米海軍のイージス駆逐艦「USS Curtis Wilbur」 (DDG-54) が航行の自由作戦の一環として、南シナ海の Paracel island の Triton Island から12海里以内を航行した。中国が自国の領土を主張する島?の面積は1.2平方キロ。
そんな中、アメリカの フィリップ・ゴールドバーグ(Philip Goldberg) 駐比大使が航行の自由作戦の一環として、南シナ海における米比合同パトロールの実施を検討すると発言し、中国に対抗する意志を示している具体的には、米比両国が「拡張軍事協力合意」 (Enhanced Defense Cooperation Agreement:EDCA) に基いて約6,600万ドルを投じて海軍施設を整備する計画が浮上している。
また、航行の自由作戦を米国と協調して行っているオーストラリア海軍 (RAN : Royal Australian Navy) の ANZACフリゲートの改修作業も順調に推移している。フリゲート艦の改修対象は8隻で、現在6隻目の HMAS Parramatta と7隻目の HMAS Toowoomba の作業を進めている。今回の改修により、指揮管制装置が最新式に換装され、IRST (Infrared Search and Track)、フェーズド アレイ・レーダーが導入される。
そんな中、アメリカの フィリップ・ゴールドバーグ(Philip Goldberg) 駐比大使が航行の自由作戦の一環として、南シナ海における米比合同パトロールの実施を検討すると発言し、中国に対抗する意志を示している具体的には、米比両国が「拡張軍事協力合意」 (Enhanced Defense Cooperation Agreement:EDCA) に基いて約6,600万ドルを投じて海軍施設を整備する計画が浮上している。
また、航行の自由作戦を米国と協調して行っているオーストラリア海軍 (RAN : Royal Australian Navy) の ANZACフリゲートの改修作業も順調に推移している。フリゲート艦の改修対象は8隻で、現在6隻目の HMAS Parramatta と7隻目の HMAS Toowoomba の作業を進めている。今回の改修により、指揮管制装置が最新式に換装され、IRST (Infrared Search and Track)、フェーズド アレイ・レーダーが導入される。
光文社の古典新訳文庫は良い。「ソクラテスの弁明」を第一に着々と読み進めている。今読んでいるのはハーマン・メルヴィルの「書記バートルビー/漂流船」。装画は、望月通陽。とてもユニークでこのこの文庫の魅力を高める要素の一つとなっている。何でも望月氏は、新訳原稿を読んでデザインするのだそうで、今まで発行された新訳文庫本を全て読破している。これは、編集長/発行者である駒井稔氏以外にはいなく、彼の真摯なデザイナー魂を感ずる。
光文社古典新訳文庫の「梁塵秘抄」は、川村湊の新訳で、帯にあるように「歌謡曲のルーツはここにある」はその通りと思う。想像の通り、新訳にありがちな様々な批判が出そうな大胆かつ斬新な現代訳だが、個人的にはしっくり腹落ちし違和感はない。まあ、カラマーゾフの兄弟や赤と黒には、専門家筋から異論が出ているようだが、カントの純粋理性批判など、旧訳より圧倒的に読みやすいし、わかった気になるし、何より読み続けて全巻読破できることの重要性は強調したい。
梁塵秘抄は、後白河上皇が編んだ、今様(サブ・カルチャー)の歌謡を集成したもの。梁塵とは、家の梁(はり)に堆積した塵のこと。中国漢代、魯の虞公や韓娥という美声で知られる名手が謡うと、家の梁(柱の上に掛ける横木(梁/はり・うつばり))の塵も響きに呼応し三日間静まらなかったとの故事による。(文選の成公綏「嘯賦」李善注が引用する劉向の「七略別録」にある)平家物語の大臣流罪には「或る時、当国第三の宮・熱田明神に参詣ありて、その夜、神明法楽の為に、琵琶ひき朗詠し給ふに、所もとより無智の境なれば、情を知れる者もなし。 邑老(ゆうろう)・村女・漁人・野叟(やそう)、頭をうなだれ、耳をそばだつといへども、さらに清濁を分けて呂律(りょりつ)を知る事なし。されども瓠巴(こは)琴を弾ぜしかば、魚鱗躍りほとばしり、虞公歌を発せしかば、梁塵動き動く」とある。
