内田樹さんの『「おじさん」的思考』を読んでみた。
内田樹さんは、武道家であり、神戸女学院大学の名誉教授。
この本はエッセイだが、「どんなことを書いておられるのだろう…」と思ったので読んでみた。
その中の一文…。
『極論すれば、大学教師であるためには「バカであること」は障害にならないのである。「バカであることを恥じている」だけで十分なのである。なぜなら、学びの場を駆動しているのは、「知そのもの」ではなく「知への愛」だからである。』
…この一文、「学ぶ」ってことを、どうとらえて考えるかを“面白く”表現した文章だと思った。
「学ぶ」ことは、知識を得ることだけではない。
「覚える」ことも学びだが、「考える」ことも学びだ。
得た知識を、自分なりに醗酵させて、その知識を得たことで、どういう考えを持つかと熟考したり、応用できるようになることも、大切な学び…だと思う。
授業や講習を受けた後、“レポート提出”が有ったりするが、あの“レポート書き”は、知識の整理や、知識の醗酵のため…ではないだろうか?
茂木健一郎さんは、脳の仕組みにおいても、「創造することは思い出すことに似ている」と書いておられた。
この言葉は、創造するにも、知識は必要。
その“下積み”が有ってこそ、創造もできると言う事だと思うが…。
でも、その創造に結び付く知識を学ぶにも、ただ単に(知識を)詰め込むだけでは、“身動き”し辛くなる。
自分なりに考えてみるとか、考える“スペースが無い”ようであれば、学びの場は駆動しない。
だから、内田樹さんの、この言葉は…、
学びの場は、知識を詰め込む場だけではない。
得た知識から、自律的に物事を考えてみようとすれば、“知”を追いかけるようになり、要は、“知”を愛するようになる。
それが、「知への愛」となり、学びの場を駆動して行く。
教える側の「バカは障害にはならない」と言うのは、“博識ぶって”、自分の持っている知識を、これでもかと言わんばかりに押し付けてしまうよりは、学ぶ側に「知への愛」を芽生えさせようとする方が、学びの場は駆動する。
そのためには、教える側にも「知への愛」を追いかける気持ち、面白く言えば「バカでいることを恥じている」気持ちが必要だ…と言うことではないだろうか…と、私は、そう解釈した。
『「おじさん」的思考』は、内田樹さんの思考が面白いと感じられた本でした…(^^)
内田樹さんは、武道家であり、神戸女学院大学の名誉教授。
この本はエッセイだが、「どんなことを書いておられるのだろう…」と思ったので読んでみた。
その中の一文…。
『極論すれば、大学教師であるためには「バカであること」は障害にならないのである。「バカであることを恥じている」だけで十分なのである。なぜなら、学びの場を駆動しているのは、「知そのもの」ではなく「知への愛」だからである。』
…この一文、「学ぶ」ってことを、どうとらえて考えるかを“面白く”表現した文章だと思った。
「学ぶ」ことは、知識を得ることだけではない。
「覚える」ことも学びだが、「考える」ことも学びだ。
得た知識を、自分なりに醗酵させて、その知識を得たことで、どういう考えを持つかと熟考したり、応用できるようになることも、大切な学び…だと思う。
授業や講習を受けた後、“レポート提出”が有ったりするが、あの“レポート書き”は、知識の整理や、知識の醗酵のため…ではないだろうか?
茂木健一郎さんは、脳の仕組みにおいても、「創造することは思い出すことに似ている」と書いておられた。
この言葉は、創造するにも、知識は必要。
その“下積み”が有ってこそ、創造もできると言う事だと思うが…。
でも、その創造に結び付く知識を学ぶにも、ただ単に(知識を)詰め込むだけでは、“身動き”し辛くなる。
自分なりに考えてみるとか、考える“スペースが無い”ようであれば、学びの場は駆動しない。
だから、内田樹さんの、この言葉は…、
学びの場は、知識を詰め込む場だけではない。
得た知識から、自律的に物事を考えてみようとすれば、“知”を追いかけるようになり、要は、“知”を愛するようになる。
それが、「知への愛」となり、学びの場を駆動して行く。
教える側の「バカは障害にはならない」と言うのは、“博識ぶって”、自分の持っている知識を、これでもかと言わんばかりに押し付けてしまうよりは、学ぶ側に「知への愛」を芽生えさせようとする方が、学びの場は駆動する。
そのためには、教える側にも「知への愛」を追いかける気持ち、面白く言えば「バカでいることを恥じている」気持ちが必要だ…と言うことではないだろうか…と、私は、そう解釈した。
『「おじさん」的思考』は、内田樹さんの思考が面白いと感じられた本でした…(^^)