どこか安全なところへ逃げなければ。
脚を励まし、引きずり、麋夫人《びふじん》はあたりを見回す。
前方に、廃屋があるのがわかった。
かろうじて屋根が残っている、ひどいありさまの廃屋だった。
だいぶ昔に家主に捨てられたものらしい。
『あそこに隠れよう、だれか迎えにきてくれるかもしれない』
夜闇のなかを駆けまわるのはおそろしいことであった。
だが、朝になってわかった。
目隠しになってくれていた闇が消えることも、またおそろしいことなのだと。
敵に見つかるわけにはいかない。
自分はどうなってもいい。
だが、阿斗は、見つかったら、きっと殺される。
それだけは避けなければ。
廃屋に入っていくと、さいわい、厨房の傍らに残っていた大甕《おおがめ》のなかに雨水がたまっていた。
清く甘い水しか飲んでこなかった麋夫人にとっては冒険だったが、のどがあまりに乾いていたので、掬《すく》って飲んだ。
そして、土塀に背を預けるかたちで床にへたりこむ。
布張りの靴はとっくに破けていて、足の先は無残なものだった。
おそらく、鏡があったなら、泥だらけで傷だらけの、赤ん坊を抱いた女を見ることができたろう。
崩れた土塀の向こうには、中庭があり、古いおおきな井戸が梅の木のとなりにあった。
雑草のたぐいは少なく、このところ少雨だったこともあり、植物のほとんどは枯れてしおれている。
『だれも来てくれなかったら、どうしよう』
そんな悲観的な考えが浮かんでくる。
すぐさま、麋夫人は首をおおきく振って、おのれの考えを振り払った。
「いいえ、だれかがきっと来てくれるわ」
口に出すと、ほんとうにそうなるような気がしてくるからふしぎだ。
胸に抱かれている阿斗は静かなもので、お乳を欲しがるでもなく、むずがるでもなく、ひたすら眠っている。
しかし、そろそろぐずりだしても、おかしくはない。
残念なことに、麋夫人は阿斗の生母ではないので、お乳を阿斗にあたえることができない。
「ごめんなさいね、阿斗。きっとお母さまに会わせてあげるからね」
甘夫人《かんふじん》が死んでしまったかもしれないという想像は、麋夫人の頭にない。
甘夫人は数々の修羅場を切り抜けてきている、麋夫人の尊敬する女人だ。
こんどの苦難だって、きっと切り抜けているに決まっている。
ふと、ぱきっと枯れ枝が踏まれる音がした。
だれかが敷地内にはいってきたらしい。
助けがきたのかしら。
麋夫人は首をのばして、崩れた土塀の穴から、外をうかがった。
とたん、心臓が掴まれたのではというほど、恐怖で胸の痛みをおぼえた。
泥まみれで血まみれの曹操の兵が、槍を手に敷地内をうろついているのだ。
さいわい、ひとりだけのようだったが、それでも丸腰の麋夫人にとってはじゅうぶんに脅威だった。
『どうしよう!』
麋夫人は、息を殺し、相手のうごきを見る。
曹操の兵は、仲間とはぐれたのか、あたりをきょろきょろと見回している。
人を何人も殺したせいか、その形相は鬼のようにこわばっていて、口周りの豊かなひげは、どれも逆立っている。
見つかったら、殺されるのはまちがない。
いや、殺されなかったとしても、どれだけひどい目に遭わされるか、知れたものではない。
自害する、という選択肢が、はじめて麋夫人のあたまに浮かんだ。
自分は劉備の妻なのだ。
その自分が、名もない男に辱められて死ぬという事態に陥ってはならない。
劉備の名を汚すことにもなる。
男はふう、ふう、と荒い息のまま、廃屋に入って来た。
麋夫人は身を縮め、息を殺した。
恐怖と混乱のため、自分の息が激しくなる。
それを殺そうとすると、ますます息がうまくつげなくなって、麋夫人はますます焦った。
厨房の外には、例の古井戸がある。
護身用の短剣を持ってはいるが、これで敵を攻撃するのはほぼ不可能。
いますぐ自分の胸を突いて、死ぬか。
それとも、井戸に飛び込んで死ぬか……
『だめよ、阿斗はどうするの。阿斗を道連れにすることはできない』
曹操の兵に見つからないようにと懸命に祈りながら、いまや壁一枚へだてて向こうにいるだけの曹操の兵をじっと見つめる。
『お願い、出て行って! 天の神様、どうぞわたしと阿斗をお守りください!』
そのとき、だれかにぐいっと肩を掴まれた。
悲鳴をあげかけて、すぐさま口をふさがれる。
身をよじり、口をふさぐ手を振り払おうとしたが、目の端に見えた姿におどろいて、動きを止めた。
少年だった。
子ザルのような目のきょろりとした少年で、身振りで麋夫人に静かにするよう伝えてきている。
つづく
脚を励まし、引きずり、麋夫人《びふじん》はあたりを見回す。
前方に、廃屋があるのがわかった。
かろうじて屋根が残っている、ひどいありさまの廃屋だった。
だいぶ昔に家主に捨てられたものらしい。
『あそこに隠れよう、だれか迎えにきてくれるかもしれない』
夜闇のなかを駆けまわるのはおそろしいことであった。
