※
「止まれ、赫曄《かくよう》! 止まれっ」
咽喉が涸れるのではないかと思うくらいに、なんども同じ言葉を愛馬に命じた。
だが、赫曄は狂ったように、めちゃくちゃに闇のなかをかけ続ける。
追っ手を巻いてもなお、速度をゆるめずに駆け続けた。
気づくと、もうあたりはすっかり夜の帳《とばり》につつまれていた。
さすがの赫曄もへばったのか、途中でぴたりと足を止めてしまった。
潰れなかっただけでも幸いだろう。
俊足をほこる赫曄に、大きく引き離された老人と斐仁《ひじん》の馬がようやく追いついたのが、月明かりに浮かび上がる、その影でわかった。
趙雲が、いま駆けてきた道を戻ろうと、ふたたび馬首をめぐらせると、老人が、手を伸ばし、趙雲の手綱を横から奪った。
そして、叫ぶ。
「この莫迦《ばか》め! どこへ行くつもりだ!」
「どこへ、だと? 決まっている、襄陽城だ!」
「落ち着け、それでも主騎か!」
「主騎だからこそ戻るのだ! その手を離してもらおうか!」
「どこまで莫迦なのだ! 孔明さまが、なんとしても貴殿を逃がすために、こうまでしたのがわからぬか!
いまおまえが戻れば、孔明さまのご配慮も無駄になってしまうわ!」
「俺を逃がすためだと? いったい何故だ!」
しかし、その問いに答えられる人間は、この場にいない。
自らを陰謀の道具につかった潘季鵬《はんきほう》に面識のある斐仁でさえ、その本名を知らなかった。
「さいわい、この道は新野へつづいている。
このまま夜通し駆ければ、昼には新野へ着くであろう。
孔明さまの言うとおり、劉豫洲《りゅうよしゅう》のもとへゆき、兵を連れて襄陽へ戻るのだ」
「戻って、それでどうする?
新野の人間にあれこれと事情を説明しているあいだに、軍師の身に何事かが起こったらどうするのだ!
あいつは、人の性の恐ろしさと言うものを判っておらぬ! 人に対して、楽観的に過ぎるのだ。
二十八になるまで、五体満足に生きてこられたのは、つねにおのれを庇護してくる人間に恵まれていたからに過ぎぬのに」
「孔明さまは、そのことを忘れているのではない。
判っているからこそ、おのれを守ってくれた者に恩義を返すために、一人残られたのだ」
「莫迦な。『壷中』が、いま軍師がいうとおりに、二つに割れているというのであれば、襄陽城の『壷中』はたしかに軍師を殺さぬかもしれぬが、もう一方の『壷中』は、軍師に何をしてもおかしくないということではないか」
「いいや、もう一方の『壺中』が狙っているのは孔明さまではない。おまえだ!
おまえがのこのこ戻り、殺されてしまったならば、孔明さまのお心遣いもすべてムダとなってしまう。それだけはさせぬぞ!」
老人は、手綱をふたたび強く持ち、趙雲をはげしく真正面から睨みつける。
「なぜ、俺なのだ。俺は『壷中』なぞ知らぬ!」
「おまえが知らんと思っていても、向こうがよく知っているのではないか。
われら武人は、いくたの命を蹴散らしてゆく、この世でもっとも呪われやすい立場にある人間だ。
そのなかで、はげしい恨みを買ったとしても、いたし方あるまい。
それが嫌だというのならば、戦うことを止めるしかないのだ」
「ならば、こんな薄汚い手を使わずとも、直接、俺の目の前に現れればよいではないか!」
「苛立つな! 冷静さを欠けば、それだけ事態は悪くなる。
孔明さまは、おまえはすべてを見ているとおっしゃっていた。
冷静に思い出せ。心当たりはあるはずだぞ」
老人の言葉に、趙雲は息をつき、額に手を当てる。
「わからぬ。荊州に来てからの話なのか?
