馬良がみつけたとき、孔明は川岸に立ち、じっ、と睨みつけるように、彼方の夕陽をみつめていた。
このひとは、赤壁に行ってから、様子がずいぶん変わった、と思う。
以前にはあった、気安さがなくなった。
たわいのない話をしているあいだでも、たまに表情が完全に失せる。
そうなったときの孔明には、もう言葉はかけられない。
こわい、とさえ思う。
いまもそうであった。
まるで彼方に親の仇でもいるような目をして、夕陽をきびしく見つめている。
孔明の背中は、何者をも拒絶していた。
近寄りがたく、声をかけることも憚られる。
声をかけるべきか、引き返すべきか、馬良が逡巡していると、孔明のほうが馬良に気づいたようだ。
怪訝そうに振り返り、それから、愁眉をほどく。
「どうしたのだね、仕事で、困ったことでもあるのかい?」
と、孔明はにっこりと笑った。
夕陽を受けて、橙色にさざめく水面は、それはそれはにぎやかで、神秘的で美しい。
薄(すすき)が風に揺れて、孔明の衣もたなびかせる。
この憂愁帯びた世界にあってもなお、孔明の存在感は圧倒的であった。
孔明の笑顔には、人を安堵させる力がある。
馬良は緊張を解いて、答えた。
「うちの実家がね、干し柿を持ってきたのだよ。たくさんあるから、君にも分けようかと思って」
「そうかい、柿はいいな。ありがとう」
孔明の顔を見ているうちに、さきほど感じていた恐ろしさはなくなった。
こわい、とさえ感じたことも、馬鹿馬鹿しくなってしまう。
「なぜ、こんなところに一人でいるのだい。危ないじゃないか」
とたん、馬良は、心臓を鷲掴みにされたようになった。
孔明の表情から、抜け落ちるようにして表情らしいものが失せたからである。
顔色が変わった、などという生易しいものではない。
表情らしい表情の一切が、消えてしまったのだ。
「亮くん?」
おずおずと声をかけると、孔明は、我に返ったようだ。
「ああ、すまないね。たしかに危ないのは自覚があるのだが、どうしても一人になりたいときがあるのだよ」
「弟の均くんが、また体を壊した、とか」
すると、孔明は愉快そうに声を立てて笑った。
「ちがう、均は近頃、ずいぶん調子がよくってね。あれに子供が出来たから、気が張っているのだろう。君のところの弟はどうだい」
「謖は、相変わらずだよ。やれ、頭が痛い、腹が痛い、熱がある、耳鳴りがすると、始終、どこか悪いと訴えては、母上をあわてさせている」
「君も一緒になってあわてているのだろう? 病気なると、いつもはきびしい君が優しくなるので、幼常は甘えているのだ」
「そうだろうか。いつまでも子供のままでは困るからね、謖にかまけてわたしがなかなか妻を構ってやらないので、兄たちも気を揉んでいるらしい。妻の実家も良い顔をしないしね」
「ならば、今日は、早く帰って奥さんを安心させてやりたまえ」
「ところがあいにくと、今日は、妻は実家に帰っているのさ。もしよければ、今日は君と飲み明かそうと思ったのだよ」
孔明は、ほがらかな笑みを見せつつ、答える。
「それはよいな。ところで、なぜわたしに声をかけるのをためらっていたのだね。
ずいぶん迷っていたようだが、わたしはそれほどに近づきがたく見えたかな」
「気づいていたのか」
うろたえる馬良に、孔明はからかうような顔をして言った。
「もしかして、いつかのことをまだ気にしているのではないかい」
いつかのこと、といえば、ひとつしかない。
馬良は、孔明が軍師になったばかりの頃、誘われて、ともに劉備に仕えることを決めた。
しかし弟の馬謖や、親戚一同に猛反対され、親友か、それとも家族かでぐずぐずしているうちに曹操が南下してしまい、結局、約束を破ったかたちになってしまっていた。
図星をさされて、馬良があうあうと言葉を継げないでいると、孔明は声をたてて笑った。
「気にしているのか。前も言っただろう。もうわたしは気にしていないよ。いま、生きてこうして君と話が出来ているのだからね」
