※
「よくありませぬなあ」
趙雲の副将・陳到は趙雲のとなりで轡《くつわ》をならべていたが、後方をみやって、ぼやきはじめた。
「民の数が増えたように感じます。
わが君が劉表の墓参りをしているのを見て、襄陽《じょうよう》の民もいくらかついてきたようですな。
それに、思った以上にみなの足が遅い。
これでは曹操がその気になれば、あっという間に追いつかれてしまいますぞ」
陳到は愚か者ではないので、まわりに民の耳がないことをたしかめてから、ぼやいている。
民の行列は、地平の向こうまでつづくように見えた。
たしかに、数が増えてしまったようだ。
しかも、新野《しんや》から樊城《はんじょう》へ移動したときの元気はなく、みな口数が少ない。
襄陽で追い立てられたことで、冷酷な現実が見えてきたのだろう。
「たしかに、昨日より民が増えているな」
「わが君の徳のなせるわざと喜んでよいものなのか……曹操が極端に恐れられている証左でもありますな」
陳到のボヤキに応じ、困ったな、という意味で、趙雲は小さくため息をついた。
このままでは列は長くなるばかりで、守れるものも守れなくなる。
趙雲は、また孔明をちらっと見やった。
陳到のぼやきは孔明の耳にも聞こえたろうに、腹をくくっているのか、なにも表情に出さず、口をひらくことすらしない。
ついでに、趙雲はふたたび民の行列を見た。
遅れそうな者は体力のある者が助けてやっている。
将兵も余裕があるので、重い荷物を代わりに担いでやったり、水を分けてやったりしていた。
貴人の馬車のなかにいる女たちは、民に優しい励ましをかけている。
だが、これから襲ってくるだろう困難にぶつかったら、かれらは同じように助け合っていけるだろうか。
極限状態に置かれた人間は、思いもかけない行動をする。
それを趙雲は、長い戦場暮らしでよく知っていた。
楽観的になれるはずもなかった。
『いや、悲観的に考えてばかりいても仕方ない。
軍師も腹ををくくっているのだ。俺もそうしよう。
なんとしてもわが君とご家族、そして軍師を守り抜いて、この苦難をしのいでみせるぞ』
趙雲はぐっと手綱《たづな》を握る手に、力をこめた。
※
襄陽を出てから数日が経過した。
しかし、民の速度は予想をはるかに超える遅さで、一日にわずかの距離しか進むことができない。
鞭打って急がせることなどもできるはずがなく、かれらを懸命に励ますほかない。
しかも太陽が容赦がなかった。
秋だというのに、真夏のような日差しを大地に届けてくる。
それが何日もつづくので、さすがに離脱する者もちらほら出始めた。
襄陽へ戻れる者は、戻ったほうがいいと、趙雲はひそかにおもう。
だが、それを声高に言えないところがつらいところだ。
おそらく、曹操はすでに襄陽城に入っているだろう。
曹操軍が、自分たち劉備軍とかかわりあいになった者たちをどう処遇するかは、まだわからない。
苛烈な曹操の性格からかんがえて、見せしめに始末してしまうかもしれない。
あるいは、寛大なところをみせて慰撫《いぶ》するか……
劉備は、この亀のような歩みの行軍に文句ひとついわず、むしろ民をいたわって、励ましをつづけていた。
それにならい、孔明や関羽などの主だった将たちも、同じように、民の面倒をあれこれと見ていた。
民もけなげに、劉備たちのことばを頼りに、けんめいに足を動かしている。
いまのところ、目立ったいさかいはない。
だが、これがあと数十日も続くとなると、どうなるだろうと趙雲は懸念する。
いまはいわば、苦難の蜜月なのだ。
だが、次第に環境がわるくなれば、ひとびとのこころも|荒《すさ》んでくる。
そうなったときが、こわい。
孔明はどう考えているのだろう。
ことばを聞きたくて、となりに轡をならべると、待っていたかのように孔明が言った。
