※
孔明の人生は、ハタから見る限り、あまり恵まれたものではない。
両親を早くに亡くし、故郷を曹操に焼き払われ、頼りにしていた叔父もほどなく死亡。
私塾にて親友を得るが、ことごとく、やはり曹操が原因で失い、劉備の軍師となったが、これまた弱小勢力で苦労の連続。
孔明が安定した生活を送っていたのは、襄陽の私塾に通っていた数年の間だけなのだ。
これまでの人生に、挫折がなかったわけではないだろう。
戦火を知らず、裕福な家に生まれた馬良には、孔明の歩んできた人生を、感覚として理解できない。
さまざまな苦労を重ねて、自ら道を切り拓いたのが孔明だと、馬良は思っている。
孔明は自分の才能を自慢するが、過去の労苦をひけらかしたり、愚痴ったりしたことは一度もない。
だから馬良は、友としてだけではなく、人として、孔明を尊敬している。
その孔明が、自ら、胸のうちに秘めた脆さを、はじめて口にしたのだ。
これは相当、周瑜という人物に圧倒されたのにちがいない。
馬良は、いろいろと励ましの言葉を考えた。
気にすることはない、君は君だ、とか、頑張って才を磨いて、周瑜に追いつくようにしよう、とか。
しかしそのどれも、結局、口にすることができなかった。
どんな励ましを述べても、孔明を傷つけるだけのような気がしたからである。
そうして、互いに暗い空気を背負ったまま、村に入っていった。
※
静かな村であった。
ときおり、飼っている鶏の鳴き声や、牛の低いうなり声が山間をよぎる。
小川が流れているらしく、さらさらと心地よいせせらぎの音もした。
だが、静か過ぎる。
なにか不幸でもあったのだろうかと馬良は思い、民家に目をやったのであるが、定番の泣き女の声も聞こえず、不気味なくらいにひっそりしている。
いや…それどころか、赤い提灯がぶらさがっている。
祝い事があるらしい。
なんだかおかしいなと思いつつ、馬を進めると、女の泣き声が聞こえてきた。
やはり葬儀でもあったのだろうかと、馬を下りて、そっと覗き見ると、おどろいたことに、みごとな礼装の娘と、その親族らしい女たちと男親があつまって、みなでしくしくと泣いているのであった。
※
室内の装飾から、村人たちの、素朴な風情ににあわぬ晴れ着姿といい、どう見てもめでたい華燭の典がおこなわれているふうに見えるのであるが、せいいっぱい飾り付けられた屋内で、なぜだか彼らはひとつところにあつまって、しくしくと泣いているのだ。
さてこれは、晴れて結婚となったわけだけれども、花嫁をあまり気に入らぬ花婿あたりが土壇場になって怖気づき、花嫁を置いて逃げてしまったのではないか知らん、と馬良は想像をたくましくした。
どちらにしろ、気の毒なことには変わりはない。
落ち込んでいるときに、もっと不幸な人を見ると慰められるのは、不謹慎ではあるが事実だな、と思いつつ、馬良は村人に声をかけた。
「どうしたのだね、そんなふうに泣いて」
しくしくと泣くのに夢中になっていた人々のうち、輪の中心になって、見事な牡丹を黒髪にさした娘が顔を上げた。
その初々しい顔を見たときに、馬良は、さきほどの想像を打ち捨てた。
まさに泥沼に咲いた清楚な一輪の蓮の花。
こんな娘を袖にして、逃げるばか者はおるまい。
「あなたさまは、どちら様でございますか?」
と、娘はしゃくりあげながらも気丈に尋ねてきた。
傍らでは、娘の母親とその親族らしい女たちが、「こんなのあんまりだ」とか、「世の中おしまいだ」といささか大げさな声を上げている。
「わたしは旅の者なのだが、すこし休憩をさせてもらおうかと思って声をかけたのだよ。取り込み中であるようだから、別の家を当たるが」
退きかけると、不意に袖をがっしりと掴まれる。
仰天すると、いままでいないと思っていた花婿らしい晴れ着の若い男が、地べたに転がっていたのである。
それが馬良の裾をがっしり掴み、泣きはらした眼を向けてくる。
どうやら、床に打ち伏したまま、おんおんと泣いていたようだ。
せっかくの晴れ着が泥に汚れているが、殴られた様子ではない。
若者は激情家であるらしく、馬良の服の裾を両手でしっかりとつかんで、がなるように叫んだ。
「見れば身分のあるお方のご様子。我らを哀れとお思いならば、どうかお助けくださいませ!」
馬良はおのれがヒヨワなことを知っている。
知っているがゆえに、危険に鋭い。
なんだか知らんが逃げるが勝ちだ、と直感し、足を引きかけたところへ、戸口から、ひょいと孔明が顔を覗かせる。
「どうしたのだね、良くん。いまふみ潰された牛ガエルみたいな声が聞こえたけれども」
