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ディクスン・カー妄論04 職業作家 その1

2025年02月05日 | JDカー
■『帽子収集狂事件』(1933)、『火刑法廷』(1937)、『皇帝のかぎ煙草入れ』(1942)、『九つの答』(1952)は、
カーがほかのジャンルへマーケット開拓を試みた作品ともいえる。
★『火刑法廷』は怪奇ホラー小説、『皇帝のかぎ煙草入れ』はロマンス小説、『九つの答』は冒険小説でしょうが、『帽子収集狂事件』は?
■ミステリ仕立ての普通小説、というところかな。ロンドンの描写、人物描写は格段に丁寧で、
カー初期の特徴である奇妙なエピソードを積み重ねる技法を封印して、地味でリアルでリニアな物語展開になっている。
フェル博士すら、前後に発表された作品とは別人のよう。
★描写が濃密なのはいいんですが、ストーリーがまったりとして起伏がないので退屈だったんですよ。
■カーが読者に向けて書いたというより、批評家向けに書いた作品といえるんじゃないか。
どんな理由であれ、セイヤーズに『帽子収集狂事件』が褒められたのは、
カーにとっては「只のミステリ書き」ではないお墨付きをもらったようなもの。(『評伝 ジョン・ディクスン・カー 奇蹟を解く男』P156)
★『弓弦城殺人事件』で、セイヤーズから「鎧の部品名称が違う」とか苦言を呈されていませんでしたっけ。(同奇蹟P138)
■ほぼ一〇〇年前、活字メディアが主流だった当時であればこそ、ミステリ界でも有名無名とわず多くの作家がいたはず。
その中から頭ひとつでも抜け出すためには、批評家に認められないといけない。
セイヤーズはオックスフォード出の秀才で、かつ学閥と学歴がモノをいう文壇で、彼女の権威は大きいはずだね。
★ミステリ文壇の情勢も把握していて、その点については、カーは成功側だったわけですね。
■傍証だけど、『帽子~』は戦前に書かれたフェル博士もの中で唯一「殺意のない過失致死」で、
被害者さえ記事をでっちあげるためにマッチポンプ的な悪戯を仕掛ける小悪党、つまりミステリ的な悪人が登場しないんだ。
ノンミステリらしい、見方を変えれば普通小説に近い仕上がりなのに、
乱歩や正史が持ち上げたりして、日本ではカーの代表作になってしまったのは良かったのかどうか。
それにたとえ過失致死であろうと殺人を行った者は裁きをうける、という法論理を無視したラストは、
ミステリではなく人情小説(日本でいう捕物帳のような)に堕ちているのではないか。
だいたい、「不可能犯罪」と謳われているわりに、あのトリック(死体とドライブ)が乱歩好みだった、というだけじゃないかな。
ラストの非倫理性も含めて、読者への作品ではなく、批評家のご機嫌を取りにいった作品だったのでは。
★厳しいっすね。次作『剣の八』の中で、主人公の人気探偵小説家がこんなことを言ってましたよ。
「あの小説は批評家のために書いた」、5つの特徴をあげておいて「批評家どもは独創的だと言ってくれる」と。
なぜわざわざ作中でこんなことを言わせるのか謎です。「あの小説」が『帽子~』のことがどうかは別として。
■そこはセイヤーズが「生意気だけどかわいいわ」とか。
★そんなオネショタみたいな。
■カーだって職業作家だから、たえず自作を売るマーケットの開拓を忘れてはいなかった、と思うんだよね。

※ヘンリー・モーガン(『剣の八』『盲目の理髪師』の主人公)曰く
批評家というのはね、一般の読者とちがって、ありそうなストーリーを要求する。ぼくはずっと前に、そういうリアルな話を書く方法を発見した。
(1)動きがなく、(2)独特な雰囲気もなくーーこれはとくに重要だ、(3)興味をそそる登場人物はできるだけ少なく、(4)決して話が脱線せず、
なにより(5)推理がないもの
以上のルールにしたがえば、好きなだけ現実離れしていいってことさ。そうすると批評家どもは独創的といってくれる。
(『剣の八』加賀山卓朗訳 ハヤカワミステリ文庫 P161)

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