※
「おや」
悶々としていた馬良は、思わず声をあげた。
小川の上流から、箸が流れてきたのである。
なんだかどこかの昔話のようだな、と思いつつ、馬良は、おそらく上流に、人がいるのであろうと思い、誘われるようにして歩いていった。
ほどなく、馬のいななきが聞こえてきた。
草むらから覗くと、なんとも派手な一団が小休止をしているのが見えた。
まず、繋いである馬の、馬具からして煌びやかである。
その周囲にいる人間の衣裳も、ありとあらゆる染料を混ぜ込んで、そのまま乾かしたような、なんとも悪趣味な色合い。
金具という金具は、しつこいほどにすべてに金が塗られており、それが陽光にびかびかと光っている。
二十人ほどの男女の一団で、みな若い。
しかし、護衛の男たちや士大夫ふうの若者、侍女風の娘たちにいたるまで、みな奇抜な髪型、髯、服装をしている。
もしかしたら、これはどこかの流行なのかもかれも知れぬと思いつつ、馬良がどこの旅芸人かしら、と思っていると、ひとつだけ品のよい婦人用の馬車の帳がぱっと開き、中から、美しいが、きつい目をした娘が出てきた。
「その村というのは、じきに着くかえ?」
娘が姿をあらわすと、周囲の者たちは、一斉にそちらを向いた。
一団の長なのか。
娘が馬車を降りようとすると、士大夫ふうの男が、となりにいる少年の頭をこづいて、手伝え、という身振りをする。
少年が、それに気づいて娘のそばに来たときには、もう娘は地面に足をつけていた。
「もう降りた。荊南の男は、みなとろくて、きらいじゃ」
「もうしわけございませぬ。これ、貞姫さまに謝罪いたせ」
小太りの士大夫がさきほどの少年をさらにこづいて、頭を下げさせる。
しかし、貞姫は、つんと顎をそらして、それを無視した。
馬良は膝から力が抜けるのがわかった。
貞姫。
ほかならぬ、孫権の妹にして、劉備の妻。
それが、なんでこんなところに?
馬良は、貞姫と直接、言葉を交わしたことがない。
まだ十代の年若い、少女と言ってもおかしくない娘であるが、扱いづらい気性の娘で、夫である劉備すら気をつかって、その元に通うのを遠慮しているほどだ、という噂も聞こえていた。
劉備の遠慮をいいことに、思うままに振る舞い、そのわがままを止めることのできる者がいないのだ。趙雲がその任に当たっているが、苦労している様子なのは、道すがら聞いた話でわかっている。
まさか、江東へ帰ろうとしているのでは、と馬良は咄嗟に思ったが、その割には武人の姿が少なすぎる。
ものものしい緊迫感もなければ、隠密というふうでもない。
むしろ逆だ。目立ちすぎる。
馬良の疑問をよそに、貞姫は伸びをして、周囲を見回した。
「まったくなにもないところだけれど、かえって気が休まるの。ここには、あれはならぬ、これはならぬと五月蠅く言ってくる石頭もおらぬし」
そういって、貞姫は声をたてて笑った。
石頭というのはおそらく趙雲のことだろう。
なにを思い出しているのか、口では辛辣にこき下ろしながらも、表情はどこか楽しげである。
侍女のひとりが、姫、とたしなめるのを、貞姫は顔をきつくしてかえって叱る。
「よいではないか、わらわには、グチをこぼす自由もないのか。この者たちは信頼できる」
「ありがたきお言葉」
ぺこりと士大夫は頭を下げる。
貞姫は満足そうに、しかしどこか冷たさを感じられる笑みを浮かべた。
孔雀のように華やかではあるが、驕慢ゆえの残酷さを秘めた姫である。
劉備の人柄を思い、これは合わぬだろうなと、男として馬良は劉備に同情した。
女は、若くてきれいであればよい、というものではない。
「そなたの妻となる娘も、今日の日を指折り数えていたであろうな。しかしわらわに献上する布ができていたなら、その話もフイとなる。おもしろい趣向じゃな」
小太りの士大夫が、このあたり一帯の地主、というわけだ。