馬良はつねづね思うのであるが、諸葛孔明という人は、あやしげな仙術を用いていて、じつは普段は魔法の目に見えない看板を首からぶらさげているのではなかろうか。
それはふつうの人にはみえないのであるが、困った人が見ると、そこに看板が掲げてあるのがわかるのだ。
その看板には、こうあるに違いない。
『当方、とてもお節介。よろず悩み事ひきうけます。お代は不要』
なぜそんな奇妙な空想をしたかといえば、孔明がただ顔を出した、というだけで、その場の泣き崩れていた人々が顔をあげ、まるで神さまがやってきた、といわんばかりに、ぱっと顔を輝かせたからである。
困り果てた人、弱り果てた人が、孔明の顔を見ると、千里の彼方から救い手がやってきたような顔をしておおよろこびするのは、今に始まったことではなく、いつ、いかなる場合においても、たいがいそうであった。
これは徳、というものなのであろうか。
馬良などは、人から期待されただけで、万事うまくこなさねば、と緊張してしまう。
まして他人にお願いします、と頼まれて、よしきた、まかせておけ、などと答えることは、なかなかできない。
馬良が孔明を尊敬するのは、孔明は実にあっさりと、
「よかろう」
のひと言で承諾してしまうからだ。
もともとお節介な気質もあるだろうが、おのれの能力に自信があるから出来ることだろうとも思う。
孔明の場合、結果がきちんと伴うわけだから、やはり、さすが、のひと言につきる。
とにもかくにも、孔明は、いきなり涙でくしゃくしゃになっている村人たちの視線が一斉に集まってきたので、面食らっているようである。
「だれか死んだのか」
孔明が遠慮なくずばり尋ねると、花嫁の母親らしい、農家の女将さんにしては気品のある顔立ちをした女が前に進み出て、袖で涙を拭きながら、孔明に答えた。
「これから死ぬのでございます」
「病かね、それとも事故か」
「どちらでもございませぬ。あたくしどもの誇りを示すために、死ぬのでございます」
花嫁の母の話はこうである。
このたび、めでたく娘と許婚の婚儀が整った。
今日がその日であったのだが、このあたりを治めている地主が待ったをかけた。
娘は村でも評判の機織名人なのであるが、今回の婚儀のために、地主から借金をした。
わずかな額であったのだが、今日になって地主が証文を持ってきたのを見ると、借金が数十倍にも膨れ上がっている。
おどろいて、なにかの間違いだと抗議したのだが、利子がついたのでこの額になった、証文があるので、払うことができなければ、娘は貰っていく、という。
この地主に、いささかオツムのあやしいドラ息子がいる。
この息子が娘に横恋慕をしていたので、親に泣きついて、無理にでも娘を自分の物にしようというのだろう。
その魂胆は、誰の眼にも見え見えであったし、地主への反発もあって、村人たちは総出で抗議をしたのであるが、証文の存在が重く、借金の返済を撤回させることができない。
しかしなんとか借金返済を五日後にまで延ばすことができた。
もちろん、五日で工面できる額ではない。
それを見越したのか、地主は、今度、劉左将軍の奥方に献上する予定の衣がある。その衣を五日後に作ることができたなら、借金は帳消しにしてやろう、と言い捨てて言った。
しかしどちらも無理である。
実は、娘は婚儀の支度の途中で、黄金の指先に怪我を折ってしまい、機織ができない状態なのだ。
しかし、かねてより近隣の豪族の娘から頼まれていた衣があり、これに手を加えればなんとかなりそうなのであるが、残念なことに、死ぬ気で機を織るにしても、糸が足りない。
これから買出しに行くとしても、大きな市のある臨烝へ行って戻ってでは、期日の五日は間に合わない。
かといって、唯々諾々と、地主の卑怯な要求を呑むわけには行かない。
ならば、誇りを示すために、ドラ息子に触られる前に死んでくれよう、と花嫁は言い出し、母親も、それでこそあたくしの娘です、と褒め上げる。
そんなふうで、せっかくの婚儀の場が、永のお別れをみなに伝える場となってしまった、というのだ。
地主が嫌味ったらしく残していった、証文の写しを見ると、正規のものであり、役場で問題にするのも難しい。
元金の数十倍、という利子の付き方が尋常ではないが、もともと借りた金というのが、証文の額と、花嫁たちの言う額とでまったく違うのである。花嫁が字を読めないことをいいことに、地主が嘘の金額を書いて、それをタテにしているらしかった。
だが、それを証明できるものがないかぎり、娘は地主の家に行かねばならない。
つづく……
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/06)