さて、後白河上皇と言えば、77歳と言う当時としては極めて長命で、54年間の長きにわたり権勢を振るった人物として有名。また源頼朝は上皇を評して「天下の大天狗」と呼び、平家の台頭と滅亡、源氏による武士政権への移行と波乱万丈の時代を生き、天皇/上皇として影響力を巧妙に駆使したその隠微な政治手腕を評している。このような激動を生きた後白河の人生は、同時代の貴族の日記なでその人生を精密に回顧する事が可能で、晩年に「後白河法皇日録」を刊行した古筆学者・小松茂美も「古今東西、胎児の頃から死までの記録が後白河ほど詳しく残る帝王はいない」と述べている。慈円の「愚管抄」にも後白河は度々登場する常連だ。しかし、この後白河にしても、その意のままにならない事柄もあったようで「天下三不如意」と呼ばれている。
三不如意とは「賀茂河の水、雙六の賽、山法師」。『平家物語』巻1「願立」には、「賀茂河の水、雙六の賽、山法師、是ぞわが心にかなはぬものと、白河院も仰せなりけり」とあり、また『源平盛衰記』巻4、「白山神輿登山の事」の中にも、「白河院は賀茂川の水、雙六の賽、山法師、是ぞ朕が心に随わぬ者と、常は仰せの有けるとぞ申し傳へたる」とある。
賀茂川の水とは、洪水の事。後白河の住まいは賀茂河近くにあって、度々の洪水に悩まされたようだ。藤原道長も、懸命に洪水を防ごうとしていたことが『御堂関白記』にもあり、現在の温和静穏な鴨川を想像してはダメ。
雙六(すごろく)は、博打で古くは奈良以前からあり、『日本書紀』の天武十四年九月十八日には、「天皇、大安殿に御して、王卿等を殿の前に喚して、博戯せしむ」とあり、持統三年十二月八日には「雙六を禁め断む」とある。雙六は社会的な影響が問題しされ、天平勝宝六年にも、雙六禁止の綸旨が出されている。後白河も永久二年五月に、近頃の天下に雙六の賭博がはやり、華美な摺衣が道渡っていることに対し、たとえ後白河の下部(しもべ)であっても、遠慮無く召すべきことを命じている。しかし、雙六禁止の綸旨に効果は無かった。その証拠に梁塵秘抄には、「博打のこのむもの 平賽子(ひょうさい)鉄賽子(かなさい)四三賽子(しそうさい)それをば誰にうちえたる 文三刑三月々清次とか」とあるし、藤原頼長の日記「台記」(たいき)には、後白河自身が摂政の藤原兼実が訪れても雙六に夢中で待ちぼうけを食わせたとある。
山法師とは、比叡山延暦寺の僧徒。室町時代に至るまでの時代において延暦寺を実質的に動かしていたのが「衆徒」と呼ばれる僧侶の集団で、後白河が天皇/上皇であった時期にも比叡山僧徒の強訴が頻発。『平家物語』には安元三年の強訴についての記述があり、第一の「御輿振」には、「安元三年四月十三日辰の一點に、十禅師・客人・八王子三社の神輿賁り奉て、陣頭へふり奉る。さがり松、きれ堤、賀茂の河原、糺、梅たゞ、柳原、東北院のへんに、しら大衆、人、宮仕、専当みちみちて、いくらと云数を知らず。神輿は一条を西へいらせ給ふ。…中略…平家には、小松の内大臣の左大将重盛公、其勢三千余騎にて大宮面の陽明、待賢、郁芳三の門をかため給ふ。弟宗盛・知盛・重衡、伯父頼盛、教盛、経盛などは、にし南の陣をかためられけり。源氏には、大内守護の源三位頼政卿、渡邊のはぶく、さづくをむねとして、其勢わづかに三百余騎、北の門、縫殿の陣をかため給ふ。所はひろし、勢は少し、まばらにこそみえたりけれ」とある。
梁塵秘抄で好きな歌は・・・
和歌にすぐれて めでたきは 人丸 赤人 をのゝこまち みつね 貫之 みぶのたゞみね 遍照 道命 和泉式部
光文社古典新訳文庫の「梁塵秘抄」は、川村湊の新訳で、帯にあるように「歌謡曲のルーツはここにある」はその通りと思う。想像の通り、新訳にありがちな様々な批判が出そうな大胆かつ斬新な現代訳だが、個人的にはしっくり腹落ちし違和感はない。まあ、カラマーゾフの兄弟や赤と黒には、専門家筋から異論が出ているようだが、カントの純粋理性批判など、旧訳より圧倒的に読みやすいし、わかった気になるし、何より読み続けて全巻読破できることの重要性は強調したい。
