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帯とけの枕草子〔三十五〕池は
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
清少納言 枕草子〔三十五〕池は
池は、かつまたの池(池は勝間田の池…逝けは且つ又の逝け)、いはれの池(磐余池…言われの逝け)。
にゑのの池(贄野の池…捧げ物の逝け)、初瀬(長谷寺)に詣でたときに、水鳥(贄)が隙間なく居てたち騒いでいるのが、とっても趣味深く見えたのである。
言の戯れと心得るべき言の心
「勝間田…且つ又…なおも再び」「いはれ…磐余…言われ…命令…死を命じられた大津皇子の御歌を思うでしょう」「いけ…池…逝け…感情の死…山ばから堕ちたところ…死」「水…女」「鳥…女」。
万葉集 巻第三 挽歌、死を被りし時、涕ながらに作られし御歌
百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ
(……伝えられし言われの逝けに、泣く女たちよ、今日のみ、京を見てや、雲隠れるぞ)。
「鴨…鳥…女」「今日…京…山ばの絶頂」「見…覯…媾」「雲…煩わしくも心に湧き立つものすべて」「隠る…死ぬ」。
水なしの池(水無しの池…見なしの逝け)こそ、あやしくて、何でそんな名を付けたのだろうと問うたところ、「五月などに、まとまって雨が多く降ろうとする年は、この池に水というものが無くなる。また、ひどく照るであろう年は春の初めに水が多く出る・故に、水なし、見なしのいけ」と言ったので、「むげになく、かはきてあらばこそ、さもいはめ、出る折もあるを、一すじにもつけけるかな(水がやたら無くて乾いてあらばこそ、言うべきなのに、水出るときもあるものを、一筋に、水無しと見なして・名を付けたものねえ……見が無くて干からびていればそう言うべきなのに、潤うときもあるものを、一筋に、見無しなんて・名付けたものね)」と言いたくなったのだ。
言の戯れと心得るべき言の心
「水なし…水無し…看做し…見無し…まぐあいなし」「水…女」「見…覯…媾」。
猿沢の池は、采女が身投げしたのをお聞きになられて行幸などあったというのは、たいそう愛でたいことよ。「寝くたれ髪を」と人麿が詠んだことなど思うけれど、言うのは愚かである(歌の心を普通の言葉で言うことはできない)。
言の戯れと心得るべき言の心
拾遺集及び大和物語に人麿作と伝える歌
わぎもこの寝くたれ髪を猿沢の 池の玉藻と見るぞかなしき
(我が愛しい女の寝みだれ髪を猿沢の池の玉藻として見るのは悲しい……わが女の寝くたれ髪を、さるそのような逝けの玉藻として見るぞ、愛しくせつない)。
「玉…美称」「藻…水草…女」「池…女…逝け…死」「見…覯…媾」「かなしき…悲しいことよ…愛しいことよ…情愛を感じせつないことよ」。
采女の池での自死を、帝の御心に成り代わってお詠みした歌。かなしみが「姿清げ」に表現されて「心におかしきところ」が添えてある。
おまへの池、又なにの心にて(御前の池は、また何の意味で)名付けたのだろうと知りたくなる。かがみの池(鏡の池…彼が身の逝け)。
さ山の池は、「みくり」という歌のおかしさを思い出すでしょう。こひぬまの池(こい沼の池…恋ぬ間の逝け)。はらの池は、「玉藻な刈りそ」といったのも、おかしく思える。
言の戯れと心得るべき言の心
「おまえ…御前…お前…男の前のもの」「かがみ…鏡…彼が身…お前」。
歌「恋すてふさやまのいけのみくりこそ引けば絶えすれ我やね絶ゆる」(恋するというさやまの池のみくり草こそ、引けば絶える、我は根絶えるか……乞いするというさ山ばの逝けの三繰り返し草こそ、ひきうければ絶える、我は根絶えるよ)」「草…女」「引く…採る…摘む…めとる」「ね…音…声…根…おとこ」「や…疑問…感嘆」。
歌「をしたかべ鴨さえ来ゐるはらのいけのや、玉藻は真根な刈りそや、おひもつぐがにや」(……おしたかべ、女あまたきている、原(山ば無し)の逝けなのかや、玉藻(女たち)は真根(おとこを)刈るなや、おひ(感の極み)も尽くほどにはよ」。「真根…間根…おとこ」「刈…伐採…折る…まぐあう」「おひ…生い…追い(ことの極み)…老い(生涯の極み)…感の極み」「つくがに…尽くほどに」「がに…程度を表わす」。
言葉は聞き耳により意味が異なるほどのもの。その戯れは理屈では捉えられない。言葉の意味は諸々の縁により縁起しているのみ。使用例に倣い慣れて、そうと心得るしかない。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人しらず (2015・8月、改定しました)
枕草子の原文は、新 日本古典文学大系 岩波書店 枕草子による