「すまない、ずいぶん酷い目に遭ったと聞いたよ。ぼくはなんの力にもなってやれなかった」
「酷い目ね。命があるだけでも儲けものじゃないかね。一時は、明日は死ぬかもしれないと思いながら日々を過ごしていたよ。いまは平和だ」
そういって、孔明は伸びをしながら歩き出す。
その後ろにつづきつつ、馬良は、おのれのふがいなさを恥じていた。
※
襄陽時代では、さりげなく気遣って、孔明の息抜きをさせてやる役目は、馬良が果たしていた。
孔明も、馬良にはけして隠し事をしなかった。そうして築いてきた関係である。
だが、もう孔明は馬良には本音を打ち明けない。
離れていたわずかな間に、孔明の中に、馬良のまったく知らない別な顔が出来上がってしまった。
馬良も馬良で、孔明に「気にしていない」と言われても、やはり気にしてしまう。
「なにか悩みでもあるのではないかい」
の、ひと言が、出てこないのだ。
やはり仕官を引き伸ばしにしていたことで、信頼を失ってしまったのか…
しょんぼりしながらも、あえてそれを隠しつつ、馬良は、孔明とともに自邸へと向かった。
孔明と馬良は、仕事から離れた四方山話に花を咲かせ、夜更けまで盛り上がった。
語りあうことといえば、襄陽での呑気な書生生活の思い出である。
あの頃はよかったね、という思い出話になるのであるが、数々ある思い出の、そのどれもがすべて過去のものとなり、ひとつとして元に戻すことの出来ない類いであることに、馬良は寂しさをおぼえた。
対する孔明のほうは、襄陽時代の思い出には、馬良ほどの感慨を持っていない様子で、それがまた、馬良の寂しさをつのらせた。
それにしても、と、灯火の向こう側にいる孔明を見て、馬良はつくづく思う。
孔明が劉備の軍師になってから、二年ほどしか経っていないというのに、孔明にはすでに三郡の監督としての威厳が備わりつつある。
大兵(おおつわもの)を前にしてもなお、さらにかれらを威圧させ、心服させることのできる器量、というのは滅多にない。
馬良は、孔明が軍に号令をかけるときの重々しい姿が好きであった。
そして、いまや天下の軍師となった孔明の機知であることが自慢である。
司馬徳操の私塾の仲間たちが見たら、どんなふうに言うだろう。
孔明はどちらかといえば、みなから煙たがられる存在であった。
見た目が華奢で、体力もほとんどないくせに、口は達者で妙に前向き、しかもえらそう、というので、特に豪族の子弟や、本の虫の先輩からは嫌われた。
喧嘩を売られれば律儀に買うので生傷も絶えず、良家の子息らしからぬ負けん気のつよさも、可愛げがない、とウケが悪かった。
しかし、嫌われる一方で、ひとたび好かれると、とことんまで愛されることになるのがこの人物の特性である。
ほかならぬ司馬徳操……水鏡先生も、小生意気な孔明にはあきらかに態度をかえて、きびしく接していたし(司馬徳操の愛情表現は、生徒にとことんきびしくすることなのである)、孔明の姉の夫…つまりは義兄にあたる龐山民も、「うちの義弟は…」、とずいぶん自慢をしていた。
徐庶などは目に見えてあきらかなほどに孔明を可愛がっていたし(孔明と徐庶が親しくなったとわかって以来、孔明に喧嘩を売る人間は、ぱたりといなくなったのだが)、劉琦も、孔明が、自分の命を狙う蔡一族とつらなる黄家の人間を娶っても、常に高く人物を評価していた。
馬良が、劉備に仕官して気付いたのであるが、ここでも孔明の魅力というのは爆発的な威力を見せており、劉備以下、主だった将は、孔明に心酔しきっている。
この陣中においては、このひとに悩みなどあるまい、と思うと馬良は妬ましさすらおぼえてくる。
干し柿を肴に酒をあおる孔明は、健康そのもの、顔の色つやもよい。
この若さでいまや天下にその名を知らぬもののないほどの英雄のひとりにまでなった。
いつか趙雲に言い捨てられたように、そもそもの器がちがうのだろうか…
酒をちびちびやりながら、そんなことを考えつつ、夜が更けた。
※
馬良がふと目を覚ますと、いつの間にか酔いつぶれていたらしい。