梁塵秘抄は、後白河上皇が編んだ、今様(サブ・カルチャー)の歌謡を集成したもの。梁塵とは、家の梁(はり)に堆積した塵のこと。中国漢代、魯の虞公や韓娥という美声で知られる名手が謡うと、家の梁(柱の上に掛ける横木(梁/はり・うつばり))の塵も響きに呼応し三日間静まらなかったとの故事による。(文選の成公綏「嘯賦」李善注が引用する劉向の「七略別録」にある)平家物語の大臣流罪には「或る時、当国第三の宮・熱田明神に参詣ありて、その夜、神明法楽の為に、琵琶ひき朗詠し給ふに、所もとより無智の境なれば、情を知れる者もなし。 邑老(ゆうろう)・村女・漁人・野叟(やそう)、頭をうなだれ、耳をそばだつといへども、さらに清濁を分けて呂律(りょりつ)を知る事なし。されども瓠巴(こは)琴を弾ぜしかば、魚鱗躍りほとばしり、虞公歌を発せしかば、梁塵動き動く」とある。
さて、後白河上皇と言えば、77歳と言う当時としては極めて長命で、54年間の長きにわたり権勢を振るった人物として有名。また源頼朝は上皇を評して「天下の大天狗」と呼び、平家の台頭と滅亡、源氏による武士政権への移行と波乱万丈の時代を生き、天皇/上皇として影響力を巧妙に駆使したその隠微な政治手腕を評している。このような激動を生きた後白河の人生は、同時代の貴族の日記なでその人生を精密に回顧する事が可能で、晩年に「後白河法皇日録」を刊行した古筆学者・小松茂美も「古今東西、胎児の頃から死までの記録が後白河ほど詳しく残る帝王はいない」と述べている。慈円の「愚管抄」にも後白河は度々登場する常連だ。しかし、この後白河にしても、その意のままにならない事柄もあったようで「天下三不如意」と呼ばれている。
三不如意とは「賀茂河の水、雙六の賽、山法師」。『平家物語』巻1「願立」には、「賀茂河の水、雙六の賽、山法師、是ぞわが心にかなはぬものと、白河院も仰せなりけり」とあり、また『源平盛衰記』巻4、「白山神輿登山の事」の中にも、「白河院は賀茂川の水、雙六の賽、山法師、是ぞ朕が心に随わぬ者と、常は仰せの有けるとぞ申し傳へたる」とある。
賀茂川の水とは、洪水の事。後白河の住まいは賀茂河近くにあって、度々の洪水に悩まされたようだ。藤原道長も、懸命に洪水を防ごうとしていたことが『御堂関白記』にもあり、現在の温和静穏な鴨川を想像してはダメ。
雙六(すごろく)は、博打で古くは奈良以前からあり、『日本書紀』の天武十四年九月十八日には、「天皇、大安殿に御して、王卿等を殿の前に喚して、博戯せしむ」とあり、持統三年十二月八日には「雙六を禁め断む」とある。雙六は社会的な影響が問題しされ、天平勝宝六年にも、雙六禁止の綸旨が出されている。後白河も永久二年五月に、近頃の天下に雙六の賭博がはやり、華美な摺衣が道渡っていることに対し、たとえ後白河の下部(しもべ)であっても、遠慮無く召すべきことを命じている。しかし、雙六禁止の綸旨に効果は無かった。その証拠に梁塵秘抄には、「博打のこのむもの 平賽子(ひょうさい)鉄賽子(かなさい)四三賽子(しそうさい)それをば誰にうちえたる 文三刑三月々清次とか」とあるし、藤原頼長の日記「台記」(たいき)には、後白河自身が摂政の藤原兼実が訪れても雙六に夢中で待ちぼうけを食わせたとある。
山法師とは、比叡山延暦寺の僧徒。室町時代に至るまでの時代において延暦寺を実質的に動かしていたのが「衆徒」と呼ばれる僧侶の集団で、後白河が天皇/上皇であった時期にも比叡山僧徒の強訴が頻発。『平家物語』には安元三年の強訴についての記述があり、第一の「御輿振」には、「安元三年四月十三日辰の一點に、十禅師・客人・八王子三社の神輿賁り奉て、陣頭へふり奉る。さがり松、きれ堤、賀茂の河原、糺、梅たゞ、柳原、東北院のへんに、しら大衆、人、宮仕、専当みちみちて、いくらと云数を知らず。神輿は一条を西へいらせ給ふ。…中略…平家には、小松の内大臣の左大将重盛公、其勢三千余騎にて大宮面の陽明、待賢、郁芳三の門をかため給ふ。弟宗盛・知盛・重衡、伯父頼盛、教盛、経盛などは、にし南の陣をかためられけり。源氏には、大内守護の源三位頼政卿、渡邊のはぶく、さづくをむねとして、其勢わづかに三百余騎、北の門、縫殿の陣をかため給ふ。所はひろし、勢は少し、まばらにこそみえたりけれ」とある。
梁塵秘抄で好きな歌は・・・
和歌にすぐれて めでたきは 人丸 赤人 をのゝこまち みつね 貫之 みぶのたゞみね 遍照 道命 和泉式部