戦前の皇居の中に気象測候所があったことは余り知られていない。
明治維新後の気象観測は、今のホテルオオクラがある場所(東京市赤坂区溜池葵町)で内務省・地理寮量地課気象掛によって行われていた。しかし、この土地は、西南戦争の論功行賞により大倉喜八郎に払い下げられた。大倉には、武器弾薬の調達に功があった。前述の通り、8,000坪の土地に喜八郎は、ホテル「大倉」を建てるのだ。
さて、気象掛は、紆余曲折を経て、皇居の中に移設された。場所は、まさに江戸城本丸、天守閣の土台があるところ。気象観測は実際に天守閣土台で行われていた。住所は、東京市麹町区代官町。当時は、皇居の中なのに住所が付されていた。
※当時の様子を知るには「東京トリップ」が参考となる。
この皇居にあった大学寮については、敗戦後、戦犯指定を恐れて3年間、女中と逃げ回った大谷敬二郎の「昭和憲兵史」から引用する。
「大正十年頃から皇居の旧本丸に、社会問題研究所というのがあった。小尾晴敏、安岡正篤が、宮内大臣牧野伸顕の後援で、地方青年に対し社会教育者としての訓練を目的として始めたものだが、大正十年春頃、大川周明が、この研究所の同人となると、名を大学寮と改め、世のデモクラシー風潮に対し日本主義を鼓吹し、牧野宮相、関屋宮内次官、荒木貞夫、渡辺錠太郎、秦真次ら諸将軍も参加し、また陸海軍の少壮将校も出入することになった。ことに西田税が軍事学の講師として在寮していたので、陸海軍青年将校、陸軍士官学校生徒も集まり、西田と青年将校、また陸軍と海軍との青年将校との結びつきができた。この意味で大学寮の存在は、わが国革新運動史上銘記せらるべきだろう。」(大谷敬二郎「昭和憲兵史」みすず書房、1966年、71ページ)
大川周明や北一輝の盟友 満川亀太郎の「三国干渉以後」からも引用する。満川は大学寮に寄宿していた当事者である。
「旧猶存社の同人が麹町区代官町なる大学寮に立て籠もったのは大正14年4月からであった。今までは小尾晴敏氏の経営に属し、一歩も教化運動の埒外に出なかった社会教育研究所は、明徳親民の国士養成機関として、新に我々同志の手に委せられた。八代海軍大将を顧問として、大川周明君は研究部長に、安岡正篤君は教育部長になった。上海からは村上徳太郎君、朝鮮からは中谷武世、西田税両君が迎えられた。民族問題とか国防学とかいふその当時には珍しい学科目が設けられた。また松延繁次君は労働問題を、柳瀬薫君は支那問題を、島野三郎君はロシア事情を講義した。沼波大人を始め、笠木良明、綾川武治、高村光次君等同士を合わせると、学生の数よりも常に多かったのである。」(満川亀太郎「三国干渉後」平凡社、論創叢書4、2004年、236ページ)
元憲兵司令官の大谷は社会問題研究所と書いているが、満川は社会教育研究所と書いている。満川が正しいだろう。満川は、日本の敗戦を知らない。「三国干渉以後」は1935年で平凡社発刊である。彼は1936年に脳溢血で死んだ。満川は続いてこう書いている。
「その前々学年の社会教育研究所時代から「国際事情」の講義を当てがわれていた私は、この年になって単身寮内に移転し、学生諸君と起伏を共にすることとなった。江戸城の名残を留めた天守閣あとに立って俯瞰すると、大学寮の建物は正方形であり、中庭に湛えた小池の周囲には、毛氈の苔蒸して学生の閑談するに適していた。名は代官町となっているが、お濠の中の一角であり・・・」(満川亀太郎「三国干渉後」平凡社、論創叢書4、2004年、237ページ)云々と。大学寮は正方形とは「東京トリップ」にある様子に合致している。
「顧問たる八代大将は縷縷来寮して、明治天皇御製の講演をされた。憲兵司令官たりし荒木貞夫少将もよく来訪された。寮生からは今内務省にその人ありと知らるる緋田工君や、熊本市に神風学寮を興して維新運動に従える井上寅雄君や、郷国石川県に潜熱せる金森喜与之君、武道特に杖術の熟達に、一新生面を開きつつある田島啓邦君等の人材がでたのである。