孔明の人生は、ハタから見る限り、あまり恵まれたものではない。
両親を早くに亡くし、故郷を曹操に焼き払われ、頼りにしていた叔父もほどなく死亡。
私塾にて親友を得るが、ことごとく、やはり曹操が原因で失い、劉備の軍師となったが、これまた弱小勢力で苦労の連続。
孔明が安定した生活を送っていたのは、襄陽の私塾に通っていた数年の間だけなのだ。
これまでの人生に、挫折がなかったわけではないだろう。
戦火を知らず、裕福な家に生まれた馬良には、孔明の歩んできた人生を、感覚として理解できない。
さまざまな苦労を重ねて、自ら道を切り拓いたのが孔明だと、馬良は思っている。
孔明は自分の才能を自慢するが、過去の労苦をひけらかしたり、愚痴ったりしたことは一度もない。
だから馬良は、友としてだけではなく、人として、孔明を尊敬している。
その孔明が、自ら、胸のうちに秘めた脆さを、はじめて口にしたのだ。
これは相当、周瑜という人物に圧倒されたのにちがいない。
馬良は、いろいろと励ましの言葉を考えた。
気にすることはない、君は君だ、とか、頑張って才を磨いて、周瑜に追いつくようにしよう、とか。
しかしそのどれも、結局、口にすることができなかった。
どんな励ましを述べても、孔明を傷つけるだけのような気がしたからである。
そうして、互いに暗い空気を背負ったまま、村に入っていった。
※
静かな村であった。
ときおり、飼っている鶏の鳴き声や、牛の低いうなり声が山間をよぎる。
小川が流れているらしく、さらさらと心地よいせせらぎの音もした。
だが、静か過ぎる。
なにか不幸でもあったのだろうかと馬良は思い、民家に目をやったのであるが、定番の泣き女の声も聞こえず、不気味なくらいにひっそりしている。
いや…それどころか、赤い提灯がぶらさがっている。
祝い事があるらしい。
なんだかおかしいなと思いつつ、馬を進めると、女の泣き声が聞こえてきた。
やはり葬儀でもあったのだろうかと、馬を下りて、そっと覗き見ると、おどろいたことに、みごとな礼装の娘と、その親族らしい女たちと男親があつまって、みなでしくしくと泣いているのであった。
※
室内の装飾から、村人たちの、素朴な風情ににあわぬ晴れ着姿といい、どう見てもめでたい華燭の典がおこなわれているふうに見えるのであるが、せいいっぱい飾り付けられた屋内で、なぜだか彼らはひとつところにあつまって、しくしくと泣いているのだ。
さてこれは、晴れて結婚となったわけだけれども、花嫁をあまり気に入らぬ花婿あたりが土壇場になって怖気づき、花嫁を置いて逃げてしまったのではないか知らん、と馬良は想像をたくましくした。
どちらにしろ、気の毒なことには変わりはない。
落ち込んでいるときに、もっと不幸な人を見ると慰められるのは、不謹慎ではあるが事実だな、と思いつつ、馬良は村人に声をかけた。
「どうしたのだね、そんなふうに泣いて」
しくしくと泣くのに夢中になっていた人々のうち、輪の中心になって、見事な牡丹を黒髪にさした娘が顔を上げた。
その初々しい顔を見たときに、馬良は、さきほどの想像を打ち捨てた。
まさに泥沼に咲いた清楚な一輪の蓮の花。
こんな娘を袖にして、逃げるばか者はおるまい。
「あなたさまは、どちら様でございますか?」
と、娘はしゃくりあげながらも気丈に尋ねてきた。
傍らでは、娘の母親とその親族らしい女たちが、「こんなのあんまりだ」とか、「世の中おしまいだ」といささか大げさな声を上げている。
「わたしは旅の者なのだが、すこし休憩をさせてもらおうかと思って声をかけたのだよ。取り込み中であるようだから、別の家を当たるが」
退きかけると、不意に袖をがっしりと掴まれる。
仰天すると、いままでいないと思っていた花婿らしい晴れ着の若い男が、地べたに転がっていたのである。
それが馬良の裾をがっしり掴み、泣きはらした眼を向けてくる。
どうやら、床に打ち伏したまま、おんおんと泣いていたようだ。
せっかくの晴れ着が泥に汚れているが、殴られた様子ではない。
若者は激情家であるらしく、馬良の服の裾を両手でしっかりとつかんで、がなるように叫んだ。
「見れば身分のあるお方のご様子。我らを哀れとお思いならば、どうかお助けくださいませ!」
馬良はおのれがヒヨワなことを知っている。
知っているがゆえに、危険に鋭い。
なんだか知らんが逃げるが勝ちだ、と直感し、足を引きかけたところへ、戸口から、ひょいと孔明が顔を覗かせる。
「どうしたのだね、良くん。いまふみ潰された牛ガエルみたいな声が聞こえたけれども」
