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帯とけの枕草子〔三十四〕木の花は
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
清少納言 枕草子〔三十四〕木の花は
木の花は、こきもうすきも紅梅。桜ははなびらおほきに、葉の色こきが、枝ほそくて咲たる。藤のはなは、しなひながく色こく咲たる、いとめでたし。
(木の花は濃いのも薄いのも紅梅。桜は花びら多くて葉の色濃いのが枝細く咲いている、藤の花は花房長く色濃く咲いている、とっても愛でたい……お花は、情の濃いのも薄いのも、暮れないお花。さくらは八重にさいて、端の色濃いのが、身の江狭くさいている。不二のお花は、しなって長く色濃くさいている。とっても愛でたい)。
言の戯れと言の心
「梅、桜、藤…木の花…男花…おとこ花」「紅梅…紅の梅花…暮れない男花…元気色のおとこ花…交配…好配…好き配偶者」「桜…咲くら…放くら」「ら…状態を表す」「はなびらおほく…一重ではなく八重に…一咲きではなく多重に」「枝…え…身の枝…おとこ…江…女」「ほそくて…細くて…狭くて」「藤…ふぢ…ふじ…不二…不死」「色…色彩…色情」「さく…咲く…放く…放つ」。
四月の末から五月一日のころ、橘の葉(立花の葉…男木の端)の濃く青くて、花(木の花…おとこ花)がとっても白く咲いたのが、雨の降った翌朝などは、まれにみる様子で情趣がある。花の中より黄金の玉かと見えて、水滴が鮮やか見えているのなど、朝露に濡れている暁の桜(さくら花…おとこ花)に劣らない。郭公(かっこう鳥…且つ乞う女)が立花を縁あるものとさえ思うのだろうか、また更に言うべきではない。
言の戯れと言の心
「橘…立ち花…花立花…おとこ花」「露…白つゆ」「郭公…ほととぎす…かっこう…鳥…女…且つ恋う…且つ乞う」。
梨の花、世に他に類がないほど期待はずれなもので、身近にもてはやさず、はかない文(恋文)など付ける木にもせず、愛嬌の後れた女の顔など見てはそのたとえに言うのも、たしかに葉の色をはじめとして、わけもなくそう見える。
唐では(梨花の言の心が異なって)「限り無きもの」として文(漢詩)にも作る。なお、どうしてそうなんだろうと、強いて見てみれば、花びらの端に、をかしきにほひ(おかしい匂い…おのような匂い)が、ほんのりとついているようだ。冥途にいる・楊貴妃が帝の御使いに会って泣いた顔に似せて「梨花一枝、春雨をおびたり」などと言うのは、普通(の意味)ではないと思うと、やはり、梨の花は・たいそう愛でたいことは、他に類はないだろうと思える。
言の戯れと言の心
「梨…木の花…男花…おとこ花」「なし…梨…無し」「梨花…唐では異なって、限りなきもの…おとこの匂い」。
白楽天の詩句、「玉容寂寞涙闌干、梨花一枝春帯雨」
(玉の容姿寂寞として、涙あふれ、かれ、梨花一枝、春雨をおびている……楊貴妃の綺麗なお顔、寂しげ、涙あふれ尽き、梨花のひとえだ、春のお雨の匂いおびている)。
「枝…身の枝」「春…季節の春…春情」「雨…男雨…おとこ雨」。
桐の木の花、紫に咲いたのはやはり趣があって、葉のひろごりざま(葉の広がり様…端の大きくなりざま)だけが、いやで、もうたくさんという感じだけれど、他の木らと等しく言うべきではない。
唐でたいそうな名が付いた鳥(鳳凰…気高いひと)が、選んでこれにだけ居るらしいがどうしてでしょう。いみじう心こと也(甚だ言の心が異なる)、まして琴に作って、さまざまな、ね(音…声)が出て来るのなどは、「おかし」などとごく普通にいうべきかどうか、とっても愛でたいことよ。
言の戯れと言の心
「葉…端…身の端」「鳥…女」。
木のさまは快くない感じだけれど、あふち(楝…合うち)の花とってもおかしい。かれがれに、さまことに咲きて、かならず五月五日にあふも、おかし(離ればなれに異様に咲いて、必ず五月五日に間に合うのもおかしい…むらむらに異様にさいて、必ず、さ尽き出づかにぴったり合うのもご立派)。
言の戯れと言の心
「あふちの木…五月ごろ小花がむらむらと咲く木…男木」「さつきいつか…五月五日…さ突き出づか」「あふ…逢う…合う…和合す」「ち…接尾語…方向、所をあらわす」。
紀貫之は古今和歌集仮名序の結びで、「歌の様を知り、言の心を得たらむ人は、大空の月を見るが如くに、いにしへを仰ぎて、今を恋ざらめかも」と述べた。
歌のみならず、枕草子も同じ言の心を心得えて読めば、仰ぎ見る如くとは言わないけれど、おかしさがわかり、恋しくならないでしょうか。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人しらず (2015・8月、改定しました)
枕草子の原文は、新 日本古典文学大系 岩波書店 枕草子による