体に上衣がかけられており、長椅子に横たえられていた。
だが、一緒にいたはずの孔明がいない。
家令が気をきかせて、孔明を客室へ案内したのかな、と思っていたが、ふと、冷たい風に頬をなぶられた。
起き上がると、戸口が開いており、欄干に細長い、鶴のような影が立っているのが見えた。
孔明だ。
おどろいて声をかけようとし、川岸でもそうであったように馬良は言葉を失った。
孔明は、今度は月を睨みつけていた。
しかし、その様子はどこかおかしい。
青白い、透けるような肌をもつ孔明は、月を見つめたまま、掌を大きく広げ、まるで月から自分を隠すような仕草をして見せた。
つづいて、自分の髪に触れる。
孔明は、物思いに沈んでいるときに、無意識に髪をいじる。
やはりなにか悩みがあるのだろうか、と馬良が声をかけあぐねていると、髪をいじっていた孔明の手が、妙な具合に下ろされた。
思わず、馬良は声をあげた。
孔明の毛髪が、まるで田畑から作物をひっこぬくように、たやすく抜けてしまったからだ。
孔明は、自分の抜けた髪を、しげしげと、無感動にながめている。馬良は慄然とした。
いつものことなのか?
「亮くん、大事ないか?」
痛みはないか、という問いかけのつもりであったが、孔明は、ああ、と実に単調な調子で答える。
「また抜けた」
「また、だって? 亮くん、具合でも悪くしているのか」
「わたしは普通だよ」
「そんなふうに髪が抜けるなんて、尋常じゃない。まさか、毒でも盛られているのではなかろうね」
「毒…ではないよ」
と、孔明は、抜け落ちた自分の髪をじっと見詰めたまま言う。
その目はどこかうつろだ。
「もう老いが迫っているのかな」
「そんな若い癖して莫迦を言うな。毒でもないのなら、亮くん、きみは心を病んでいるのだ。疲れているのだよ。最近、ちゃんと休んでいるかい?」
「休むと、落ち着かないのだ。仕事をしているほうがいい」
「なにか、悩みでもあるのだろう?」
すると、孔明は、ようやく馬良のほうを見た。
「そう見えるのか?」
「いや…気鬱の病のせいで、頭の毛が抜けてしまった人を知っているのだ。もし君がそうだとしたら…」
「どうだろう、じつは、気鬱どころではなく、もう狂っているのではないだろうか」
馬良はぞくりと身を震わせた。
あきれるほどの自信家の孔明が、これほど弱弱しい言葉を吐いたのが信じられない。
この軍師の内面で、いったいなにが起こっているのか。
「きみはマトモだ。どこをどう見ても、以前と変わらない!」
と、孔明はじいっと馬良を見た。
なにもかも見抜かんとする、強い眼差しである。
馬良はうろたえた。
この友に、下手な嘘はまったく通じないことを忘れていた。
「あ、いや、変わった、とは思ったが、それは君が、軍師らしくなって、威厳があふれているというか、そういう、よい意味での変わった、だ。
陰口を叩かれる類いの変わった、ではない」
「それも嘘だな。きみ、わたしを怖がっているだろう?」
「……そりゃあ、その、きみがわたしの上役でもあるからだよ」
馬良がしどろもどろになりつつ答えると、孔明は、ふうっ、と大きなため息をつくと、手を額に当てた。
「悪かった。わかっているのだよ。こんなふうに答が出ないことを知っていながら、互いに追いつめあったところで、よいことなど一つもないのだ。
すまない、忘れてくれ。主公が申されたとおり、わたしは疲れているにちがいない」
「主公にまでそう言われているのなら、やはりゆっくり休むべきだよ。まわりにはわたしから言っておく。
だから、いまから休みたまえ。家令にきみの部屋を用意させている。時間など気にせず、ゆっくり寝ていてくれていい」
孔明は、ありがとう、と弱弱しい笑みを向けてくる。
馬良は、さらにうろたえた。
そうして、孔明がついに悩みを打ち明けてくれなかったことに、またもがっかりした。
つづく……
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/03)