斐仁、おまえが新野で見たというその男、俺のことを話していたことはないか」
「ございませぬが、新野の様子を知りたいと言って、いろいろ話して聞かせてやったことはございます。
ただ、特別にあなたさまのことばかり聞かれた、ということもありませんでした」
「ほかに、なにか無いか。さきほど語ったことでもよい」
「偽名をたくさん持っていて、本名はだれにも明かしていないのです。
片腕が利かなくなったのは、以前に仕えていた家が滅んだときに、敵に捕らえられ、そのときに負ったものだと言っておりました。
それと、幽州の漁村の出自とかいう話も耳にしました」
荒い息を吐きつつも、淡々と答える斐仁の、のっぺりした顔を見つつ、趙雲は不意に、夏侯蘭と再会した夜のことを思い出していた。
空屋敷に目が行ったそもそものきっかけは、斐仁の姿を見かけたからではない。
歌が聞こえたからだ。
いまでも鮮やかに覚えている。
袁紹のもとから、公孫瓚《こうそんさん》の居住する薊《ぎょう》へ向かうまでの道のり。
そのなかで、ほかに同じように見出された少年たちとともに、あの男が歌っていた歌だ。
ぞおっと、怖気《おぞけ》が立った。
脳裏に、一人の男の姿が浮かび上がってくる。
「まさか、潘季鵬か?」
そんな莫迦な、と趙雲はすぐさま打ち消したが、しかしそうだと考えると、偽名を使っているのも納得がいく。
ともに公孫瓚のもとに身を寄せていた劉備たちも、潘季鵬の名前を知っている。
かれらや趙雲に、その名が漏れるのを恐れたのだ。
つづく
※ いつも当ブログに遊びに来てくださっているみなさま、ありがとうございます!
そして、ブログ村およびブログランキングに投票してくださっているみなさまも、感謝です!
おかげさまで、臥龍的陣も連載110話目。
あらかた推敲も終わりましたし、先がすこーしずつ見えてきた感じです。
それもこれも、みなさま方の応援あってこそ。
今後ともがんばりますので、どうぞひきつづき当ブログをごひいきに!(^^)!
「止まれ、赫曄《かくよう》! 止まれっ」
咽喉が涸れるのではないかと思うくらいに、なんども同じ言葉を愛馬に命じた。
だが、赫曄は狂ったように、めちゃくちゃに闇のなかをかけ続ける。
追っ手を巻いてもなお、速度をゆるめずに駆け続けた。
気づくと、もうあたりはすっかり夜の帳《とばり》につつまれていた。
さすがの赫曄もへばったのか、途中でぴたりと足を止めてしまった。
潰れなかっただけでも幸いだろう。
俊足をほこる赫曄に、大きく引き離された老人と斐仁《ひじん》の馬がようやく追いついたのが、月明かりに浮かび上がる、その影でわかった。
趙雲が、いま駆けてきた道を戻ろうと、ふたたび馬首をめぐらせると、老人が、手を伸ばし、趙雲の手綱を横から奪った。
そして、叫ぶ。
「この莫迦《ばか》め! どこへ行くつもりだ!」
「どこへ、だと? 決まっている、襄陽城だ!」
「落ち着け、それでも主騎か!」
「主騎だからこそ戻るのだ! その手を離してもらおうか!」
「どこまで莫迦なのだ! 孔明さまが、なんとしても貴殿を逃がすために、こうまでしたのがわからぬか!
いまおまえが戻れば、孔明さまのご配慮も無駄になってしまうわ!」
「俺を逃がすためだと? いったい何故だ!」
しかし、その問いに答えられる人間は、この場にいない。
自らを陰謀の道具につかった潘季鵬《はんきほう》に面識のある斐仁でさえ、その本名を知らなかった。
「さいわい、この道は新野へつづいている。
このまま夜通し駆ければ、昼には新野へ着くであろう。
孔明さまの言うとおり、劉豫洲《りゅうよしゅう》のもとへゆき、兵を連れて襄陽へ戻るのだ」
「戻って、それでどうする?
新野の人間にあれこれと事情を説明しているあいだに、軍師の身に何事かが起こったらどうするのだ!