一団の悪趣味な派手さも、地方のなりあがり者にありがちな、勘違いの贅沢、ということか。
貞姫のことばに、それはまあ、と地主はあいまいな笑みを浮かべる。
どうも貞姫にいいふうに言って、うまく誤魔化しているようであった。
士大夫のとなりで、自分のことが話題になっているにもかかわらず、ぼんやりした少年は、機織名人の娘より年下のようだ。
しっかりした娘であったから、たしかに少年のよい連れ添いにはなりそうであるが、しかし好いてもない相手のために苦労はしたくないであろう。
「愚息の妻になることを渋っております娘も、貞姫さまがひとことおっしゃってくだされば、心を変えることでしょう」
「当然じゃ。わらわの言葉に逆らえるものなど、この地にはおらぬ」
士大夫の言葉に、貞姫は声を立てて笑った。
※
馬良はあわててその場から離れ、村へと戻っていった。
孔明と趙雲にこのことを知らせなければならない。
走りながら、馬良は考えた。
知らせて、それで、逃げるのだ。
いや、そんなこと、あの二人の気性からしてできるはずがない。
だが、ここで顔を合わせたらどうなることか。
下手に貞姫と対立したら、江東の孫権が黙ってはいない。最悪の場合、外交問題だ。
みなのためにと、僻村の娘とはいえ、その人生をみすみす犠牲にさせることなど、ほかの軍師ならばともかく、孔明にはできない。
どうしたらよいのか。
あの一団は、小休止がおわれば、すぐにここにやってくる。
馬良が村に帰ると、孔明は眠っていたが、趙雲は起きていた。
「お休みにならなかったのですか?」
「すこし眠ったから問題はない。それより従事、さきほど、畑に出ていた農夫が知らせてくれたのであるが」
「私も見ました。地主と、孫夫人が連れ立ってこちらに向かっております」
「まったく、俺が留守のあいだに、こっそりお忍びというわけか」
趙雲は苦りきった顔で言う。
相手が地主だけならばともかく、貞姫自ら参上となると、さすがに趙雲も解決策がないらしい。
「われらは退散したほうが、かえって面倒にならないのでは?」
「そうしたら、村の者はだれが守る。あの姫のことだ。たとえ布を気に入ったとしても、地主に肩入れをしているのであれば、娘や村人を脅して、言いなりにさせるに決まっている」
「軍師はどちらに?」
「いま眠っている。仕方ない。起こしてともに策を練ろう」
しかし、対策を練っている暇はなかった。村人が飛び込んできて、地主たちがやってきたと告げた。
仕方なく馬良は趙雲とともに隠れ、村人は孔明の織った布を献上することになった。
「策があると言っていなかったか」
茂みのよこで、ぼそりと趙雲がたずねる。
意地悪で言っているのではないが、馬良はしどろもどろになりつつ答えた。
「あったようですが、その」
「事態が変わったからな。しかし布を気に入って、大人しく帰る、という展開は期待できんかな」
趙雲は茂みから、やってきた地主と貞姫一行をじっと見つめている。
今日が期日であると、さきほど川辺で見た小太りの地主がいい、村人が、かしこまりながら、孔明の織った布を差し出した。
地主たちの異様なまでの煌びやかさと、村人の、質素ながらも感じのよいたたずまいが対照的である。
地主はおっかなびっくりと一団を見ている村人に、本日はお忍びで、さる高貴なお方がいらっしゃっている。その方にいまから布をお見せするので、待っているがよい、と宣言した。
馬良からすれば、あれほどにぎやかな趣味を持っている一団ならば、もしかしたら布を気に入るのでは、と淡い期待をした。
地主がうやうやしく布を差し出し、貞姫が馬車の帳の中から、手だけを出してそれを受け取った。
集まってきた村人同様に、固唾をのんで様子を見ていた馬良であるが、ほどなく、帳のなかから、貞姫本人が出てきた。
眦がつりあがり、怒りに燃えた声がわんわんと晴れた空にひびきわたる。