このひとは、赤壁に行ってから、様子がずいぶん変わった、と思う。
以前にはあった、気安さがなくなった。
たわいのない話をしているあいだでも、たまに表情が完全に失せる。
そうなったときの孔明には、もう言葉はかけられない。
こわい、とさえ思う。
いまもそうであった。
まるで彼方に親の仇でもいるような目をして、夕陽をきびしく見つめている。
孔明の背中は、何者をも拒絶していた。
近寄りがたく、声をかけることも憚られる。
声をかけるべきか、引き返すべきか、馬良が逡巡していると、孔明のほうが馬良に気づいたようだ。
怪訝そうに振り返り、それから、愁眉をほどく。
「どうしたのだね、仕事で、困ったことでもあるのかい?」
と、孔明はにっこりと笑った。
夕陽を受けて、橙色にさざめく水面は、それはそれはにぎやかで、神秘的で美しい。
薄(すすき)が風に揺れて、孔明の衣もたなびかせる。
この憂愁帯びた世界にあってもなお、孔明の存在感は圧倒的であった。
孔明の笑顔には、人を安堵させる力がある。
馬良は緊張を解いて、答えた。
「うちの実家がね、干し柿を持ってきたのだよ。たくさんあるから、君にも分けようかと思って」
「そうかい、柿はいいな。ありがとう」
孔明の顔を見ているうちに、さきほど感じていた恐ろしさはなくなった。
こわい、とさえ感じたことも、馬鹿馬鹿しくなってしまう。
「なぜ、こんなところに一人でいるのだい。危ないじゃないか」
とたん、馬良は、心臓を鷲掴みにされたようになった。
孔明の表情から、抜け落ちるようにして表情らしいものが失せたからである。
顔色が変わった、などという生易しいものではない。
表情らしい表情の一切が、消えてしまったのだ。
「亮くん?」
おずおずと声をかけると、孔明は、我に返ったようだ。
「ああ、すまないね。たしかに危ないのは自覚があるのだが、どうしても一人になりたいときがあるのだよ」
「弟の均くんが、また体を壊した、とか」
すると、孔明は愉快そうに声を立てて笑った。
「ちがう、均は近頃、ずいぶん調子がよくってね。あれに子供が出来たから、気が張っているのだろう。君のところの弟はどうだい」
「謖は、相変わらずだよ。やれ、頭が痛い、腹が痛い、熱がある、耳鳴りがすると、始終、どこか悪いと訴えては、母上をあわてさせている」
「君も一緒になってあわてているのだろう? 病気なると、いつもはきびしい君が優しくなるので、幼常は甘えているのだ」
「そうだろうか。いつまでも子供のままでは困るからね、謖にかまけてわたしがなかなか妻を構ってやらないので、兄たちも気を揉んでいるらしい。妻の実家も良い顔をしないしね」
「ならば、今日は、早く帰って奥さんを安心させてやりたまえ」
「ところがあいにくと、今日は、妻は実家に帰っているのさ。もしよければ、今日は君と飲み明かそうと思ったのだよ」
孔明は、ほがらかな笑みを見せつつ、答える。
「それはよいな。ところで、なぜわたしに声をかけるのをためらっていたのだね。
ずいぶん迷っていたようだが、わたしはそれほどに近づきがたく見えたかな」
「気づいていたのか」
うろたえる馬良に、孔明はからかうような顔をして言った。
「もしかして、いつかのことをまだ気にしているのではないかい」
いつかのこと、といえば、ひとつしかない。
馬良は、孔明が軍師になったばかりの頃、誘われて、ともに劉備に仕えることを決めた。
しかし弟の馬謖や、親戚一同に猛反対され、親友か、それとも家族かでぐずぐずしているうちに曹操が南下してしまい、結局、約束を破ったかたちになってしまっていた。
図星をさされて、馬良があうあうと言葉を継げないでいると、孔明は声をたてて笑った。
「気にしているのか。前も言っただろう。もうわたしは気にしていないよ。いま、生きてこうして君と話が出来ているのだからね」
「すまない、ずいぶん酷い目に遭ったと聞いたよ。ぼくはなんの力にもなってやれなかった」
