「一体、何をされているのです、船はどうしました!」
怒りで声が震えるが、かまっていられなかった。
こうしているあいだにも、劉備たちが曹操に追いつかれてしまっているかもしれないのだ。
温雅な孔明が、眉を逆立てて怒鳴りつけんばかりの剣幕なのを見てか、孫乾《そんけん》はしろどもどろになりながら答える。
「申し訳ない、面倒が起こってしまってな、わしらでは、にっちもさっちも行かなくなっておったのだ」
「面倒とは? 劉公子には面会はできたのですか?」
「それが、江夏《こうか》に来てから、一度もお会いできておらぬのだ」
と、関羽が赤い顔に憔悴した表情を浮かべて言った。
「御病気が重くなったとか理由をつけられてしまい、われらは側近に阻まれ、門前払いよ。
なんとか粘って、毎日、わし自ら城の門をたたくのだが、相手は一向に姿をあらわさぬ」
血の気が一気に下がった。
それほど劉琦の病が重くなっているのかと思うと、たしかに気の毒ではあった。
だが、見舞いも受け付けない、劉備の苦境を知っていながら動かない、というのは、心優しい劉琦らしくなかった。
「その、側近というのは、伊籍《いせき》どのですか」
尖っていた声色を、いくらかやわらげて孔明はたずねる。
「いや、伊籍どのにもお会いできておらん。
側近というのは、江夏の土豪の鄧幹《とうかん》とかいう男だ」
「鄧幹……そうですか、わかりました」
鄧幹という名は聞いたことがあった。
劉表の家臣の末席に座っていた男だが、忠誠心は低く、したがって名も通っていなかった。
黄祖と孫権の争いのときには、どちらにも与さず、蝙蝠《こうもり》に徹して、おのれの利権を守った男と聞く。
理想や道理のために命を賭けるたぐいの男ではない。
そんな自分勝手な男が、劉琦の側近として江夏城を切り盛りしているのであれば、なるほど、だんだん読めてきた。
鄧幹は曹操が江夏にまでやってくることを見越し、劉琮と同調して降伏したいのではあるまいか。
そのためには、劉備に心を寄せる劉琦は邪魔。
ましてや、船を貸してほしいといって、やってきた関羽たちはもっと邪魔。
かといって、江夏の兵力でまともに関羽たちと対決するのは難しい。
だから無視を決め込んで、関羽たちが諦めるのを待っているのだ。
関羽の側としても、どうしても船が必要なので、江夏から動けない。
船を奪うにしても、兵が足りず、これまた動けない。
孫乾が言った通り、なるほど、にっちもさっちもといった状況であった。
『劉公子は生きているのだろうな』
暗い予感がして、孔明は思わず眉をひそめる。
劉琦が鄧幹に歯向かえないのは、その気弱さで説明がつくが、伊籍たちが黙っているというのは、ふしぎであった。
劉琦がもし、危険な状況にいるのだとしたら……
しかし、どう考えても、推測にすぎない。
関羽と孫乾は自分たちのできるかぎりのことをやったつもりらしい、
だが、孔明からすれば、情報をもっと集めるべきではないかと思う。
策をたてるにしても、判断材料が少なすぎた。
そこで、孔明はさっそく将兵をあつめ、城の様子を調べさせる手はずを整えようとした。
命令をしようとしたところで、取次《とりつぎ》の者が声をかけてきた。
「軍師さま、鄧幹どのから使者が、慰問の芸人どもとともにやってきております」
使者と聞いて、
『ははあ、わたしの様子を探りに来たな』
と見当はついたが、芸人というのはなんなのだ、と首をひねった。
通せ、と伝えると、服を着ているというより服に着られているといったふうの、貧相な小男が入ってきて、これが鄧幹の使者だという。
孔明が呆れていると、またさらに、がやがやと場の空気を読まぬ芸人たちが幕舎のそばまでやってきた。
そのなかに多くの美姫たちが混じっているのを見て、孔明は腹を立てるより、脱力してしまった。
無視しても効かぬのなら、骨抜きにしてしまえばよいと思ったらしい。
もちろん、関羽もそれに気づき、とたんに地面をだんだん、と足で踏み鳴らし、小男を威嚇しはじめた。
「これは、わしらを馬鹿にしておるのかっ!