「いったい、だれがこんな奇妙なものを作ったのじゃ! これで服をつくって、わらわに恥をかかせようというのか!」
「だめだ」
趙雲がため息とともに言うと、茂みから立ち上がった。そうして、馬良に
「ここにいて、隠れていてくれ」
と、いいざま、自分は貞姫たちのところへと向かって行った。
そのあいだにも、貞姫は村人に詰め寄っている。
「この布を作ったという娘を、いますぐ連れてまいれ! わらわに恥をかかせようという、いやらしい性根を叩きなおしてくれようぞ!」
村人は、なんとかその剣幕をおさめようとするのであるが、貞姫はまったく人の話を聞かない。
激昂すると、視野が狭くなる性質らしく、趙雲が近づいて行っても、そうと気づかない様子である。ちょうどその背後からかける形で、趙雲が声をかけた。
「いったいなにをそう騒がれておいでですか。みなが怯えておりましょう」
場違いなまでに落ち着いた声に、ぎょっとして貞姫は顔をあげる。
ふりかえって、気の強そうな顔に、はじめて少女らしい、羞恥の色が走った。
「おやおや、ずいぶんな騒ぎになっているな」
ノンビリとした声がして、振り返ると、髪を解いたままの孔明が、いつのまにか馬良のとなりにいた。
「亮くん、寝ていたのじゃなかったのかい」
「あんな金切り声をあげられて、眠っていられるはずがない。やあ、これはまた頭痛の種がきたな」
孔明はそう言いつつも、さほど困っているふうではない。
豊かな黒髪をうしろで緩くひとつにしばっただけの孔明は、前髪に落ちるハンパな髪束をかきあげつつ、趙雲と貞姫から目をはずさない。
「趙将軍をお助けするべきではないかな」
「まだ様子を見よう。子龍になにか考えがあるのかも知れぬ。それにしても、あの姫にも呆れたものだな。あの布の素晴らしさがわからぬとは」
孔明はそう言って、貞姫の態度をあきれている。
それについては、貞姫は非難されるべきではない、と思った馬良は黙っていた。
趙雲のほうはというと、呆れ顔で周囲を見回し、さいごに貞姫を見た。
貞姫と、その侍女たちは怯えうろたえ、地主一行は、正体のわからぬ男の登場に、怪訝そうにしている。
それらの視線を一身にあつめながらも、趙雲の態度は不動である。
「趙子龍、なぜそなたがここにいるのじゃ」
なんとか矜持を保たせようと、貞姫はつんと顎をそらして言う。
しかしあまり効果はあがっていないようだ。
趙雲は、貞姫を見下ろすような位置から、拝跪することもなく、立ったまま、答えた。
「休みをいただいたので、この村の旧知に会いにきたのでございます」
「嘘が下手だな。いや、つけないのか」
と、馬良のとなりの孔明がつぶやいた。
事実、貞姫は顔を赤くして、詰め寄った。
「嘘をつくな! 殿は、子龍の旧知はすくない、とおっしゃっておられた!」
「でも、いるのです。ともかく、それがしはここにいて、貴女様はここにいる。お尋ねしたいのであるが、もちろん、主公のお許しをいただいてのことでしょうな?」
「そのようなこと、そなたに関係ない!」
「関係はございます。それがしは留営司馬。奥向きの管理をまかされております。それがしの留守に、貴女様に勝手をされてはこちらも面目が立ちませぬ」
すると、貞姫は、眦をつよくして、鼻を鳴らした。
「では、わらわを家畜のように、縄で縛って連れ帰るとよい。できるものならばな」
「そうしてもよろしいのであれば、そういたしますが」
趙雲はそう言って、一歩、前へ踏み出す。
すると、あれほどまでに強気であった貞姫の顔に、はっきりとおびえと、同時に不可解なまでの悲しげな表情があらわれた。
劉備の夫人、といはいっても、まだ少女の幼さを残しているのだ。
趙雲にいじめられているとでも勘違いしているのだろうか。
つづく……
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/06)
