帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔五十七〕よきいへ

2011-04-29 00:13:21 | 古典

 



                       帯とけの枕草子〔五十七〕よきいへ

 

 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言 枕草子〔五十七〕よきいへ

 

よきいへ、中門あけて、びろうげの車しろくきよげなるに、すはうのしたすだれ、にほひいときよらにて、しちに打ちかけたるこそめでたけれ。

五位六位などの、したがさねのしりはさみて、さくのいとしろきに、あふぎうちおきなど、いきちがひ、又、さうぞくし、つぼやなぐいおひたるずいじんの出入したる、いとつきづきし。

くりや女のきよげなるがさし出て、何がしどのの人やさぶらふなどいふもおかし。

 

 文の清げな姿

良き家、中門開けて、檳榔毛の車の白く清げなうえに、蘇枋色の下簾が色艶とっても清らかで、ながえを台にうち掛けてあるのこそ、愛でたいことよ。

五位、六位の男どもが下襲の裾を帯に挟んで、笏のとっても白いのに、扇をちっと添えて、行き交っていて、または、装束して、矢を入れる籠壷を背負っている隨身(警護武士)が出入りしている、とっても相応しい。

 厨房の女の清げなのがさし出て、「なにがしどのゝ人やさぶらふ(某殿の人がですね、参上しておられます)」と言っているのも趣がある。

 

心におかしきところ

よき井へ、中の門ひらいて、上等な物、白く清げでないのに、蘇枋色の下すたれ色艶まったく清らかでないうてなに、うちかけているのは、愛でたいことよ。

五寝、六射の、下重ねの果てをはさんで咲くものの、とっても白いのに、合う氣を添えて、行き交い、またふたたび、いでたちして、つわものの付随の物が出入りしている、とっても突きづきしい。

 めも眩むや、女の清げでないのがさし出て、「どの殿の人のご奉仕かしら」と言っているのも、おかしい。

 

言の多様な戯れを受け入れ、紀貫之のいう「言の心」を心得ましょう

「いへ…家…井へ…女」「門…と…女」「びろうげの…びらうげの…檳榔毛の…貴人の…高級な…上等の」「車…しゃ…者…もの…おとこ」「しろ…純白…白…男の色」「きよら…清ら…清浄でけがれがない…反語と聞いて・穢れている綺麗などとはいえない」「すはう…蘇枋…黒みがかった濃い赤色…貝の色はすはう(土佐日記二月一日)…女の色」「下簾…下すだれ…下す…女」「しぢ…車の轅の台…長柄(おとこ)の台(女)」「台…うてな…女」「あふき…扇…合う気」「五位六位…おとこども…五寝六寝…五射六射」「くりや…厨房…眩りや」「くり…くる…眩る…目が眩む」「女…め」「との…殿…立派な邸宅」「人や…人がですねえ…人なのかしら」「や…感嘆詠嘆の意を表す…疑問の意を表す」「さぶらふ…参上している…ご奉仕している」。

 

 よき家に、貴人用の高級牛車で殿と呼ぶべき訪問客があった。その様子の描写と見えるのは文の清げな姿。

「心におかしきところ」がわかれば、おとなの女のための、あだ(婀娜・徒)な文芸であることがわかる。紫式部の清少納言批判は「艶で、あだになってしまった人の(文芸の)果て、どうして良いでありましょうか」で、正に正確な批判である。

道長に追い詰められた後宮の女房としてできることは、先ず、曇り暮らす女たちの心の憂さを晴らすことである。その動機には適っているでしょう。


 

伝授 清原のおうな

聞書  かき人しらず  (2015・8月、改定しました)

 

枕草子の原文は、新日本古典文学大系 枕草子 (岩波書店)による