内田樹さんの本を読んで、「良いな…」「同感だな…」と思った文章を、書いておきたいと思います。
いくつか有るので、少しずつ…(笑)
『人は夢と現実を同時に生きなければなりません。この“さじ加減”がとても難しいのです。
…自分の可能性を最大化するためには、自分の可能性には限界があるということを知っておく必要があります。
自分の可能性を伸ばすためには、自分の可能性を「たいせつにする」ことが必要です。
…それは愛情と同じです。
愛情をずいぶん乱暴にこき使う人がいます。相手がどれだけ自分のことをどれほど愛しているのか知ろうとして、愛情を「試す」人がいます。無理難題をふきかけたり、傷つけたり、裏切ったり……さまざまな「試練」を愛情に与えて、それでも生き延びたら、それが「ほんとうの愛情」だ、というようなことを考える。
でも、これは間違っていますよ。愛情は「試す」ものではありません。「育てる」ものです。
きちんと水をやって日に当てて肥料を与えて、じっくり育てるものです。
…ぼくたちの可能性を殺すものがいるとすれば、それはほかの誰でもありません。その可能性にあまりに多くの期待を寄せるぼくたち自身なのです。』
自分の可能性を信じることは大切なこと。
だけど、自分の可能性は無限に有るのではなくて、知性的な、あるいは身体的面での限界は有ると知っておく必要もある。
私は、「夢はあきらめなければ必ず叶う」という言葉が、好きでもあり、嫌いでもある。
どんなに夢を追いかけたって、叶わないことも有るのが夢だと、それこそ、大人なら、誰でも知っていることじゃないか…って思う。
可能性を追いかけるのも、同じこと。
「自分の可能性は無限に有るはず」なんて思い過ぎると、「ここじゃない、もっと違うところ」に目が向き、「今の自分が置かれている状況や環境に納得できない、幸せを感じられない」と言う状態に陥りかねない。
人間は、どんなに躍起になっても、日々、少しずつしか成長しません。
時間的、体力的な面での限界も有ります。
だから、少しずつの成長を積み重ね、自分を大切に育てて行こうとする気持ちが有って、ようやく、自分の可能性の芽も少しずつ育つ。
自分自身に目を向けて、自分が育って行けるであろう方向を探して、成長して行こうとするから、可能性の芽が育つ。
なのに、自分には、もっとたくさんの可能性が有るはずだと思って、それを引き出そうとして躍起になり過ぎると(内田先生風に表現すれば…「1ランク上」の自分に取り憑かれてしまうと)、不充足感にさいなまれ、ストレスフルになって、自分自身のことを嫌いになりやしませんか?って思う。
「夢は必ず叶うもの」と信じて邁進するのは良いけれど、前のめりになって、つんのめり、挙句の果てに、自分自身の心のコントロールさえできなくなるのは、自分自身に期待し過ぎるからです。
これって、傍から見れば恵まれているのに、本人は、全くそれに気づけていない心理状態と同じ。
幸せは、すぐ隣に有るのに、気づけなければ、幸せになれないのと同じ。
『青い鳥』の話じゃないですが、幸せは探しに行くものではなく、気づくものです。
「可能性」も、それと同じじゃないでしょうか?
内田さんの書いておられる通り、愛情を、ていねいに慈しみながら育てるのと同じように、可能性も、結果や成果だけにとらわれず、大切に育てると言う意識が必要…だと私も思います。
…慌てることはない。ゆっくり、じっくり、成長して行けばいい…。
いくつか有るので、少しずつ…(笑)
『人は夢と現実を同時に生きなければなりません。この“さじ加減”がとても難しいのです。
…自分の可能性を最大化するためには、自分の可能性には限界があるということを知っておく必要があります。
自分の可能性を伸ばすためには、自分の可能性を「たいせつにする」ことが必要です。
…それは愛情と同じです。
愛情をずいぶん乱暴にこき使う人がいます。相手がどれだけ自分のことをどれほど愛しているのか知ろうとして、愛情を「試す」人がいます。無理難題をふきかけたり、傷つけたり、裏切ったり……さまざまな「試練」を愛情に与えて、それでも生き延びたら、それが「ほんとうの愛情」だ、というようなことを考える。
でも、これは間違っていますよ。愛情は「試す」ものではありません。「育てる」ものです。
きちんと水をやって日に当てて肥料を与えて、じっくり育てるものです。
…ぼくたちの可能性を殺すものがいるとすれば、それはほかの誰でもありません。その可能性にあまりに多くの期待を寄せるぼくたち自身なのです。』
自分の可能性を信じることは大切なこと。
だけど、自分の可能性は無限に有るのではなくて、知性的な、あるいは身体的面での限界は有ると知っておく必要もある。
私は、「夢はあきらめなければ必ず叶う」という言葉が、好きでもあり、嫌いでもある。
どんなに夢を追いかけたって、叶わないことも有るのが夢だと、それこそ、大人なら、誰でも知っていることじゃないか…って思う。
可能性を追いかけるのも、同じこと。
「自分の可能性は無限に有るはず」なんて思い過ぎると、「ここじゃない、もっと違うところ」に目が向き、「今の自分が置かれている状況や環境に納得できない、幸せを感じられない」と言う状態に陥りかねない。
人間は、どんなに躍起になっても、日々、少しずつしか成長しません。
時間的、体力的な面での限界も有ります。
だから、少しずつの成長を積み重ね、自分を大切に育てて行こうとする気持ちが有って、ようやく、自分の可能性の芽も少しずつ育つ。
自分自身に目を向けて、自分が育って行けるであろう方向を探して、成長して行こうとするから、可能性の芽が育つ。
なのに、自分には、もっとたくさんの可能性が有るはずだと思って、それを引き出そうとして躍起になり過ぎると(内田先生風に表現すれば…「1ランク上」の自分に取り憑かれてしまうと)、不充足感にさいなまれ、ストレスフルになって、自分自身のことを嫌いになりやしませんか?って思う。
「夢は必ず叶うもの」と信じて邁進するのは良いけれど、前のめりになって、つんのめり、挙句の果てに、自分自身の心のコントロールさえできなくなるのは、自分自身に期待し過ぎるからです。
これって、傍から見れば恵まれているのに、本人は、全くそれに気づけていない心理状態と同じ。
幸せは、すぐ隣に有るのに、気づけなければ、幸せになれないのと同じ。
『青い鳥』の話じゃないですが、幸せは探しに行くものではなく、気づくものです。
「可能性」も、それと同じじゃないでしょうか?
内田さんの書いておられる通り、愛情を、ていねいに慈しみながら育てるのと同じように、可能性も、結果や成果だけにとらわれず、大切に育てると言う意識が必要…だと私も思います。
…慌てることはない。ゆっくり、じっくり、成長して行けばいい…。