非常時日本の尖端を切りつつ、昭和7年2月5日上海爆撃に偉功を奏して戦死した藤井斎君、少尉候補生としての錨章短剣凛々しく来訪したのもこの頃であった。海軍兵学校生徒たりし古賀清志君もまた藤井君に伴われて来訪した。」(満川亀太郎「三国干渉後」平凡社、論創叢書4、2004年、238ページ)
2.26事件の蹶起から除外された青森第5連隊の末松太平(北九州出身)「私の昭和史」にも大学寮が登場する。
「西田税とのつきあいは、大学寮に彼を訪ねたときからである。
大正十四年の十月に、青森の五連隊での六ヶ月の隊付を終えると、私は士官学校本科に入校するため、また東京に舞戻ってきた。そのとき、まだ少尉だった大岸頼好が、東京に行ったらこんな人を訪ねてはどうか、と筆をとって巻紙のはしに、さらさらと書き流してくれた人名のなかに、西田税や北一輝があった。しかし、入校早々、すぐにも訪ねなければとまでは思っていなかった。が、入校後間もない土曜日の夕食後、青森で別れたばかりの亀居見習士官がひょっこり学校にやってきたのがきっかけで、まず西田税訪問が急に実現することになった。」(末松太平「私の昭和史(上)二.二六事件異聞」中公文庫、2013年、35ページから36ページ)
「訪ねた場所はそのころ西田税が寝起きしていた大学寮である。健康上の理由で挑戦羅南の騎兵連隊から広島の騎兵5連隊に転任した西田は、結局は健康上軍務に耐えられぬという口実で少尉で予備になり、大学寮にきていたのである。
大学寮という名称がすでに妙だが、あった場所も妙だった。が、鶴居見習士官は、大岸少尉から、くわしく場所をきいているとみえ、一つ橋で市電をおりると、ためらわず先に立った。すると皇宮警守が立ち番をしている門にさしかかった。乾門である。右手に見あげるように、昔の千代田城の天守閣跡の高い石垣がある。その先の木立のかげの平屋の建物が大学寮だった。木造のちょっとした構えである。」(末松太平「私の昭和史(上)二.二六事件異聞」中公文庫、2013年、37ページから38ページ)
末松の「私の昭和史」には大学寮に関する注釈が付されている。
「※4・・・・・・之により先大正十年頃より小尾晴敏なる者が安岡正篤と共に旧本丸内に「社会教育研究所」を設置し毎年地方の青年二十名前後を募集し、社会教育者としての訓練を与えて居た。大正十一年春大川は小尾より同研究所の同人たらんことを勧められ、之を快諾して日本精神に就いての講義を為すに至った。当時の宮内大臣牧野伸顕、宮内次官関屋貞三郎、荒木貞夫、秦真次、渡辺錠太郎等の諸将軍其他少壮陸軍士官等が随時来所して学生に薫陶を与え奮励を為したと言われている。
猶存社解散後大川は大正十二年秋より其の居を右研究所に移し青年と起居を共にして訓育に努め、尚其の名称を「大学寮」と改めた。大学寮と言うのは「大学之道 在明明徳 在新民 在出至善」とあるに依りたるものにして、明徳即ち自己の道義的精神を明らかにし、其の精神に則って民即ち国家社会を改新する人物を養成すると言う趣旨である。而して学生は応募者中より二十名内外を選抜し、皆寮内に起居し午前四時間は講義を聴き其の余は自習時間とし夜間には一周少なくとも二回は知名の士を招聘して学生をして其の智徳に接せしむる事とした。安岡正篤、満川亀太郎、中谷武世、松延繁次等が講師として其の訓育に携わり、西田税も其の当時の病気の為軍人を止めて来り投じたのである。神武会の中堅狩野敏は本寮の出身者にして、血盟団事件、五・一五事件に関係あり上海に於いて戦死した海軍少佐藤井斎も亦本寮に出入したと言われている。尚故海軍大将八代六郎は本寮の熱心なる後援者であった。・・・・・・」(前出「司法研究」四八頁。)
なお、満川亀太郎著「三国干渉以後」二七二-二七四頁、「笠木良明遺芳録」二○八頁参照。」
(末松太平「私の昭和史(上)二.二六事件異聞」中公文庫、2013年、279ページから280ページ)
つづいて、同書の注釈には、
「※5・・・・・・[西田税は]大正十四年六月軍職を退き革新運動に専念従事するべく上京し大川周明の行地社に入り機関紙「日本」の編輯に当たり大学寮兼軍事講師となって国家革新運動の普及宣伝に努めた。・・・・・・」(末松太平「私の昭和史(上)二.二六事件異聞」中公文庫、2013年、280ページ)。