「さすがに焦《じ》れるな、この状況は」
「想定内ではないのか」
「ちがう。自分の甘さを呪っているところだ」
そう言って、孔明は小さくため息をつく。
そして、急に眼を細めると、趙雲がどきりとするほど、するどい顔を間近に寄せてきた。
「このままでは徐州の再現となろう」
「不吉なことを。その前に江陵に逃げればよい」
「江陵は、はるか南。そのまえに、曹操がご自慢の軽騎兵に、われらへの追撃を命じたら、お手上げだ」
「おれはいつでも戦えるぞ」
「頼りにしているよ。だが、混戦になろう」
混戦となれば、民も無事ではすまない。
趙雲は、長くつづく民の行列をあらためて見た。
北から南まで、細長い民の列がつづいている。
荷車に家財道具をたんまり乗せた者や、子供や老人を励まして歩く者、着の身着のままといったふうで、疲れた顔をしながらも懸命に歩く者など、さまざまだ。
みな、劉備のため、先祖伝来の土地も家屋も、すべてを棄《す》てて、ついてきたのだ。
それをおもうと、胸がじんとして、なんとしてもかれらも守ってやらねばという想いが込み上げてくる。
「船がいるな」
孔明がぽつりとつぶやいた。
「江夏の劉琦どののところへ船の応援を頼んだが、その使者が戻ってこない。
これは、ほかに使者を立てねばならぬということだ」
「どうする」
「わが君と相談して決める。やはり、頭の中ではうまくいっても、現実は甘くないな」
孔明にしては、めずらしくぼやいた。
つづく
「よくありませぬなあ」
趙雲の副将・陳到は趙雲のとなりで轡《くつわ》をならべていたが、後方をみやって、ぼやきはじめた。
「民の数が増えたように感じます。
わが君が劉表の墓参りをしているのを見て、襄陽《じょうよう》の民もいくらかついてきたようですな。
それに、思った以上にみなの足が遅い。
これでは曹操がその気になれば、あっという間に追いつかれてしまいますぞ」
陳到は愚か者ではないので、まわりに民の耳がないことをたしかめてから、ぼやいている。
民の行列は、地平の向こうまでつづくように見えた。
たしかに、数が増えてしまったようだ。
しかも、新野《しんや》から樊城《はんじょう》へ移動したときの元気はなく、みな口数が少ない。
襄陽で追い立てられたことで、冷酷な現実が見えてきたのだろう。
「たしかに、昨日より民が増えているな」
「わが君の徳のなせるわざと喜んでよいものなのか……曹操が極端に恐れられている証左でもありますな」
陳到のボヤキに応じ、困ったな、という意味で、趙雲は小さくため息をついた。
このままでは列は長くなるばかりで、守れるものも守れなくなる。
趙雲は、また孔明をちらっと見やった。
陳到のぼやきは孔明の耳にも聞こえたろうに、腹をくくっているのか、なにも表情に出さず、口をひらくことすらしない。
ついでに、趙雲はふたたび民の行列を見た。
遅れそうな者は体力のある者が助けてやっている。
将兵も余裕があるので、重い荷物を代わりに担いでやったり、水を分けてやったりしていた。
貴人の馬車のなかにいる女たちは、民に優しい励ましをかけている。
だが、これから襲ってくるだろう困難にぶつかったら、かれらは同じように助け合っていけるだろうか。
極限状態に置かれた人間は、思いもかけない行動をする。
それを趙雲は、長い戦場暮らしでよく知っていた。
楽観的になれるはずもなかった。
『いや、悲観的に考えてばかりいても仕方ない。
軍師も腹ををくくっているのだ。俺もそうしよう。
なんとしてもわが君とご家族、そして軍師を守り抜いて、この苦難をしのいでみせるぞ』
趙雲はぐっと手綱《たづな》を握る手に、力をこめた。
※
襄陽を出てから数日が経過した。