船を貸してくれと言ったはず、芸人をよこせとは一言も言っておらぬぞ!」
しかし、貧相な小男は、場数を踏んでいるようで、あまり顔色を変えないまま、答えた。
「そうはいっても、みなさまお疲れでございましょう。
酒も食事も持って参りましたし、腹ごしらえしてから、わが主人と面会されてはいかがかと」
「どちらかというと、風呂のほうがいいが」
孔明はまぜっかえしつつ、美姫たちを見回す。
美姫たちは、なにがおかしいのか、袖で口元を隠しつつ、くすくす笑っている。
そのなかの、とびきり目の大きな美姫に目が行き、孔明は急に真面目な顔になった。
「せっかくの申し出ゆえ、饗応《きょうおう》を受けようではないか」
「軍師っ!」
関羽と孫乾が同時に叫ぶが、孔明は頓着せず、おのれの襟を正しながら答えた。
「腹が減っているのは確かだし、みなも待ちぼうけを食らわされて、くさくさしているだろう。
すこし気晴らしが必要だよ。士気を高めるためにもな」
「し、しかし」
うろたえる関羽たちをしり目に、貧相な小男は、ずるそうな笑みを口元に浮かべて、応じた。
「さすが軍師さま、わかっていらっしゃる。
酒はたんまりとあります、みなさま、どうぞお楽しみを」
それを合図に、男の連れてきた荷車から、いっせいに酒甕《さけがめ》と食料が運び出された。
将兵たちは運搬の手伝いをさせられ、芸人たちの芸を見る支度をする羽目になっている。
孔明は、例の目の大きな美少女を見つめていたが、美少女は見られていることを知っているだろうに、素知らぬ顔をして、鼻歌交じりにこれから踊る舞いの振りの練習をしていた。
つづく
怒りで声が震えるが、かまっていられなかった。
こうしているあいだにも、劉備たちが曹操に追いつかれてしまっているかもしれないのだ。
温雅な孔明が、眉を逆立てて怒鳴りつけんばかりの剣幕なのを見てか、孫乾《そんけん》はしろどもどろになりながら答える。
「申し訳ない、面倒が起こってしまってな、わしらでは、にっちもさっちも行かなくなっておったのだ」
「面倒とは? 劉公子には面会はできたのですか?」
「それが、江夏《こうか》に来てから、一度もお会いできておらぬのだ」
と、関羽が赤い顔に憔悴した表情を浮かべて言った。
「御病気が重くなったとか理由をつけられてしまい、われらは側近に阻まれ、門前払いよ。
なんとか粘って、毎日、わし自ら城の門をたたくのだが、相手は一向に姿をあらわさぬ」
血の気が一気に下がった。
それほど劉琦の病が重くなっているのかと思うと、たしかに気の毒ではあった。
だが、見舞いも受け付けない、劉備の苦境を知っていながら動かない、というのは、心優しい劉琦らしくなかった。
「その、側近というのは、伊籍《いせき》どのですか」
尖っていた声色を、いくらかやわらげて孔明はたずねる。
「いや、伊籍どのにもお会いできておらん。
側近というのは、江夏の土豪の鄧幹《とうかん》とかいう男だ」
「鄧幹……そうですか、わかりました」
鄧幹という名は聞いたことがあった。
劉表の家臣の末席に座っていた男だが、忠誠心は低く、したがって名も通っていなかった。
黄祖と孫権の争いのときには、どちらにも与さず、蝙蝠《こうもり》に徹して、おのれの利権を守った男と聞く。
理想や道理のために命を賭けるたぐいの男ではない。
そんな自分勝手な男が、劉琦の側近として江夏城を切り盛りしているのであれば、なるほど、だんだん読めてきた。
鄧幹は曹操が江夏にまでやってくることを見越し、劉琮と同調して降伏したいのではあるまいか。
そのためには、劉備に心を寄せる劉琦は邪魔。
ましてや、船を貸してほしいといって、やってきた関羽たちはもっと邪魔。
かといって、江夏の兵力でまともに関羽たちと対決するのは難しい。
だから無視を決め込んで、関羽たちが諦めるのを待っているのだ。
