空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

テンペスト

2011-06-20 21:35:49 | 映画

 ジュリー・テイモア監督の「テンペスト」を見た。

 10年ぐらい前に、ジュリー・テイモア監督の「タイタス」を見て、彼女の演出の才能に魅かれた。ミュージカル「ライオンキング」で、文楽やインドネシアの仮面劇にヒントを得て、あの有名な動物の衣装というか装置を考えた演出家である。

 「テンペスト」も「タイタス」もシェイクスピア劇だ。シェイクスピア劇のすばらしさは、能、文楽、歌舞伎など日本の伝統演劇と同様、人間の典型と普遍性を描いている点だ。古めかしく、型にはまったセリフやストーりーの中に、どの時代、どの世界にも通じる人間の有り様が見えてくる。

 昔のシェイクスピア劇を映画化した作品、たとえばイギリスの名優、ローレンス・オリビエの「ハムレット」や「オセロ」、エリザベス・テイラー、リチャード・バートンの「じゃじゃ馬ならし」などは、舞台をそのまま映画化したような内容だったが、「タイタス」は、反吐が出るような残酷劇であるにもかかわらず、重厚で美しい映像表現に感動した覚えがある。

 「テンペスト」は、ジュリー・テイモア監督のシェイクスピア劇であり、主演が、これも私が好きなヘレン・ミレンだから、ずっと前から上映を楽しみにしていた映画だ。

 ヘレン・ミレンという女優を初めて見たのは、NHK-BSで放映されていた「第一容疑者」というイギリスのテレビ・ドラマ。もう若くはない女性刑事を演じていて、男社会で生きていく生身の女の生活感が何とも言えずよかった。とても好きなドラマだった。

 ちなみに、イギリスのテレビドラマは、シリアスドラマでも、コメディーでも、あちこちに皮肉や、屈折したユーモアがちりばめられていて、気に入っている。

 ヘレン・ミレンはその後、テレビでエリザベス1世、映画でエリザベス2世を演じ、いろいろな賞を総なめにしている。

 「テンペスト」は、原作では、主人公がミラノ大公プロスペローという男なのだが、ヘレン・ミレンも、ジュリー・テイモア監督も、女性を主人公にしてやりたいと同時に思っていて、それがこの映画化につながったという。

 ヘレン・ミレンの演じる女性は、「第一容疑者」の女性刑事でも、エリザベス女王でも、「テンペスト」のプロスペラでも、生身の女性の体温が感じられる。だから、見ている者は、ヘレン・ミレン演じる女性の痛みや悲しみ、怒りを共有することができる。

 「テンペスト」の主人公を女に変え、それをヘレン・ミレンが演じたことは、この映画を成功させた大きな要素になっていると思う。

 「テンペスト」も、「タイタス」と同様復讐劇だが、「タイタス」の主人公は、アンソニー・ホプキンス演じるタイタス・アンドロニカス将軍で、徹底的な復讐があらゆる者の命を奪い、何も生み出さない悲劇で終わっている。いわば、不寛容な男性原理のもたらす悲劇である。

 「テンペスト」は、シェイクスピアの最後の作品で、復讐劇ではあるけれども、最後は許しで終わる。主人公を女にしたことによって、それもヘレン・ミレンが演じることによって、復讐劇も、娘を見守る母親としての愛情も、最後に許すことを選ぶプロスペラの寛容も、自然に納得がいく。女性原理は、時には世界を滅ぼしもするが、一方で豊かなものを生み出す大地でもあるからだ。

 ジュリー・テイモアの演出は、今回もすばらしいものだった。

 プロスペラが幼い娘を抱いてたどり着いた島の先住民・怪物キャリバンを、西アフリカ・ペニン出身の黒人俳優ジャイモン・フンスーが演じている。キャリバンが登場したとたんに、観客は、彼が黒人であり、後から島にやってきてキャリバンを征服し酷使するプロスペラが白人であることを認識しないわけにはいかない。

 自由の身にしてやるという約束のために、プロスペラの手足となって変幻自在に飛び回る妖精エアリエルは、映画ならではの描き方がされていて、とても美しかった。もう一人の主人公と言えるかもしれない。

 許すことを選択したプロスペラは、洞窟の宮殿に築き上げた研究装置を壊し、最後に魔法の本と杖を海に投げ入れる。魔法の本が海の底へ沈んでいく映像とともに歌のようなプロスペラのセリフが流れる。

 セリフの言葉をはっきりとは覚えていないけれども、わたしには今の世界、とりわけ、東北大震災と福島原発事故を体験した日本へのメッセージのように思えた。

 「怒り狂った大地と海の神よ、どうか怒りを鎮めたまえ。原子という火を盗んで、傲慢にもコントロールしようとした人間の愚かさを許したまえ。そして、自然と人間、人と人が、支配し、支配されることをやめ、すべてが調和のとれた、平和な世界にもどれますように」という祈りの言葉に聞こえた。