しかし、民の速度は予想をはるかに超える遅さで、一日にわずかの距離しか進むことができない。
鞭打って急がせることなどもできるはずがなく、かれらを懸命に励ますほかない。
しかも太陽が容赦がなかった。
秋だというのに、真夏のような日差しを大地に届けてくる。
それが何日もつづくので、さすがに離脱する者もちらほら出始めた。
襄陽へ戻れる者は、戻ったほうがいいと、趙雲はひそかにおもう。
だが、それを声高に言えないところがつらいところだ。
おそらく、曹操はすでに襄陽城に入っているだろう。
曹操軍が、自分たち劉備軍とかかわりあいになった者たちをどう処遇するかは、まだわからない。
苛烈な曹操の性格からかんがえて、見せしめに始末してしまうかもしれない。
あるいは、寛大なところをみせて慰撫《いぶ》するか……
劉備は、この亀のような歩みの行軍に文句ひとついわず、むしろ民をいたわって、励ましをつづけていた。
それにならい、孔明や関羽などの主だった将たちも、同じように、民の面倒をあれこれと見ていた。
民もけなげに、劉備たちのことばを頼りに、けんめいに足を動かしている。
いまのところ、目立ったいさかいはない。
だが、これがあと数十日も続くとなると、どうなるだろうと趙雲は懸念する。
いまはいわば、苦難の蜜月なのだ。
だが、次第に環境がわるくなれば、ひとびとのこころも|荒《すさ》んでくる。
そうなったときが、こわい。
孔明はどう考えているのだろう。
ことばを聞きたくて、となりに轡をならべると、待っていたかのように孔明が言った。
「さすがに焦《じ》れるな、この状況は」
「想定内ではないのか」
「ちがう。自分の甘さを呪っているところだ」
そう言って、孔明は小さくため息をつく。
そして、急に眼を細めると、趙雲がどきりとするほど、するどい顔を間近に寄せてきた。
「このままでは徐州の再現となろう」
「不吉なことを。その前に江陵に逃げればよい」
「江陵は、はるか南。そのまえに、曹操がご自慢の軽騎兵に、われらへの追撃を命じたら、お手上げだ」
「おれはいつでも戦えるぞ」
「頼りにしているよ。だが、混戦になろう」
混戦となれば、民も無事ではすまない。
趙雲は、長くつづく民の行列をあらためて見た。
北から南まで、細長い民の列がつづいている。
荷車に家財道具をたんまり乗せた者や、子供や老人を励まして歩く者、着の身着のままといったふうで、疲れた顔をしながらも懸命に歩く者など、さまざまだ。
みな、劉備のため、先祖伝来の土地も家屋も、すべてを棄《す》てて、ついてきたのだ。
それをおもうと、胸がじんとして、なんとしてもかれらも守ってやらねばという想いが込み上げてくる。
「船がいるな」
孔明がぽつりとつぶやいた。
「江夏の劉琦どののところへ船の応援を頼んだが、その使者が戻ってこない。
これは、ほかに使者を立てねばならぬということだ」
「どうする」
「わが君と相談して決める。やはり、頭の中ではうまくいっても、現実は甘くないな」
孔明にしては、めずらしくぼやいた。
つづく
※ 本日は遅くなりまして、申し訳ありません;
明日からは通常通り、午前10時前後で更新できます。
あらためて、よろしくお願いいたしまーす♪
それにしても仙台もけっこうな雪に降られまして、本日ちょっとばかり遠くへ出かける用事があったのですが、バスが来ない!
行くのも帰るのも大変でした;
みなさまのお住いの地域はいかがだったでしょう?
めちゃくちゃ今日は寒いので、あったかくしてお過ごしください。
あと!
ブログ村に投票してくださったみなさま!
どうもありがとうございましたー(*^▽^*)
めちゃくちゃ励みになります!
今後もがんばって活動してまいります!
ではでは、次回をおたのしみにー(^^♪