしない。が、そうか。ふつうは、あまりこういう発想は、しないものかな」
などと言いつつ、趙雲は首をかしげる。
たしかに、張飛あたりに不死について語らせたなら、死ななくていいのであれば暴れまくって敵をすべて滅ぼすと言い切るだろう。
それにしても。
さきほどの泰山の話といい、不死の話といい、趙雲が伝えたいことはなんなのだろう。
「ところで、わたしたちはいま、どこへ向かっているのだろう。このあたりに集落はあるが、なにも問題がなさそうに見える。あなたには気になることでも?」
「いいや」
あっさりと趙雲は首を振る。
「では、これからどこへ向かうのだ」
「あの山だ」
趙雲が指す方角には、鬱蒼とした山の連なりがある。
そのなかのひとつに、入ろうということであるらしい。
孔明は、おもわず周囲を見回す。
ともかく、なにもない、平和な田園風景である。
家も納屋も人も家畜も、めったに見当たらないほどの。
「そうだ、軍師、聞き忘れていたが、野宿はできるよな?」
「野宿だって?」
てっきり、山里のそばの人家に宿をとるのだろうと推測していた孔明は、野宿と聞いてうろたえた。
なぜにうろたえたかといえば、孔明が気合を入れて纏ってきた派手な衣裳、それが一張羅だったからである。
野宿なんぞをするのであれば、一張羅を着てはこなかった。
「野宿自体には慣れているが」
「が?」
「最初から野宿をすると言ってくれないか。であれば、こんな装いをしてこなかったのに。それとも、あの山の中にに、だれか住んでいて、わたしたちをもてなしてくれるのか」
「集落とちかいから、山小屋くらいはあるかもしれぬが、あいにくと、俺はそこに用はない。軍師は用事があるのか」
「あるわけなかろう。だいたいこのあたりがどこかすらわからないのに」
「うむ、そうだろうな。野宿だとあらかじめ言わなかった俺も、口が足りなかった。謝る。しかし山の頂上までたどり着くのに、一日では無理だからな」
「山の頂上、だと?」
なぜ趙雲が自分を山に連れ出そうとしているのか。
わからない。
混乱しつつ、孔明は仕方なく趙雲のいう山に向けて、馬を歩かせた。
どちらにしろ、もう新野城に帰るには、時間が経ちすぎていた。
あと数刻もすれば、日暮れだ。
つづく
(2006/08/13 初稿)
(2021/11/26 改訂1)
(2021/12/20 改訂2)
(2021/12/26 推敲1)
(2022/1/3 推敲3)