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帯とけの枕草子〔三十八〕とりは その二
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
清少納言 枕草子〔三十八〕とりは その二
鴬は、文(詩)などにも愛でたいものに作り、声をはじめ様子や姿もあれほど高貴で美しいわりには、九重のうちになかぬぞいとわろき(宮中で鳴かないのはまったよくない…九つ重ねの内に泣かないのはよくない)。人が「さなんある(そうなのよ)」と言ったのを、そうでもないと思っていたが、十年ばかり参上させてもらって聞いても、まことにやはり、その・声はしなかった。それでも、竹に近い紅梅もあり、鶯の通う処のはずである。九重を退出して聞けば、あやしい家の見所もない梅の木(男木)などには、姦しいほど来て鳴いている。夜鳴かないのは、いぎたなき(意汚き…寝汚き)心地するけれど、今さらどうしようもない。
夏、秋の末まで、おいごゑ(老い声…感極まった声)に鳴いて、「虫くひ」などと、ようもあらぬ物(無用の物)は名を付け替えて言われるのだ。くちをしくすごき心ちする(くやしくてものさびしい心地がする)。それも、ただ雀などのように常にある鳥ならば、そうは思わないでしょう。鴬は春なくからだろうに。年たちかへる(年立ち返る…すぐ立ち返る)など、おもしろいことに、歌にも文にも作るのは、やはり春の内(に鳴くからで)、でなければ、いかにおかしからまし(どうして鶯に趣があるでしょうか)。人の場合でも、人らしくなく世間の評価が侮りやすい者になり初めれば、他人は・謗ったりするでしょう。とび(鳶)・からす(烏)などの身の上は見入ったり聞き入ったりする人は世にいないのだ。だから鴬はたいそうなものとなったと思うのに、心ゆかぬ心ちする也(いつまでも鳴いているのは納得できない心地がする……いつまでも泣き暮すのは心晴れない気がするのである)。
祭のかへさ(賀茂祭りの斎宮ご帰還)を見物するということで、雲林院・知足院などの前(斎宮のある紫野)に車を停めたところ、郭公(ほととぎす…且つ乞う)は忍ぶことはないのか、鳴く(泣く)ので、老い鶯が・とってもよく真似してみせて、小高い木々の中で諸共に鳴いているのよ(且つ恋う、且つ乞うと)、さすがにおかしけれ(さすがにおかしいかったことよ)。
言の戯れと言の心
「おい…老い…追い…感の極み」「鳴く…泣く」「うぐひす…春告げ鳥…情の春を告げる女…名は戯れる、憂く秘す、浮く泌す」「鳥…言の心は女」。
鶯の歌は、藤原公任撰「和漢朗詠集」より、素性法師の歌の「清げな姿」と「心におかしきところ」を聞きましょう。「心深き」ところを感じ取りましょう。
あらたまのとしたちかへるあしたより またるゝものはうぐひすのこゑ
(あらたまの年たち返る元旦の朝方より、待たれるものは春に鳴く鶯の声……新たまの疾しの立ち返る朝方より、待たれるものは、夜の浮くひすの声)。
「たま…玉…魂…二つある玉」「とし…年…疾し…早い…一瞬の快楽」。
文(詩)にも鶯は愛でたいものに作られてある。同じく「和漢朗詠集」より、詩句の「清げな姿」と「心におかしきところ」を聞きましょう。
鶯声誘引来花下 草色拘留座水辺
(鶯の声に誘引されて花の下に来る、草の色に拘留されて水辺に座す……浮くひすの声に誘われ引きつけられてお花ちり下る、女の色香のとりこになって、をみなのそばに座す)。「言の心」はほぼ同じ。
「花…木の花…男花」「草…女」「色…色彩…色香…色情」「水…女」。
郭公は、なおさら言いようがない。いつだったか、得意顔で鳴いているように聞こえているのに、うの花、はなたちばな(卯の花、花橘…白い花、はな立ち花)に宿りをして、なんとまあその陰に隠れているのも、ねたげなる心ばえなり(しゃくにさわる心の有様である…妬ましいような心のありさまである)。
五月雨(さみだれ)の短夜に寝覚めして、なんとか人より先に、初声・聞こうと待っていて、夜深く鳴き(泣き)だした声が(且つ恋う且つ乞うと)もの慣れて巧みで魅力がある。いみじう心あくがれせんかたなし(たいそう心ひきつけられて、どうしようもない)。六月(晩夏…みなづき…見無尽き)になったなら、音もせずなってしまった、すべていふもおろか也(こんなことすべて言うのも愚かである)。夜鳴く(泣く)もの、何もかも愛でたい、乳児だけはそうでもない。
言の戯れと言の心
「郭公…ほととぎす…夏にカッコウと鳴く鳥のこと、名は戯れる。且つ恋う、且つ乞う、ほと伽す」「鳥…女」「鳴く…鳥が鳴く…泣く…悲しみ苦しみに泣く…喜びに泣く…且つ乞うと泣く」。
紀貫之は、「ことの心を得たらむ人は、大空の月を見るが如くに」古今集の歌を「仰ぎて」恋しくなるであろうと述べた。「ことの心」は、先ず「言の心」である。それを心得た人びとの間では、字義以外の意味でも繰り返し用いられている。ここに述べてきた春、夏、秋、冬、山、――、池、節、木、鳥等々の戯れの意味のすべてが、それぞれの「言の心」である。「事の心」と聞いて、それはおとなとなって心得る事の情のこと。
「言の心」「事の情」を兼ねて心得れば、歌も文も紐解けるでしょう。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人しらず (2015・8月、改定しました)
枕草子の原文は、新 日本古典文学大系 岩波書店 枕草子による