「酷い目ね。命があるだけでも儲けものじゃないかね。一時は、明日は死ぬかもしれないと思いながら日々を過ごしていたよ。いまは平和だ」
そういって、孔明は伸びをしながら歩き出す。
その後ろにつづきつつ、馬良は、おのれのふがいなさを恥じていた。
※
襄陽時代では、さりげなく気遣って、孔明の息抜きをさせてやる役目は、馬良が果たしていた。
孔明も、馬良にはけして隠し事をしなかった。そうして築いてきた関係である。
だが、もう孔明は馬良には本音を打ち明けない。
離れていたわずかな間に、孔明の中に、馬良のまったく知らない別な顔が出来上がってしまった。
馬良も馬良で、孔明に「気にしていない」と言われても、やはり気にしてしまう。
「なにか悩みでもあるのではないかい」
の、ひと言が、出てこないのだ。
やはり仕官を引き伸ばしにしていたことで、信頼を失ってしまったのか…
しょんぼりしながらも、あえてそれを隠しつつ、馬良は、孔明とともに自邸へと向かった。
孔明と馬良は、仕事から離れた四方山話に花を咲かせ、夜更けまで盛り上がった。
語りあうことといえば、襄陽での呑気な書生生活の思い出である。
あの頃はよかったね、という思い出話になるのであるが、数々ある思い出の、そのどれもがすべて過去のものとなり、ひとつとして元に戻すことの出来ない類いであることに、馬良は寂しさをおぼえた。
対する孔明のほうは、襄陽時代の思い出には、馬良ほどの感慨を持っていない様子で、それがまた、馬良の寂しさをつのらせた。
それにしても、と、灯火の向こう側にいる孔明を見て、馬良はつくづく思う。
孔明が劉備の軍師になってから、二年ほどしか経っていないというのに、孔明にはすでに三郡の監督としての威厳が備わりつつある。
大兵(おおつわもの)を前にしてもなお、さらにかれらを威圧させ、心服させることのできる器量、というのは滅多にない。
馬良は、孔明が軍に号令をかけるときの重々しい姿が好きであった。
そして、いまや天下の軍師となった孔明の機知であることが自慢である。
司馬徳操の私塾の仲間たちが見たら、どんなふうに言うだろう。
孔明はどちらかといえば、みなから煙たがられる存在であった。
見た目が華奢で、体力もほとんどないくせに、口は達者で妙に前向き、しかもえらそう、というので、特に豪族の子弟や、本の虫の先輩からは嫌われた。
喧嘩を売られれば律儀に買うので生傷も絶えず、良家の子息らしからぬ負けん気のつよさも、可愛げがない、とウケが悪かった。
しかし、嫌われる一方で、ひとたび好かれると、とことんまで愛されることになるのがこの人物の特性である。
ほかならぬ司馬徳操……水鏡先生も、小生意気な孔明にはあきらかに態度をかえて、きびしく接していたし(司馬徳操の愛情表現は、生徒にとことんきびしくすることなのである)、孔明の姉の夫…つまりは義兄にあたる龐山民も、「うちの義弟は…」、とずいぶん自慢をしていた。
徐庶などは目に見えてあきらかなほどに孔明を可愛がっていたし(孔明と徐庶が親しくなったとわかって以来、孔明に喧嘩を売る人間は、ぱたりといなくなったのだが)、劉琦も、孔明が、自分の命を狙う蔡一族とつらなる黄家の人間を娶っても、常に高く人物を評価していた。
馬良が、劉備に仕官して気付いたのであるが、ここでも孔明の魅力というのは爆発的な威力を見せており、劉備以下、主だった将は、孔明に心酔しきっている。
この陣中においては、このひとに悩みなどあるまい、と思うと馬良は妬ましさすらおぼえてくる。
干し柿を肴に酒をあおる孔明は、健康そのもの、顔の色つやもよい。
この若さでいまや天下にその名を知らぬもののないほどの英雄のひとりにまでなった。
いつか趙雲に言い捨てられたように、そもそもの器がちがうのだろうか…
酒をちびちびやりながら、そんなことを考えつつ、夜が更けた。
※
馬良がふと目を覚ますと、いつの間にか酔いつぶれていたらしい。