「おや」
悶々としていた馬良は、思わず声をあげた。
小川の上流から、箸が流れてきたのである。
なんだかどこかの昔話のようだな、と思いつつ、馬良は、おそらく上流に、人がいるのであろうと思い、誘われるようにして歩いていった。
ほどなく、馬のいななきが聞こえてきた。
草むらから覗くと、なんとも派手な一団が小休止をしているのが見えた。
まず、繋いである馬の、馬具からして煌びやかである。
その周囲にいる人間の衣裳も、ありとあらゆる染料を混ぜ込んで、そのまま乾かしたような、なんとも悪趣味な色合い。
金具という金具は、しつこいほどにすべてに金が塗られており、それが陽光にびかびかと光っている。
二十人ほどの男女の一団で、みな若い。
しかし、護衛の男たちや士大夫ふうの若者、侍女風の娘たちにいたるまで、みな奇抜な髪型、髯、服装をしている。
もしかしたら、これはどこかの流行なのかもかれも知れぬと思いつつ、馬良がどこの旅芸人かしら、と思っていると、ひとつだけ品のよい婦人用の馬車の帳がぱっと開き、中から、美しいが、きつい目をした娘が出てきた。
「その村というのは、じきに着くかえ?」
娘が姿をあらわすと、周囲の者たちは、一斉にそちらを向いた。
一団の長なのか。
娘が馬車を降りようとすると、士大夫ふうの男が、となりにいる少年の頭をこづいて、手伝え、という身振りをする。
少年が、それに気づいて娘のそばに来たときには、もう娘は地面に足をつけていた。
「もう降りた。荊南の男は、みなとろくて、きらいじゃ」
「もうしわけございませぬ。これ、貞姫さまに謝罪いたせ」
小太りの士大夫がさきほどの少年をさらにこづいて、頭を下げさせる。
しかし、貞姫は、つんと顎をそらして、それを無視した。
馬良は膝から力が抜けるのがわかった。
貞姫。
ほかならぬ、孫権の妹にして、劉備の妻。
それが、なんでこんなところに?
馬良は、貞姫と直接、言葉を交わしたことがない。
まだ十代の年若い、少女と言ってもおかしくない娘であるが、扱いづらい気性の娘で、夫である劉備すら気をつかって、その元に通うのを遠慮しているほどだ、という噂も聞こえていた。
劉備の遠慮をいいことに、思うままに振る舞い、そのわがままを止めることのできる者がいないのだ。趙雲がその任に当たっているが、苦労している様子なのは、道すがら聞いた話でわかっている。
まさか、江東へ帰ろうとしているのでは、と馬良は咄嗟に思ったが、その割には武人の姿が少なすぎる。
ものものしい緊迫感もなければ、隠密というふうでもない。
むしろ逆だ。目立ちすぎる。
馬良の疑問をよそに、貞姫は伸びをして、周囲を見回した。
「まったくなにもないところだけれど、かえって気が休まるの。ここには、あれはならぬ、これはならぬと五月蠅く言ってくる石頭もおらぬし」
そういって、貞姫は声をたてて笑った。
石頭というのはおそらく趙雲のことだろう。
なにを思い出しているのか、口では辛辣にこき下ろしながらも、表情はどこか楽しげである。
侍女のひとりが、姫、とたしなめるのを、貞姫は顔をきつくしてかえって叱る。
「よいではないか、わらわには、グチをこぼす自由もないのか。この者たちは信頼できる」
「ありがたきお言葉」
ぺこりと士大夫は頭を下げる。
貞姫は満足そうに、しかしどこか冷たさを感じられる笑みを浮かべた。
孔雀のように華やかではあるが、驕慢ゆえの残酷さを秘めた姫である。
劉備の人柄を思い、これは合わぬだろうなと、男として馬良は劉備に同情した。
女は、若くてきれいであればよい、というものではない。
「そなたの妻となる娘も、今日の日を指折り数えていたであろうな。しかしわらわに献上する布ができていたなら、その話もフイとなる。おもしろい趣向じゃな」
小太りの士大夫が、このあたり一帯の地主、というわけだ。