あいつは、人の性の恐ろしさと言うものを判っておらぬ! 人に対して、楽観的に過ぎるのだ。
二十八になるまで、五体満足に生きてこられたのは、つねにおのれを庇護してくる人間に恵まれていたからに過ぎぬのに」
「孔明さまは、そのことを忘れているのではない。
判っているからこそ、おのれを守ってくれた者に恩義を返すために、一人残られたのだ」
「莫迦な。『壷中』が、いま軍師がいうとおりに、二つに割れているというのであれば、襄陽城の『壷中』はたしかに軍師を殺さぬかもしれぬが、もう一方の『壷中』は、軍師に何をしてもおかしくないということではないか」
「いいや、もう一方の『壺中』が狙っているのは孔明さまではない。おまえだ!
おまえがのこのこ戻り、殺されてしまったならば、孔明さまのお心遣いもすべてムダとなってしまう。それだけはさせぬぞ!」
老人は、手綱をふたたび強く持ち、趙雲をはげしく真正面から睨みつける。
「なぜ、俺なのだ。俺は『壷中』なぞ知らぬ!」
「おまえが知らんと思っていても、向こうがよく知っているのではないか。
われら武人は、いくたの命を蹴散らしてゆく、この世でもっとも呪われやすい立場にある人間だ。
そのなかで、はげしい恨みを買ったとしても、いたし方あるまい。
それが嫌だというのならば、戦うことを止めるしかないのだ」
「ならば、こんな薄汚い手を使わずとも、直接、俺の目の前に現れればよいではないか!」
「苛立つな! 冷静さを欠けば、それだけ事態は悪くなる。
孔明さまは、おまえはすべてを見ているとおっしゃっていた。
冷静に思い出せ。心当たりはあるはずだぞ」
老人の言葉に、趙雲は息をつき、額に手を当てる。
「わからぬ。荊州に来てからの話なのか?
斐仁、おまえが新野で見たというその男、俺のことを話していたことはないか」
「ございませぬが、新野の様子を知りたいと言って、いろいろ話して聞かせてやったことはございます。
ただ、特別にあなたさまのことばかり聞かれた、ということもありませんでした」
「ほかに、なにか無いか。さきほど語ったことでもよい」
「偽名をたくさん持っていて、本名はだれにも明かしていないのです。
片腕が利かなくなったのは、以前に仕えていた家が滅んだときに、敵に捕らえられ、そのときに負ったものだと言っておりました。
それと、幽州の漁村の出自とかいう話も耳にしました」
荒い息を吐きつつも、淡々と答える斐仁の、のっぺりした顔を見つつ、趙雲は不意に、夏侯蘭と再会した夜のことを思い出していた。
空屋敷に目が行ったそもそものきっかけは、斐仁の姿を見かけたからではない。
歌が聞こえたからだ。
いまでも鮮やかに覚えている。
袁紹のもとから、公孫瓚《こうそんさん》の居住する薊《ぎょう》へ向かうまでの道のり。
そのなかで、ほかに同じように見出された少年たちとともに、あの男が歌っていた歌だ。
ぞおっと、怖気《おぞけ》が立った。
脳裏に、一人の男の姿が浮かび上がってくる。
「まさか、潘季鵬か?」
そんな莫迦な、と趙雲はすぐさま打ち消したが、しかしそうだと考えると、偽名を使っているのも納得がいく。
ともに公孫瓚のもとに身を寄せていた劉備たちも、潘季鵬の名前を知っている。
かれらや趙雲に、その名が漏れるのを恐れたのだ。
つづく
※ いつも当ブログに遊びに来てくださっているみなさま、ありがとうございます!
そして、ブログ村およびブログランキングに投票してくださっているみなさまも、感謝です!
おかげさまで、臥龍的陣も連載110話目。
あらかた推敲も終わりましたし、先がすこーしずつ見えてきた感じです。
それもこれも、みなさま方の応援あってこそ。
今後ともがんばりますので、どうぞひきつづき当ブログをごひいきに!(^^)!