体に上衣がかけられており、長椅子に横たえられていた。
だが、一緒にいたはずの孔明がいない。
家令が気をきかせて、孔明を客室へ案内したのかな、と思っていたが、ふと、冷たい風に頬をなぶられた。
起き上がると、戸口が開いており、欄干に細長い、鶴のような影が立っているのが見えた。
孔明だ。
おどろいて声をかけようとし、川岸でもそうであったように馬良は言葉を失った。
孔明は、今度は月を睨みつけていた。
しかし、その様子はどこかおかしい。
青白い、透けるような肌をもつ孔明は、月を見つめたまま、掌を大きく広げ、まるで月から自分を隠すような仕草をして見せた。
つづいて、自分の髪に触れる。
孔明は、物思いに沈んでいるときに、無意識に髪をいじる。
やはりなにか悩みがあるのだろうか、と馬良が声をかけあぐねていると、髪をいじっていた孔明の手が、妙な具合に下ろされた。
思わず、馬良は声をあげた。
孔明の毛髪が、まるで田畑から作物をひっこぬくように、たやすく抜けてしまったからだ。
孔明は、自分の抜けた髪を、しげしげと、無感動にながめている。馬良は慄然とした。
いつものことなのか?
「亮くん、大事ないか?」
痛みはないか、という問いかけのつもりであったが、孔明は、ああ、と実に単調な調子で答える。
「また抜けた」
「また、だって? 亮くん、具合でも悪くしているのか」
「わたしは普通だよ」
「そんなふうに髪が抜けるなんて、尋常じゃない。まさか、毒でも盛られているのではなかろうね」
「毒…ではないよ」
と、孔明は、抜け落ちた自分の髪をじっと見詰めたまま言う。
その目はどこかうつろだ。
「もう老いが迫っているのかな」
「そんな若い癖して莫迦を言うな。毒でもないのなら、亮くん、きみは心を病んでいるのだ。疲れているのだよ。最近、ちゃんと休んでいるかい?」
「休むと、落ち着かないのだ。仕事をしているほうがいい」
「なにか、悩みでもあるのだろう?」
すると、孔明は、ようやく馬良のほうを見た。
「そう見えるのか?」
「いや…気鬱の病のせいで、頭の毛が抜けてしまった人を知っているのだ。もし君がそうだとしたら…」
「どうだろう、じつは、気鬱どころではなく、もう狂っているのではないだろうか」
馬良はぞくりと身を震わせた。
あきれるほどの自信家の孔明が、これほど弱弱しい言葉を吐いたのが信じられない。
この軍師の内面で、いったいなにが起こっているのか。
「きみはマトモだ。どこをどう見ても、以前と変わらない!」
と、孔明はじいっと馬良を見た。
なにもかも見抜かんとする、強い眼差しである。
馬良はうろたえた。
この友に、下手な嘘はまったく通じないことを忘れていた。
「あ、いや、変わった、とは思ったが、それは君が、軍師らしくなって、威厳があふれているというか、そういう、よい意味での変わった、だ。
陰口を叩かれる類いの変わった、ではない」
「それも嘘だな。きみ、わたしを怖がっているだろう?」
「……そりゃあ、その、きみがわたしの上役でもあるからだよ」
馬良がしどろもどろになりつつ答えると、孔明は、ふうっ、と大きなため息をつくと、手を額に当てた。
「悪かった。わかっているのだよ。こんなふうに答が出ないことを知っていながら、互いに追いつめあったところで、よいことなど一つもないのだ。
すまない、忘れてくれ。主公が申されたとおり、わたしは疲れているにちがいない」
「主公にまでそう言われているのなら、やはりゆっくり休むべきだよ。まわりにはわたしから言っておく。
だから、いまから休みたまえ。家令にきみの部屋を用意させている。時間など気にせず、ゆっくり寝ていてくれていい」
孔明は、ありがとう、と弱弱しい笑みを向けてくる。
馬良は、さらにうろたえた。
そうして、孔明がついに悩みを打ち明けてくれなかったことに、またもがっかりした。
つづく……
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/03)