関羽の側としても、どうしても船が必要なので、江夏から動けない。
船を奪うにしても、兵が足りず、これまた動けない。
孫乾が言った通り、なるほど、にっちもさっちもといった状況であった。
『劉公子は生きているのだろうな』
暗い予感がして、孔明は思わず眉をひそめる。
劉琦が鄧幹に歯向かえないのは、その気弱さで説明がつくが、伊籍たちが黙っているというのは、ふしぎであった。
劉琦がもし、危険な状況にいるのだとしたら……
しかし、どう考えても、推測にすぎない。
関羽と孫乾は自分たちのできるかぎりのことをやったつもりらしい、
だが、孔明からすれば、情報をもっと集めるべきではないかと思う。
策をたてるにしても、判断材料が少なすぎた。
そこで、孔明はさっそく将兵をあつめ、城の様子を調べさせる手はずを整えようとした。
命令をしようとしたところで、取次《とりつぎ》の者が声をかけてきた。
「軍師さま、鄧幹どのから使者が、慰問の芸人どもとともにやってきております」
使者と聞いて、
『ははあ、わたしの様子を探りに来たな』
と見当はついたが、芸人というのはなんなのだ、と首をひねった。
通せ、と伝えると、服を着ているというより服に着られているといったふうの、貧相な小男が入ってきて、これが鄧幹の使者だという。
孔明が呆れていると、またさらに、がやがやと場の空気を読まぬ芸人たちが幕舎のそばまでやってきた。
そのなかに多くの美姫たちが混じっているのを見て、孔明は腹を立てるより、脱力してしまった。
無視しても効かぬのなら、骨抜きにしてしまえばよいと思ったらしい。
もちろん、関羽もそれに気づき、とたんに地面をだんだん、と足で踏み鳴らし、小男を威嚇しはじめた。
「これは、わしらを馬鹿にしておるのかっ!
船を貸してくれと言ったはず、芸人をよこせとは一言も言っておらぬぞ!」
しかし、貧相な小男は、場数を踏んでいるようで、あまり顔色を変えないまま、答えた。
「そうはいっても、みなさまお疲れでございましょう。
酒も食事も持って参りましたし、腹ごしらえしてから、わが主人と面会されてはいかがかと」
「どちらかというと、風呂のほうがいいが」
孔明はまぜっかえしつつ、美姫たちを見回す。
美姫たちは、なにがおかしいのか、袖で口元を隠しつつ、くすくす笑っている。
そのなかの、とびきり目の大きな美姫に目が行き、孔明は急に真面目な顔になった。
「せっかくの申し出ゆえ、饗応《きょうおう》を受けようではないか」
「軍師っ!」
関羽と孫乾が同時に叫ぶが、孔明は頓着せず、おのれの襟を正しながら答えた。
「腹が減っているのは確かだし、みなも待ちぼうけを食らわされて、くさくさしているだろう。
すこし気晴らしが必要だよ。士気を高めるためにもな」
「し、しかし」
うろたえる関羽たちをしり目に、貧相な小男は、ずるそうな笑みを口元に浮かべて、応じた。
「さすが軍師さま、わかっていらっしゃる。
酒はたんまりとあります、みなさま、どうぞお楽しみを」
それを合図に、男の連れてきた荷車から、いっせいに酒甕《さけがめ》と食料が運び出された。
将兵たちは運搬の手伝いをさせられ、芸人たちの芸を見る支度をする羽目になっている。
孔明は、例の目の大きな美少女を見つめていたが、美少女は見られていることを知っているだろうに、素知らぬ顔をして、鼻歌交じりにこれから踊る舞いの振りの練習をしていた。
つづく
※ いつも閲覧してくださっているみなさま、ありがとうございます(^^♪
次回は、話がもどって、趙雲たちのエピソードになります。
さてはて、みなの運命や如何に!
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ではでは、次回をおたのしみにー(*^▽^*)