※
しばらく、二人して、沈黙のまま、山をのぼった。
先行する趙雲の顔は、徐々に木陰によって、見えづらくなっており、何を考えているのかは、想像するしかない。
しばらくして、趙雲のほうが口をひらいた。
「さっき、おまえがした質問だが」
さて、どの質問だろうと孔明が思い返しているあいだ、趙雲はつづける。
「俺が生まれたときから、すでに世は乱れていた。乱れているのがあたりまえの状態だった。武装して戦い、敵を討たねば、こちらが死ぬ。それはあたりまえのことだろう。だから、それをなぜとか、どうするべきかとか、考えたことはなかったな」
趙雲はそういうと、ため息をついた。
「つまり俺は、世の中を見ているようで、見ていなかったということになるのかな」
「それは、ちがうのではないかな。そんなふうに言えるということは、自分で気付いていなかっただけで、あなたは世の中をちゃんと見ていたのだよ。だから、新野でも、だれとでもそつなく付き合えるし、浮き上がることもなかったのだ。わたしには、そんなふうに振る舞えない」
「意見をいわずに、つまらない男としてすごしていたほうが、面倒に巻き込まれなくてすむ。だからそうしていただけだ」
「面倒に巻き込まれたことがあるのか」
「昔な。わが君から聞いたことがあるだろうが、俺は昔、公孫瓚のところにいた。あそこで踏んだのと同じ轍を踏むのがこわかった」
「たいへんな目に遭ったのだな」
孔明が想像して言うと、趙雲は、ちいさく、そうだな、と言ったきり、押し黙ってしまった。
公孫瓚のもとにいたころの話は、あまりしたくないらしい。
そこで、孔明は、あえて不用意なことは口にせず、黙っていた。
やがて、趙雲のほうが、また、たずねてきた。
「退屈していないか。俺は口下手だから、おまえのようにうまく話ができない」
「退屈なんてしていないよ。ぜんぜんしていない」
それは本音のであった。
当初は気乗りでなかったこの小さな旅であるが、趙雲と会話を重ねていくうちに、楽しくなってきたのである。
普段は無口な主騎が、こういうことを考えていたのかと、新しく発見することができて、面白いのだ。
「あなたは口下手じゃないよ。論客として徹底して訓練を受けたわたしが言うのだからまちがいない。自信をもってよい」
「そうかな」
趙雲にしては、らしくない、ぐずぐずした口調である。
孔明はぴんときた。
「ふむ、だれか、あなたのことを口下手と言った者がいるのだな。女だろう」
「……………」
図星であったらしい。
この男が、いわゆる『甘い囁き』とやらで、調子よく女を口説いているところを、孔明はどうしても想像できなかった。
とことん、生真面目なのである。
本当に真面目にその気持ちに向き合わなければ、対する趙雲も本気にはならない。
まさに真剣勝負。
それでは商売女は疲れてしまうだろうし、ふつうの女でもそうだろう。
よほどの教養をもち、おのれの生き方に哲学をもった女でなければ、趙雲を正面から受け止めるのはむずかしかろう。
でなければ、その真逆、底抜けに陽気で享楽的。
しかしそうなると、真面目な趙雲とは、あまり長続きしそうにないな、とも予測できる。
ふむ、そのうち、よい女人がいたら、世話をしてやろうかな、と孔明は考えた。
しかし、そのまえに自分が再婚しろと言われそうだな、とも思い付き、すぐにあきらめた。
追いかけるかたちとなっている趙雲の背中が、見るからにしおれてきた。
いかん、今度こそ、いかん。
女と公孫瓚は、趙雲にとって、触れてはいけない部分だったのだ。
失言だった。
孔明は穴埋めをすべく、つとめてほがらかに、言った。
「あなたが口下手だというのなら、わたしは社交下手なのだが、やはり人とこうして交流する、ということは大切なことなのだな」
お追従ではなく、実感して思うことであった。
こうして実際に話をしてみなければ、趙雲が果たして何を考え、こちらをどう受け止めているのか、ここまでつかむことはできなかっただろう。
「いろいろ考えていたら、憂さも晴れたよ、ありがとう」
連れ出してくれた趙雲への、感謝の意味もこめて孔明がいうと、趙雲のほうは、なぜだか怖い顔を向けてくる。
孔明はうろたえた。
「なぜ怒る」
「直言にすぎる。そういうことを言われるのは嫌だ」
今度は、孔明が顔をしかめる番であった。
「でも、わたしは言いたいのだ」
「なぜ。あんたは士大夫にしては、直言が多いな」
「士大夫だろうとなんだろうと、そんなものに構っていられるか。子龍、もしかしたら、突然、虎が襲ってくるかもしれない」