一団の悪趣味な派手さも、地方のなりあがり者にありがちな、勘違いの贅沢、ということか。
貞姫のことばに、それはまあ、と地主はあいまいな笑みを浮かべる。
どうも貞姫にいいふうに言って、うまく誤魔化しているようであった。
士大夫のとなりで、自分のことが話題になっているにもかかわらず、ぼんやりした少年は、機織名人の娘より年下のようだ。
しっかりした娘であったから、たしかに少年のよい連れ添いにはなりそうであるが、しかし好いてもない相手のために苦労はしたくないであろう。
「愚息の妻になることを渋っております娘も、貞姫さまがひとことおっしゃってくだされば、心を変えることでしょう」
「当然じゃ。わらわの言葉に逆らえるものなど、この地にはおらぬ」
士大夫の言葉に、貞姫は声を立てて笑った。
※
馬良はあわててその場から離れ、村へと戻っていった。
孔明と趙雲にこのことを知らせなければならない。
走りながら、馬良は考えた。
知らせて、それで、逃げるのだ。
いや、そんなこと、あの二人の気性からしてできるはずがない。
だが、ここで顔を合わせたらどうなることか。
下手に貞姫と対立したら、江東の孫権が黙ってはいない。最悪の場合、外交問題だ。
みなのためにと、僻村の娘とはいえ、その人生をみすみす犠牲にさせることなど、ほかの軍師ならばともかく、孔明にはできない。
どうしたらよいのか。
あの一団は、小休止がおわれば、すぐにここにやってくる。
馬良が村に帰ると、孔明は眠っていたが、趙雲は起きていた。
「お休みにならなかったのですか?」
「すこし眠ったから問題はない。それより従事、さきほど、畑に出ていた農夫が知らせてくれたのであるが」
「私も見ました。地主と、孫夫人が連れ立ってこちらに向かっております」
「まったく、俺が留守のあいだに、こっそりお忍びというわけか」
趙雲は苦りきった顔で言う。
相手が地主だけならばともかく、貞姫自ら参上となると、さすがに趙雲も解決策がないらしい。
「われらは退散したほうが、かえって面倒にならないのでは?」
「そうしたら、村の者はだれが守る。あの姫のことだ。たとえ布を気に入ったとしても、地主に肩入れをしているのであれば、娘や村人を脅して、言いなりにさせるに決まっている」
「軍師はどちらに?」
「いま眠っている。仕方ない。起こしてともに策を練ろう」
しかし、対策を練っている暇はなかった。村人が飛び込んできて、地主たちがやってきたと告げた。
仕方なく馬良は趙雲とともに隠れ、村人は孔明の織った布を献上することになった。
「策があると言っていなかったか」
茂みのよこで、ぼそりと趙雲がたずねる。
意地悪で言っているのではないが、馬良はしどろもどろになりつつ答えた。
「あったようですが、その」
「事態が変わったからな。しかし布を気に入って、大人しく帰る、という展開は期待できんかな」
趙雲は茂みから、やってきた地主と貞姫一行をじっと見つめている。
今日が期日であると、さきほど川辺で見た小太りの地主がいい、村人が、かしこまりながら、孔明の織った布を差し出した。
地主たちの異様なまでの煌びやかさと、村人の、質素ながらも感じのよいたたずまいが対照的である。
地主はおっかなびっくりと一団を見ている村人に、本日はお忍びで、さる高貴なお方がいらっしゃっている。その方にいまから布をお見せするので、待っているがよい、と宣言した。
馬良からすれば、あれほどにぎやかな趣味を持っている一団ならば、もしかしたら布を気に入るのでは、と淡い期待をした。
地主がうやうやしく布を差し出し、貞姫が馬車の帳の中から、手だけを出してそれを受け取った。
集まってきた村人同様に、固唾をのんで様子を見ていた馬良であるが、ほどなく、帳のなかから、貞姫本人が出てきた。
眦がつりあがり、怒りに燃えた声がわんわんと晴れた空にひびきわたる。