明治維新後の気象観測は、今のホテルオオクラがある場所(東京市赤坂区溜池葵町)で内務省・地理寮量地課気象掛によって行われていた。しかし、この土地は、西南戦争の論功行賞により大倉喜八郎に払い下げられた。大倉には、武器弾薬の調達に功があった。前述の通り、8,000坪の土地に喜八郎は、ホテル「大倉」を建てるのだ。
さて、気象掛は、紆余曲折を経て、皇居の中に移設された。場所は、まさに江戸城本丸、天守閣の土台があるところ。気象観測は実際に天守閣土台で行われていた。住所は、東京市麹町区代官町。当時は、皇居の中なのに住所が付されていた。
※当時の様子を知るには「東京トリップ」が参考となる。
この皇居にあった大学寮については、敗戦後、戦犯指定を恐れて3年間、女中と逃げ回った大谷敬二郎の「昭和憲兵史」から引用する。
「大正十年頃から皇居の旧本丸に、社会問題研究所というのがあった。小尾晴敏、安岡正篤が、宮内大臣牧野伸顕の後援で、地方青年に対し社会教育者としての訓練を目的として始めたものだが、大正十年春頃、大川周明が、この研究所の同人となると、名を大学寮と改め、世のデモクラシー風潮に対し日本主義を鼓吹し、牧野宮相、関屋宮内次官、荒木貞夫、渡辺錠太郎、秦真次ら諸将軍も参加し、また陸海軍の少壮将校も出入することになった。ことに西田税が軍事学の講師として在寮していたので、陸海軍青年将校、陸軍士官学校生徒も集まり、西田と青年将校、また陸軍と海軍との青年将校との結びつきができた。この意味で大学寮の存在は、わが国革新運動史上銘記せらるべきだろう。」(大谷敬二郎「昭和憲兵史」みすず書房、1966年、71ページ)
大川周明や北一輝の盟友 満川亀太郎の「三国干渉以後」からも引用する。満川は大学寮に寄宿していた当事者である。
「旧猶存社の同人が麹町区代官町なる大学寮に立て籠もったのは大正14年4月からであった。今までは小尾晴敏氏の経営に属し、一歩も教化運動の埒外に出なかった社会教育研究所は、明徳親民の国士養成機関として、新に我々同志の手に委せられた。八代海軍大将を顧問として、大川周明君は研究部長に、安岡正篤君は教育部長になった。上海からは村上徳太郎君、朝鮮からは中谷武世、西田税両君が迎えられた。民族問題とか国防学とかいふその当時には珍しい学科目が設けられた。また松延繁次君は労働問題を、柳瀬薫君は支那問題を、島野三郎君はロシア事情を講義した。沼波大人を始め、笠木良明、綾川武治、高村光次君等同士を合わせると、学生の数よりも常に多かったのである。」(満川亀太郎「三国干渉後」平凡社、論創叢書4、2004年、236ページ)
元憲兵司令官の大谷は社会問題研究所と書いているが、満川は社会教育研究所と書いている。満川が正しいだろう。満川は、日本の敗戦を知らない。「三国干渉以後」は1935年で平凡社発刊である。彼は1936年に脳溢血で死んだ。満川は続いてこう書いている。
「その前々学年の社会教育研究所時代から「国際事情」の講義を当てがわれていた私は、この年になって単身寮内に移転し、学生諸君と起伏を共にすることとなった。江戸城の名残を留めた天守閣あとに立って俯瞰すると、大学寮の建物は正方形であり、中庭に湛えた小池の周囲には、毛氈の苔蒸して学生の閑談するに適していた。名は代官町となっているが、お濠の中の一角であり・・・」(満川亀太郎「三国干渉後」平凡社、論創叢書4、2004年、237ページ)云々と。大学寮は正方形とは「東京トリップ」にある様子に合致している。
「顧問たる八代大将は縷縷来寮して、明治天皇御製の講演をされた。憲兵司令官たりし荒木貞夫少将もよく来訪された。寮生からは今内務省にその人ありと知らるる緋田工君や、熊本市に神風学寮を興して維新運動に従える井上寅雄君や、郷国石川県に潜熱せる金森喜与之君、武道特に杖術の熟達に、一新生面を開きつつある田島啓邦君等の人材がでたのである。
非常時日本の尖端を切りつつ、昭和7年2月5日上海爆撃に偉功を奏して戦死した藤井斎君、少尉候補生としての錨章短剣凛々しく来訪したのもこの頃であった。海軍兵学校生徒たりし古賀清志君もまた藤井君に伴われて来訪した。」(満川亀太郎「三国干渉後」平凡社、論創叢書4、2004年、238ページ)