「なんだって」
「想像したまえ。それはとんでもなく凶悪で巨大な虎で、あなたの武力を持っても、制することができない。足場も悪いしな。そう、そいつはもしかしたら、この山の神から使わされた虎なのかもしれぬ」
「はあ」
「奮闘努力の甲斐もなく、あなたは虎に倒され、わたしだけが生き残る」
「おい」
「そうして残されたわたしは、泣きながら、こう思うだろう。
『ああ、こんなことになるのであったら、さっき、あなたに、山に連れ出してくれてありがとうと言うべきだった』とな」
「それで?」
「だからだ」
「ときどき、あんたと話をしていると、眩暈を感じるのは気のせいか?」
「食べている物に問題があるかもしれないな。医食同源。好き嫌いはいかん」
「俺はなんでも食うほうだが……虎はこのあたりにいない。もっと奥のほうにはいるらしいが、そこには入る予定はない。虎に会いたければ、ひとりでいけ。さすがにそこまで面倒はみないぞ」
「だから、喩えだ、喩え。わかりにくかったか。じゃあ、熊にしよう。さらに想像したまえ。それは、そうさな、小山ほどある巨大で凶悪な熊で……」
「どうぶつを変えても同じだ! わかった。つまり、言いたいときに言わないと、あとで後悔するから、だから言うのだと、あんたは言いたいのだな」
「伝わっているじゃないか」
「伝わってはいるが、直言をやめてくれと、俺は言いたかったのだ」
「どうぶつが気に入らないなら、『刺客』に言葉を変えてもいいぞ。途端に、ああ、たしかにそうかもな、と思えてくるぞ。さあ、想像してみよ」
「強制するな」
といいつつも、趙雲はしばしの沈黙のあと、答えた。
「そうだな、あんたの言うことも、一理あるかもしれん」
「そうだろう。というわけで、ずいぶん長い話になったが、ありがとう」
「あのな、まだ頂上についていないうちから、礼を言われても困る」
「頂上になにかあるのか? めずらしい岩とか?」
それは明日になればわかる、と言って、趙雲は意味ありげに笑うと、そのまま黙った。
つづく
(2006/08/13 初稿)
(2021/11/26 改訂1)
(2021/12/20 改訂2)
(2021/12/26 推敲1)
(2022/1/3 推敲3)
しばらく、二人して、沈黙のまま、山をのぼった。
先行する趙雲の顔は、徐々に木陰によって、見えづらくなっており、何を考えているのかは、想像するしかない。
しばらくして、趙雲のほうが口をひらいた。
「さっき、おまえがした質問だが」
さて、どの質問だろうと孔明が思い返しているあいだ、趙雲はつづける。
「俺が生まれたときから、すでに世は乱れていた。乱れているのがあたりまえの状態だった。武装して戦い、敵を討たねば、こちらが死ぬ。それはあたりまえのことだろう。だから、それをなぜとか、どうするべきかとか、考えたことはなかったな」
趙雲はそういうと、ため息をついた。
「つまり俺は、世の中を見ているようで、見ていなかったということになるのかな」
「それは、ちがうのではないかな。そんなふうに言えるということは、自分で気付いていなかっただけで、あなたは世の中をちゃんと見ていたのだよ。だから、新野でも、だれとでもそつなく付き合えるし、浮き上がることもなかったのだ。わたしには、そんなふうに振る舞えない」
「意見をいわずに、つまらない男としてすごしていたほうが、面倒に巻き込まれなくてすむ。だからそうしていただけだ」
「面倒に巻き込まれたことがあるのか」
「昔な。わが君から聞いたことがあるだろうが、俺は昔、公孫瓚のところにいた。あそこで踏んだのと同じ轍を踏むのがこわかった」
「たいへんな目に遭ったのだな」
孔明が想像して言うと、趙雲は、ちいさく、そうだな、と言ったきり、押し黙ってしまった。
公孫瓚のもとにいたころの話は、あまりしたくないらしい。
そこで、孔明は、あえて不用意なことは口にせず、黙っていた。
やがて、趙雲のほうが、また、たずねてきた。
「退屈していないか。俺は口下手だから、おまえのようにうまく話ができない」
「退屈なんてしていないよ。ぜんぜんしていない」
それは本音のであった。
当初は気乗りでなかったこの小さな旅であるが、趙雲と会話を重ねていくうちに、楽しくなってきたのである。
普段は無口な主騎が、こういうことを考えていたのかと、新しく発見することができて、面白いのだ。
「あなたは口下手じゃないよ。論客として徹底して訓練を受けたわたしが言うのだからまちがいない。自信をもってよい」