「いったい、だれがこんな奇妙なものを作ったのじゃ! これで服をつくって、わらわに恥をかかせようというのか!」
「だめだ」
趙雲がため息とともに言うと、茂みから立ち上がった。そうして、馬良に
「ここにいて、隠れていてくれ」
と、いいざま、自分は貞姫たちのところへと向かって行った。
そのあいだにも、貞姫は村人に詰め寄っている。
「この布を作ったという娘を、いますぐ連れてまいれ! わらわに恥をかかせようという、いやらしい性根を叩きなおしてくれようぞ!」
村人は、なんとかその剣幕をおさめようとするのであるが、貞姫はまったく人の話を聞かない。
激昂すると、視野が狭くなる性質らしく、趙雲が近づいて行っても、そうと気づかない様子である。ちょうどその背後からかける形で、趙雲が声をかけた。
「いったいなにをそう騒がれておいでですか。みなが怯えておりましょう」
場違いなまでに落ち着いた声に、ぎょっとして貞姫は顔をあげる。
ふりかえって、気の強そうな顔に、はじめて少女らしい、羞恥の色が走った。
「おやおや、ずいぶんな騒ぎになっているな」
ノンビリとした声がして、振り返ると、髪を解いたままの孔明が、いつのまにか馬良のとなりにいた。
「亮くん、寝ていたのじゃなかったのかい」
「あんな金切り声をあげられて、眠っていられるはずがない。やあ、これはまた頭痛の種がきたな」
孔明はそう言いつつも、さほど困っているふうではない。
豊かな黒髪をうしろで緩くひとつにしばっただけの孔明は、前髪に落ちるハンパな髪束をかきあげつつ、趙雲と貞姫から目をはずさない。
「趙将軍をお助けするべきではないかな」
「まだ様子を見よう。子龍になにか考えがあるのかも知れぬ。それにしても、あの姫にも呆れたものだな。あの布の素晴らしさがわからぬとは」
孔明はそう言って、貞姫の態度をあきれている。
それについては、貞姫は非難されるべきではない、と思った馬良は黙っていた。
趙雲のほうはというと、呆れ顔で周囲を見回し、さいごに貞姫を見た。
貞姫と、その侍女たちは怯えうろたえ、地主一行は、正体のわからぬ男の登場に、怪訝そうにしている。
それらの視線を一身にあつめながらも、趙雲の態度は不動である。
「趙子龍、なぜそなたがここにいるのじゃ」
なんとか矜持を保たせようと、貞姫はつんと顎をそらして言う。
しかしあまり効果はあがっていないようだ。
趙雲は、貞姫を見下ろすような位置から、拝跪することもなく、立ったまま、答えた。
「休みをいただいたので、この村の旧知に会いにきたのでございます」
「嘘が下手だな。いや、つけないのか」
と、馬良のとなりの孔明がつぶやいた。
事実、貞姫は顔を赤くして、詰め寄った。
「嘘をつくな! 殿は、子龍の旧知はすくない、とおっしゃっておられた!」
「でも、いるのです。ともかく、それがしはここにいて、貴女様はここにいる。お尋ねしたいのであるが、もちろん、主公のお許しをいただいてのことでしょうな?」
「そのようなこと、そなたに関係ない!」
「関係はございます。それがしは留営司馬。奥向きの管理をまかされております。それがしの留守に、貴女様に勝手をされてはこちらも面目が立ちませぬ」
すると、貞姫は、眦をつよくして、鼻を鳴らした。
「では、わらわを家畜のように、縄で縛って連れ帰るとよい。できるものならばな」
「そうしてもよろしいのであれば、そういたしますが」
趙雲はそう言って、一歩、前へ踏み出す。
すると、あれほどまでに強気であった貞姫の顔に、はっきりとおびえと、同時に不可解なまでの悲しげな表情があらわれた。
劉備の夫人、といはいっても、まだ少女の幼さを残しているのだ。
趙雲にいじめられているとでも勘違いしているのだろうか。
つづく……
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/06)