帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔四十六〕職の御曹司 その二

2011-04-17 00:16:18 | 古典

   



                                帯とけの枕草子〔四十六〕職の御曹司 その二 



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言 枕草子〔四十六〕職の御曹司 その二

 
 そのころ・三月末は、冬の直衣が着にくいのだろうか、袍だけでの殿上の宿直姿もある。朝、日がさし入るまで、式部のおもとと小廂の間に寝ていた時に、奥の遣戸をお開けになられて、主上と宮、お出ましになられると、起きることもできずとまどうのを、いみじくわらはせ給(たいそうお笑いになられる)。私どもは・唐衣をただ汗衫の上にさっと着ていて、宿直用のものも何もかも埋もれ重なってある上にいらっしゃって、警護の詰所より出入りの者どもをご覧になられる。殿上人がつゆ知らず寄って来てもの言う者もいるが、「けしきな見せそ(居る気配を見せるな)」と、わらはせ給(お笑いになられる)。そしてお発ちになられる。「ふたりながら、いざ(二人とも共に、さあ)」と仰せになられるけれど、「いま、顔など繕いたてましてですね」と参上しない。

奥にお入りになられて後もなお、めでたきことどもなど(愛でたかったことなど)を式部のおもとと話し合っている。


 南の遣戸のそばの几帳の横木の差し出たところに引っ掛かって、簾が少し空いたところより、黒っぽいものが見えたので、則隆(義弟、蔵人)が居るのだろうと、見もせずに、なお他の話などをしていたところ、満面笑みの顔がさし出たのも、なおも、則隆だろうと見ると、そうではない顔である。あさましとわらひさわぎて(驚きあきれて笑い騒いで)、几帳を引き直し隠れると、頭の弁(行成)がいらっしゃったのだった。お見せしないとしていたものをなさけない。一緒に居る人は、こちらを向いて居るので顔は見えない。出て来て、行成「すっかり余すとこなく見てしまったかな」と言われるので、「則隆と思っていましたので、あなどってしまって。なんで、見ないといっておられたのに、そんなにつくづくと」というと、「女は寝起き顔がですね、見難いものだというので、ある人の局に行ってかいま見て、また他にも見えはしないかと来たのです。まだ主上がいらっしゃった折りから居たのを知らなかったのだなあ」といって、それより後は、つぼねのすだれうちかづきなどし給めりき(局の簾を被きなどして来られるようになった…つぼねのすもぐってこられるようになった)。


 言の戯れと言の心

「めでたきことどもなど…愛でたき御様子…人々のとり繕った様子ではない有りのままの姿をご覧になられようとされること」「つぼねのすだれうちかづきなど…局の簾うち被きなど…つぼねのすうち潜りなど」「つぼね…局…女」「すだれ…簾…す(洲)…すしあわび(土佐日記)のす…女」「うち…接頭語」「かづき…被き…潜り…か突き」「し給めりき…なさったようだった…婉曲な表現ながら、合う身となったということ、行成は六歳ばかり年下」。

 


 藤原行成(972~1027)は、故太政大臣藤原伊尹(兼家の兄)の孫、「小白河という所の八講」に登場した中納言義懐(道隆の従兄弟)の甥にあたる。兼家道隆親子の策謀とおぼしき花山天皇と義懐の出家に、当時十四、五歳だった行成は男の夢も露と消えたことでしょう。
行成は、その悲哀を乗り越えてきた人。

 
 

伝授 清原のおうな

聞書  かき人しらず   (2015・8月、改定しました)


  枕草子の原文は、新 日本古典文学大系 枕草子(岩波書店)にろる