「そうかな」
趙雲にしては、らしくない、ぐずぐずした口調である。
孔明はぴんときた。
「ふむ、だれか、あなたのことを口下手と言った者がいるのだな。女だろう」
「……………」
図星であったらしい。
この男が、いわゆる『甘い囁き』とやらで、調子よく女を口説いているところを、孔明はどうしても想像できなかった。
とことん、生真面目なのである。
本当に真面目にその気持ちに向き合わなければ、対する趙雲も本気にはならない。
まさに真剣勝負。
それでは商売女は疲れてしまうだろうし、ふつうの女でもそうだろう。
よほどの教養をもち、おのれの生き方に哲学をもった女でなければ、趙雲を正面から受け止めるのはむずかしかろう。
でなければ、その真逆、底抜けに陽気で享楽的。
しかしそうなると、真面目な趙雲とは、あまり長続きしそうにないな、とも予測できる。
ふむ、そのうち、よい女人がいたら、世話をしてやろうかな、と孔明は考えた。
しかし、そのまえに自分が再婚しろと言われそうだな、とも思い付き、すぐにあきらめた。
追いかけるかたちとなっている趙雲の背中が、見るからにしおれてきた。
いかん、今度こそ、いかん。
女と公孫瓚は、趙雲にとって、触れてはいけない部分だったのだ。
失言だった。
孔明は穴埋めをすべく、つとめてほがらかに、言った。
「あなたが口下手だというのなら、わたしは社交下手なのだが、やはり人とこうして交流する、ということは大切なことなのだな」
お追従ではなく、実感して思うことであった。
こうして実際に話をしてみなければ、趙雲が果たして何を考え、こちらをどう受け止めているのか、ここまでつかむことはできなかっただろう。
「いろいろ考えていたら、憂さも晴れたよ、ありがとう」
連れ出してくれた趙雲への、感謝の意味もこめて孔明がいうと、趙雲のほうは、なぜだか怖い顔を向けてくる。
孔明はうろたえた。
「なぜ怒る」
「直言にすぎる。そういうことを言われるのは嫌だ」
今度は、孔明が顔をしかめる番であった。
「でも、わたしは言いたいのだ」
「なぜ。あんたは士大夫にしては、直言が多いな」
「士大夫だろうとなんだろうと、そんなものに構っていられるか。子龍、もしかしたら、突然、虎が襲ってくるかもしれない」
「なんだって」
「想像したまえ。それはとんでもなく凶悪で巨大な虎で、あなたの武力を持っても、制することができない。足場も悪いしな。そう、そいつはもしかしたら、この山の神から使わされた虎なのかもしれぬ」
「はあ」
「奮闘努力の甲斐もなく、あなたは虎に倒され、わたしだけが生き残る」
「おい」
「そうして残されたわたしは、泣きながら、こう思うだろう。
『ああ、こんなことになるのであったら、さっき、あなたに、山に連れ出してくれてありがとうと言うべきだった』とな」
「それで?」
「だからだ」
「ときどき、あんたと話をしていると、眩暈を感じるのは気のせいか?」
「食べている物に問題があるかもしれないな。医食同源。好き嫌いはいかん」
「俺はなんでも食うほうだが……虎はこのあたりにいない。もっと奥のほうにはいるらしいが、そこには入る予定はない。虎に会いたければ、ひとりでいけ。さすがにそこまで面倒はみないぞ」
「だから、喩えだ、喩え。わかりにくかったか。じゃあ、熊にしよう。さらに想像したまえ。それは、そうさな、小山ほどある巨大で凶悪な熊で……」
「どうぶつを変えても同じだ! わかった。つまり、言いたいときに言わないと、あとで後悔するから、だから言うのだと、あんたは言いたいのだな」
「伝わっているじゃないか」
「伝わってはいるが、直言をやめてくれと、俺は言いたかったのだ」
「どうぶつが気に入らないなら、『刺客』に言葉を変えてもいいぞ。途端に、ああ、たしかにそうかもな、と思えてくるぞ。さあ、想像してみよ」
「強制するな」
といいつつも、趙雲はしばしの沈黙のあと、答えた。
「そうだな、あんたの言うことも、一理あるかもしれん」
「そうだろう。というわけで、ずいぶん長い話になったが、ありがとう」
「あのな、まだ頂上についていないうちから、礼を言われても困る」
「頂上になにかあるのか? めずらしい岩とか?」
それは明日になればわかる、と言って、趙雲は意味ありげに笑うと、そのまま黙った。
つづく
(2006/08/13 初稿)
(2021/11/26 改訂1)
(2021/12/20 改訂2)
(2021/12/26 推敲1)
(2022/1/3 推敲3)