だが、朝になってわかった。
目隠しになってくれていた闇が消えることも、またおそろしいことなのだと。
敵に見つかるわけにはいかない。
自分はどうなってもいい。
だが、阿斗は、見つかったら、きっと殺される。
それだけは避けなければ。
廃屋に入っていくと、さいわい、厨房の傍らに残っていた大甕《おおがめ》のなかに雨水がたまっていた。
清く甘い水しか飲んでこなかった麋夫人にとっては冒険だったが、のどがあまりに乾いていたので、掬《すく》って飲んだ。
そして、土塀に背を預けるかたちで床にへたりこむ。
布張りの靴はとっくに破けていて、足の先は無残なものだった。
おそらく、鏡があったなら、泥だらけで傷だらけの、赤ん坊を抱いた女を見ることができたろう。
崩れた土塀の向こうには、中庭があり、古いおおきな井戸が梅の木のとなりにあった。
雑草のたぐいは少なく、このところ少雨だったこともあり、植物のほとんどは枯れてしおれている。
『だれも来てくれなかったら、どうしよう』
そんな悲観的な考えが浮かんでくる。
すぐさま、麋夫人は首をおおきく振って、おのれの考えを振り払った。
「いいえ、だれかがきっと来てくれるわ」
口に出すと、ほんとうにそうなるような気がしてくるからふしぎだ。
胸に抱かれている阿斗は静かなもので、お乳を欲しがるでもなく、むずがるでもなく、ひたすら眠っている。
しかし、そろそろぐずりだしても、おかしくはない。
残念なことに、麋夫人は阿斗の生母ではないので、お乳を阿斗にあたえることができない。
「ごめんなさいね、阿斗。きっとお母さまに会わせてあげるからね」
甘夫人《かんふじん》が死んでしまったかもしれないという想像は、麋夫人の頭にない。
甘夫人は数々の修羅場を切り抜けてきている、麋夫人の尊敬する女人だ。
こんどの苦難だって、きっと切り抜けているに決まっている。
ふと、ぱきっと枯れ枝が踏まれる音がした。
だれかが敷地内にはいってきたらしい。
助けがきたのかしら。
麋夫人は首をのばして、崩れた土塀の穴から、外をうかがった。
とたん、心臓が掴まれたのではというほど、恐怖で胸の痛みをおぼえた。
泥まみれで血まみれの曹操の兵が、槍を手に敷地内をうろついているのだ。
さいわい、ひとりだけのようだったが、それでも丸腰の麋夫人にとってはじゅうぶんに脅威だった。
『どうしよう!』
麋夫人は、息を殺し、相手のうごきを見る。
曹操の兵は、仲間とはぐれたのか、あたりをきょろきょろと見回している。
人を何人も殺したせいか、その形相は鬼のようにこわばっていて、口周りの豊かなひげは、どれも逆立っている。
見つかったら、殺されるのはまちがない。
いや、殺されなかったとしても、どれだけひどい目に遭わされるか、知れたものではない。
自害する、という選択肢が、はじめて麋夫人のあたまに浮かんだ。
自分は劉備の妻なのだ。
その自分が、名もない男に辱められて死ぬという事態に陥ってはならない。
劉備の名を汚すことにもなる。
男はふう、ふう、と荒い息のまま、廃屋に入って来た。
麋夫人は身を縮め、息を殺した。
恐怖と混乱のため、自分の息が激しくなる。
それを殺そうとすると、ますます息がうまくつげなくなって、麋夫人はますます焦った。
厨房の外には、例の古井戸がある。
護身用の短剣を持ってはいるが、これで敵を攻撃するのはほぼ不可能。
いますぐ自分の胸を突いて、死ぬか。
それとも、井戸に飛び込んで死ぬか……
『だめよ、阿斗はどうするの。阿斗を道連れにすることはできない』
曹操の兵に見つからないようにと懸命に祈りながら、いまや壁一枚へだてて向こうにいるだけの曹操の兵をじっと見つめる。
『お願い、出て行って! 天の神様、どうぞわたしと阿斗をお守りください!』
そのとき、だれかにぐいっと肩を掴まれた。
悲鳴をあげかけて、すぐさま口をふさがれる。
身をよじり、口をふさぐ手を振り払おうとしたが、目の端に見えた姿におどろいて、動きを止めた。
少年だった。
子ザルのような目のきょろりとした少年で、身振りで麋夫人に静かにするよう伝えてきている。
つづく
※ いつも閲覧してくださっているみなさま、ありがとうございます(^^♪
おかげさまで、毎日、張りのある創作活動ができていますv
しかし……お伝えしなくてはならないことが近づいてきています;
近々、近況報告にて現状をお伝えする予定です。
そのときはどうぞ読んでやってくださいませ……
そして今日はフィギュアスケートの四大陸選手権で、とっても応援していた千葉百音ちゃんが優勝してくれてほっくほく!
あのちいちゃな百音ちゃんが、こんなに立派な選手に成長するとは……うれしいですねえ。
男子……鍵山くん、佐藤くん、山本くんも続いてくれるはず!
と、話がそれました;
とにもかくにも、明日もどうぞおたのしみにー(*^-^*)