空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

善きカルマを積む

2011-03-17 20:54:18 | 日記・エッセイ・コラム

 ダライ・ラマ法王は、菅首相あての手紙で、今回の地震・津波の犠牲者に対して哀悼の意を表明するとともに、自分が日常唱えている般若心経を、日本の仏教徒が唱えることは、犠牲となった方がたの助けとなり、さらなる災害を防ぐ助けになると述べられている。

 仏教では、人間の行動や意識がカルマ(業=ごう)となり、それが因となって次の結果をもたらすという、因果の法の考えがある。

 仏教的に考えれば、これまでのあらゆる宇宙的な働きや、人間の思考・行動が、時間的、空間的に複雑に影響し合って、今回のような結果をもたらしたと言える。

 一人の人間が何か悪い状況に陥った時に、「因果応報」と言ったりするが、仏教の因果の法は、一つの因が一つの結果をもたらしたり、一人の人間の行動がその人間の未来を決めるというような、単純なものではない。一人の業が、その人だけに影響するわけでもない。

 従って、被害に遭われた方がたの業が、今回の災害をもたらしたというのでは絶対ない。

 どこかの首長が、天罰という表現をして、後から謝っていたけれども、仏教には、天罰という考え方はない。

 人の暮らし方、原発を含めた社会の在り方、地理的、歴史的な条件すべてが、複雑に絡み合って、今回の災害へと収斂していった。 

 私たち一人一人の考え方、行動の仕方も、その因の一つになっている。

 業には、身(しん)=身体的行動、口(く)=言語、意=意識、すべてが含まれる。

 殺人や盗みなどの悪い行いはもちろんこと、言葉で人をののしったり、うそをついたり、美辞麗句を並べたりすることも、悪しき業である。

 心の中で、自分だけの利益を考えたり、人を憎んだり、人を貶めることばかりを思ったりすることも、悪しき業を積むことになる。

 何でもお金に換算して考え、人を踏みつけて自分の幸せだけを追求したり、飽くなき欲望を満足させるような生き方をしたり、そういう人間の生き方を煽るような社会・経済の仕組みを作ったり、人間だけが自然の恵みを独占して、ほかの生物の絶滅を招いたり……。

 「この世の現象は、絶対的なものは何一つない、因果の法が幾重にも働いて、一瞬たりとも同じ形、同じ所にとどまることがない、空である。空であるものに執着することが、苦を生み出している。すべてが空であることを認識して、苦のない悟りの世界に至るように修行しなさい」、ということを簡潔に説いているのが、般若心経というお経だ。

 ダライ・ラマ法王が、般若心経を唱えることは、犠牲となられた方がたや、さらなる災害を防ぐための助けとなると言われたのは、般若心経を唱えることで因果の法に思いをめぐらせ、善き結果をもたらす生き方を模索するきっかけとしなさい、というふうに解釈できると思う。

 具体的には、一人一人が、善きカルマを積むように、日々努力することだ。

 怒らない、罵倒する代わりに微笑みを返す。

 ないものを数え上げて嘆く代わりに、今あるものに感謝する。

 人のせいにしないで、自分でできることは自分でする。

 目の前にいる人ばかりでなく、遠くで苦しんでいる人に思いをはせ、その苦しみを分かち合い、楽しいこと、うれしいことも分かち合う。

 自らの命の危険も顧みず、多くの人々の命、安全を守るために、不眠不休で働いている人々のことを忘れない。

 その人たちの家族にも思いを巡らす。

 何か文句を言いたいことがあっても、その立場に自分が立ったら、うまくできるかどうか、考える。だから、これからは、東電や原子力保安院の人を、いい加減だとなじることはやめる。

 今日、実家に帰る電車に、募金箱を胸に下げた数人の人たちが、途中の駅から乗り込んできた。障害のある人と、その人を助ける人たちで、駅前で、今回の被災者のための募金をしていたようだ。

 電車の中でも、募金箱にお金を入れようと立ち上がる人がいた。私もつられて立ち上がり、わずかなお金を募金箱に入れた。

 いろんな場所で、いろんな人が、募金活動をしている姿を見た。

 みんなが、自分の暮らす場所で、善きカルマを積み上げれば、今の苦難は、きっと良い方向へ動くだろう。

 昨晩から、私も、般若心経を50回、唱えている。100回のつもりだったが、一度に100回は大変だということが、実行してみて分かった。

 毎日、般若心経を50回唱え、善きカルマを積むことを実践していこうと思っている。