はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

風の終わる場所 1

2020年11月07日 10時40分18秒 | 風の終わる場所
「どなたか! どなたか開けてくだされ!」

巨大な満月が出ている夜であった。
成都の夜空に、これほどあざやかな月が出ていることはめずらしい。
月は、青白い姿を、威圧するかのようにぶきみに天空にかがやかせ、地上の人々を見下ろしていた。
まるで巨人のまなこのように。

息が荒い。
それはそうだろう、息ができているのがふしぎなくらいだ。
自分は生きているのか? 
まだ毒はまわっていないのか? 
この扉を叩いているのは、だれの手だ? 
ほんとうに俺の手か? 
俺はもう亡霊となって、いまだ村から逃げようとしているだれかの姿を、うしろからじっとながめているだけではないのか?

裏木戸が、不意にぱっと開いた。
そこに立っていたのは…
「文偉! このような夜更けにどうしたのだ」
「軍師将軍こそ…」
しわがれた声は、まちがいなく自分のものだ。
生きているのだ。
まさか屋敷の主人、みずからが、裏木戸を開けてくれるとはおもわなかった。
屋敷の主人、諸葛孔明は、髪を下ろし、後ろでゆるくひとつに束ね、寝巻きのうえに、上衣を羽織った出で立ちである。
手紙をしたためていたのか、紙燭をかかげるその指先が、わずかに墨で汚れている。
文偉は、その超然とした、月にも負けぬ圧倒的な存在感を見せる、美貌の上役の顔を見て、心から安堵した。
安堵して、そのまま中に向かって、ばたりと倒れた。





心地よい香木の匂いに揺り起こされるようにして、目を覚ました。
「軍師、目を覚ましたようだ。文偉、わかるか?」
声をかけてきたのは、ほかならぬ、親友の父・董和であった。
四十も半ばにさしかかる年頃の董和は、同年代である文偉の伯父の費伯仁と比べると、ずいぶん若々しい。
文偉は、口に出したことはなかったが、董和の厳しそうな面差しと、それでいてやさしい目や、威厳のある響きの良い低音の声などが好きであった。
幼いころに亡くなった父をおもわせるからだ。
伯父にいわせれば、亡父は、ずいぶんなお調子者だった、ということだから、堅実な董和とは、まるでちがったかもしれないが、それでも、文偉からすれば、董和は理想の父親なのである。

いや、しかし、どうして自分は董家にいるのだろう?
たしか、軍師将軍のお屋敷を目指していたはずで、たしかに裏木戸から出てきたのも、軍師将軍ではなかったか…
「休昭は?」
おもわず董和に問いかけると、董和は声をたてて笑った。
「なんだ、勘違いをしておるようだな。ここはわたしの家ではない。軍師将軍のお住まいだ。夜更けに自ら押しかけてきておいて、忘れているとはひどいヤツだな」
申し訳ありませぬ、といおうとしたが、咽喉が渇いて、うまく声がでない。
それを察したか、董和は、文偉の頭を抱え上げると、水差しで水を飲ませてくれた。
異常なまでに通りがよくなっている鼻腔に、部屋に焚かれた香木の、清清しい香りが染みとおる。
おもわず目を閉じると、董和は言った。
「ずいぶんひどい目に遭ったようだな。軍師も、おまえの有り様に、驚いておられたぞ。たしか伯仁どのの御用で、郊外に出かけていたのではなかったのか」
「左様でございます。幼宰さま、なぜここに?」
「軍師と仕事について話し合っておったら、いつの間にか夜更けになっていたのだよ」
「ご両人ともあいかわらず」
熱心でございますな、と文偉は続けようとしたが、力が入らなかった。
毒のせいだろうか。
「毒を飲まされました」
「なに?」
「村人に、甘露だと言われて…迂闊でございました」
「村とは?」
「劉璋がまだこの地にいたころに、姑が所有していた、費家の領地内にあった村でございます」
まぶたが重たくなってきた。
異常に眠い。
董和の声が、だんだん遠くなる。
「その村は、狼藉ものばかりが暮らしているようだな」
そういいながら、屋敷の主、孔明が、さきほどまで文偉のまとっていた衣服を拡げつつ、部屋に入ってきた。
孔明の身なりも、さきほどまでの就寝前をおもわせるくつろいだものから、公琰務のときに見せるような、きっちりしたものに変わっている。
髪はきれいに結い上げられ、衣はいつもの絹の凝った刺繍入りの衣裳。
自分のような目下の者にさえ、礼を失しないようにしようという、このひとの身づくろいに対する執念はたいしたものだ。

その孔明の両手には、ずたずたに引き裂かれたおのれの衣があった。
いまさらながら、客観的に自分の上衣を見て、文偉はぞっとする。
こうして無事に横になっていられるのがふしぎでならない。
孔明の姿を視界におさめつつ、文偉は、おのれの睡魔と懸命に戦った。
眠ってはならない。
軍師将軍に、礼を欠く真似をしてはならない。
孔明は、文偉の傍らにやってくると、小首をかしげるようにして、横たわる文偉の頬に触れた。
覗き込んでくる顔は、月光のように冴え冴えとしている。
ふしぎな人だ、と文偉はおもう。
容貌はあくまで柔和で優しげなのに、女々しさはなく、宦官のような不自然さもない。
かといって、男性的な特長は外貌にはほとんどあらわれていない。
男でも女でもない、なにか中間の、われわれとは違うところに区別されるべき人のように見える。
それでいて、この人のそばにいると、なぜにこんなに落ち着くのだろう。
父母のそばで無邪気にしていた子供の頃をおもい出す。
あの安心感を、このひとはおもい出させてくれる。

「眠ってよいぞ。くわしい話は、明日聞こう」
自分の頬をなでるつめたい指先の感触が心地よい。
そのうえに、孔明の澄んだ心地よい声が聞こえた。
その声に、文偉はますます安堵し、睡魔がいよいよ強くなる。
ひとたび目を閉じてしまえば、あとは泥のような眠りが待ち受けていた。

つづく……

(サイト「はさみの世界」 初出・2005/04/30)


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