2.26事件の蹶起から除外された青森第5連隊の末松太平(北九州出身)「私の昭和史」にも大学寮が登場する。
「西田税とのつきあいは、大学寮に彼を訪ねたときからである。
大正十四年の十月に、青森の五連隊での六ヶ月の隊付を終えると、私は士官学校本科に入校するため、また東京に舞戻ってきた。そのとき、まだ少尉だった大岸頼好が、東京に行ったらこんな人を訪ねてはどうか、と筆をとって巻紙のはしに、さらさらと書き流してくれた人名のなかに、西田税や北一輝があった。しかし、入校早々、すぐにも訪ねなければとまでは思っていなかった。が、入校後間もない土曜日の夕食後、青森で別れたばかりの亀居見習士官がひょっこり学校にやってきたのがきっかけで、まず西田税訪問が急に実現することになった。」(末松太平「私の昭和史(上)二.二六事件異聞」中公文庫、2013年、35ページから36ページ)
「訪ねた場所はそのころ西田税が寝起きしていた大学寮である。健康上の理由で挑戦羅南の騎兵連隊から広島の騎兵5連隊に転任した西田は、結局は健康上軍務に耐えられぬという口実で少尉で予備になり、大学寮にきていたのである。
大学寮という名称がすでに妙だが、あった場所も妙だった。が、鶴居見習士官は、大岸少尉から、くわしく場所をきいているとみえ、一つ橋で市電をおりると、ためらわず先に立った。すると皇宮警守が立ち番をしている門にさしかかった。乾門である。右手に見あげるように、昔の千代田城の天守閣跡の高い石垣がある。その先の木立のかげの平屋の建物が大学寮だった。木造のちょっとした構えである。」(末松太平「私の昭和史(上)二.二六事件異聞」中公文庫、2013年、37ページから38ページ)
末松の「私の昭和史」には大学寮に関する注釈が付されている。
「※4・・・・・・之により先大正十年頃より小尾晴敏なる者が安岡正篤と共に旧本丸内に「社会教育研究所」を設置し毎年地方の青年二十名前後を募集し、社会教育者としての訓練を与えて居た。大正十一年春大川は小尾より同研究所の同人たらんことを勧められ、之を快諾して日本精神に就いての講義を為すに至った。当時の宮内大臣牧野伸顕、宮内次官関屋貞三郎、荒木貞夫、秦真次、渡辺錠太郎等の諸将軍其他少壮陸軍士官等が随時来所して学生に薫陶を与え奮励を為したと言われている。
猶存社解散後大川は大正十二年秋より其の居を右研究所に移し青年と起居を共にして訓育に努め、尚其の名称を「大学寮」と改めた。大学寮と言うのは「大学之道 在明明徳 在新民 在出至善」とあるに依りたるものにして、明徳即ち自己の道義的精神を明らかにし、其の精神に則って民即ち国家社会を改新する人物を養成すると言う趣旨である。而して学生は応募者中より二十名内外を選抜し、皆寮内に起居し午前四時間は講義を聴き其の余は自習時間とし夜間には一周少なくとも二回は知名の士を招聘して学生をして其の智徳に接せしむる事とした。安岡正篤、満川亀太郎、中谷武世、松延繁次等が講師として其の訓育に携わり、西田税も其の当時の病気の為軍人を止めて来り投じたのである。神武会の中堅狩野敏は本寮の出身者にして、血盟団事件、五・一五事件に関係あり上海に於いて戦死した海軍少佐藤井斎も亦本寮に出入したと言われている。尚故海軍大将八代六郎は本寮の熱心なる後援者であった。・・・・・・」(前出「司法研究」四八頁。)
なお、満川亀太郎著「三国干渉以後」二七二-二七四頁、「笠木良明遺芳録」二○八頁参照。」
(末松太平「私の昭和史(上)二.二六事件異聞」中公文庫、2013年、279ページから280ページ)
つづいて、同書の注釈には、
「※5・・・・・・[西田税は]大正十四年六月軍職を退き革新運動に専念従事するべく上京し大川周明の行地社に入り機関紙「日本」の編輯に当たり大学寮兼軍事講師となって国家革新運動の普及宣伝に努めた。・・・・・・」(末松太平「私の昭和史(上)二.二六事件異聞」中公文庫、2013年、280ページ)。