馬良はつねづね思うのであるが、諸葛孔明という人は、あやしげな仙術を用いていて、じつは普段は魔法の目に見えない看板を首からぶらさげているのではなかろうか。
それはふつうの人にはみえないのであるが、困った人が見ると、そこに看板が掲げてあるのがわかるのだ。
その看板には、こうあるに違いない。
『当方、とてもお節介。よろず悩み事ひきうけます。お代は不要』
なぜそんな奇妙な空想をしたかといえば、孔明がただ顔を出した、というだけで、その場の泣き崩れていた人々が顔をあげ、まるで神さまがやってきた、といわんばかりに、ぱっと顔を輝かせたからである。
困り果てた人、弱り果てた人が、孔明の顔を見ると、千里の彼方から救い手がやってきたような顔をしておおよろこびするのは、今に始まったことではなく、いつ、いかなる場合においても、たいがいそうであった。
これは徳、というものなのであろうか。
馬良などは、人から期待されただけで、万事うまくこなさねば、と緊張してしまう。
まして他人にお願いします、と頼まれて、よしきた、まかせておけ、などと答えることは、なかなかできない。
馬良が孔明を尊敬するのは、孔明は実にあっさりと、
「よかろう」
のひと言で承諾してしまうからだ。
もともとお節介な気質もあるだろうが、おのれの能力に自信があるから出来ることだろうとも思う。
孔明の場合、結果がきちんと伴うわけだから、やはり、さすが、のひと言につきる。
とにもかくにも、孔明は、いきなり涙でくしゃくしゃになっている村人たちの視線が一斉に集まってきたので、面食らっているようである。
「だれか死んだのか」
孔明が遠慮なくずばり尋ねると、花嫁の母親らしい、農家の女将さんにしては気品のある顔立ちをした女が前に進み出て、袖で涙を拭きながら、孔明に答えた。
「これから死ぬのでございます」
「病かね、それとも事故か」
「どちらでもございませぬ。あたくしどもの誇りを示すために、死ぬのでございます」
花嫁の母の話はこうである。
このたび、めでたく娘と許婚の婚儀が整った。
今日がその日であったのだが、このあたりを治めている地主が待ったをかけた。
娘は村でも評判の機織名人なのであるが、今回の婚儀のために、地主から借金をした。
わずかな額であったのだが、今日になって地主が証文を持ってきたのを見ると、借金が数十倍にも膨れ上がっている。
おどろいて、なにかの間違いだと抗議したのだが、利子がついたのでこの額になった、証文があるので、払うことができなければ、娘は貰っていく、という。
この地主に、いささかオツムのあやしいドラ息子がいる。
この息子が娘に横恋慕をしていたので、親に泣きついて、無理にでも娘を自分の物にしようというのだろう。
その魂胆は、誰の眼にも見え見えであったし、地主への反発もあって、村人たちは総出で抗議をしたのであるが、証文の存在が重く、借金の返済を撤回させることができない。
しかしなんとか借金返済を五日後にまで延ばすことができた。
もちろん、五日で工面できる額ではない。
それを見越したのか、地主は、今度、劉左将軍の奥方に献上する予定の衣がある。その衣を五日後に作ることができたなら、借金は帳消しにしてやろう、と言い捨てて言った。
しかしどちらも無理である。
実は、娘は婚儀の支度の途中で、黄金の指先に怪我を折ってしまい、機織ができない状態なのだ。
しかし、かねてより近隣の豪族の娘から頼まれていた衣があり、これに手を加えればなんとかなりそうなのであるが、残念なことに、死ぬ気で機を織るにしても、糸が足りない。
これから買出しに行くとしても、大きな市のある臨烝へ行って戻ってでは、期日の五日は間に合わない。
かといって、唯々諾々と、地主の卑怯な要求を呑むわけには行かない。
ならば、誇りを示すために、ドラ息子に触られる前に死んでくれよう、と花嫁は言い出し、母親も、それでこそあたくしの娘です、と褒め上げる。
そんなふうで、せっかくの婚儀の場が、永のお別れをみなに伝える場となってしまった、というのだ。
地主が嫌味ったらしく残していった、証文の写しを見ると、正規のものであり、役場で問題にするのも難しい。
元金の数十倍、という利子の付き方が尋常ではないが、もともと借りた金というのが、証文の額と、花嫁たちの言う額とでまったく違うのである。花嫁が字を読めないことをいいことに、地主が嘘の金額を書いて、それをタテにしているらしかった。
だが、それを証明できるものがないかぎり、娘は地主の家に行かねばならない。
つづく……
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/06)