DNA、言語、宗教から見た沖縄――沖縄論③ :231009情報
(『沖縄ははじめから日本、沖縄県民は日本人――沖縄論②』続きです。伊勢雅臣さんの正論を許可を得て引用いたします。)
■4.沖縄の歴史を正しく知ることが沖縄を救う道
日本沖縄政策研究フォーラム理事長・仲村覚氏は、沖縄の歴史を正しく知ることが、こうした「真っ赤な嘘」を見抜いて、沖縄を奪おうとする中国の野望を打ち砕くとして、『狙われた沖縄 真実の沖縄史が日本を救う』という著書を出版されています。
狙われた沖縄― 真実の沖縄史が日本を救う - 仲村 覚
人民日報のネット版では「琉球諸島は紀元一三七二年から中国の明朝に朝貢を始めた」としていますが、仲村氏はこれは「それ以前の歴史はなかったように思わせる印象操作」と見破っています。そして、それ以前の歴史として、「現在沖縄にも本土よりは少ないものの、数多くの由緒ある神社が存在します」と仲村氏は指摘します。
これらの神社は、明治の占領政策でも、薩摩の占領政策でもなく、それ以前から存在していました。
もともと琉球王国の時代から、「琉球八社」と呼ばれて、特別の扱いを受けた8つの神社がありました。その最も古いと伝わるのが沖宮(おきのぐう)で、初代琉球国王・舜天(1166-1237)の父とされる源為朝の時代に建立されたと言い伝えられています。源為朝は源頼朝、義経の叔父にあたります。
為朝が沖縄に来たという伝説は、沖縄が薩摩に支配された1609年よりもはるか前、京都五山の臨済宗僧侶・月舟寿桂(1470~1533年)が記した『鶴翁字銘井序』に既に紹介されています。
為朝伝説が史実かどうか、という問題とは別に、こういう伝説が日本本土でも沖縄でも広まっていた、という「史実」は、沖縄が国こそ違え、同じ日本文化圏にあった、という事を示しています。
■5.本土と同じ沖縄の自然崇拝
「琉球八社」の第一位は波上宮(なみのうえぐう)です。那覇空港の北西2キロほどの海岸にそそり立つ崖の上にあります。その創建は不詳ですが、由来が次のように記されています。
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遙か昔の人々は洋々たる海の彼方、海神の国(ニライカナイ)の神々に日々風雨順和にして豊漁と豊穣に恵まれた平穏な生活を祈った。その霊応の地、祈りの聖地の一つがこの波の上の崖端であり、ここを聖地、拝所として日々の祈りを捧げたのに始まる
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海神に豊漁と平穏を祈る、というのは、いかにも神道的な感覚ですが、崖そのものをご神体としてあがめるのは、太古の神道そのものです。神社の建物が作られるようになる前の神道では、岩や山そのものをご神体としてあがめていました。
琉球国最高の聖地とされる「斎場御獄(せーふぁーうーたき)」も巨岩がならび、ちょうど宗像大社沖津宮がある沖ノ島の巨岩を想わせます。仲村氏は「三重県熊野市の花窟神社の御神体は高さ七十メートルにも及ぶ巨大な岩であり、拝所はありますが、社殿はありません」と述べていますが、全く同じ自然崇拝は、太古の時代から沖縄も本土も同一の文化圏であったことを窺わせます。
■6.沖縄諸島と本土を結ぶ「貝の道」
本土との古代からのつながりは考古学的発見でも裏付けられています。螺鈿(らでん)という伝統的な工芸手法がありますが、これは南の海で採れるヤコウガイ(夜光貝)などの貝殻の内側の、虹色光沢を持った真珠層を漆(うるし)などの表面にはめ込む手法です。
1126年に落成された奥州・平泉の中尊寺金色堂では様々な宝物に螺鈿細工が施されており、そこでは約4万個のヤコウガイが使われたと推定されています。そして、このヤコウガイは屋久島以南の奄美・沖縄諸島などでしか採れないのです。
奄美大島は鹿児島から約400キロ、沖縄本島へは280キロと中継地点にあります。ここで大量のヤコウガイとその加工に関連した遺物が出土しています。奄美大島から、本土にヤコウガイが出荷されていたものと考えられます。
ヤコウガイとの交換に使われたのが、カムイ焼きと呼ばれる籾(もみ)や種などの保存用に使われる大きな壺です。この壺が11世紀から12世紀前半に沖縄本島のみならず、宮古島、石垣島、さらには最西端の与那国島にまで見つかっています。カムイ焼きの壺を生産する工業団地のような遺跡が、奄美大島のすぐ南西の徳之島で見つかっています。
徳之島は鹿児島から470キロほど、沖縄本島へは260キロです。
大きな壺を本土で製作して沖縄諸島まで運ぶのは、船の沈没などのリスクが大きかったため、より近い徳之島で製作して、沖縄諸島に届けていたようです。
また、奄美大島のすぐ東25キロの喜界島では徳之島で作られたカムイ焼などの他に、砂鉄から鉄製品を作る製鉄炉跡が多数見つかっています。沖縄本島では14世紀頃から三つの王国が分立する時代に入りますが、それ以前、10世紀から12世紀前半には、本土の商人が奄美大島や徳之島、喜界島を中継基地として、カムイ焼や鉄製品を供給し、ヤコウガイなどを集める交易網がすでに発達していたのです。
沖縄の貝を中心とした交易は2000年程前の弥生時代には始まっていました。沖縄産の貝や貝製品は黒潮に乗って、本土にもたらされ、貝で作った腕輪など装飾品として用いられました。「貝の道」と呼ばれる交易ルートとして、沖縄諸島から九州北部、瀬戸内海を通って近畿地方に至る道と、玄界灘を回って日本海沿岸に至る道がありました。黒潮は沖縄諸島と本土をつなぐ海のハイウェイでした。それによって、太古の昔から沖縄諸島と本土は結ばれていたのです。
■7.「民族統一」と「異民族支配」の違い
以上のように、遺伝子、言語、宗教、交易などで沖縄は本土と緊密に結ばれてきました。いわば同じ日本文化圏に属する人々が、距離の遠さから、政治的には違った歩みを続けてきた、ということです。
同一の民族が政治的に別々の国を作っていたとしても、それを統合するのは「民族統一」であり、「異民族支配」ではありません。本編で述べたように、沖縄の人々は本土の日本人と遺伝、文化、宗教で同質的な、同じ民族なのです。
したがって薩摩藩の琉球統治、明治政府の沖縄併合から戦後の沖縄復帰まで、すべて「民族統一」の過程と言えるのです。
それに対し、漢民族が言語も文化も宗教も異なるチベット、ウイグル、モンゴルなどの異民族を武力で制圧し、自由を奪い、経済的に収奪しているのは、「異民族支配」そのものです。中国共産党は、それを「中華民族」などと学問的にも全くなりたたないイデオロギーで粉飾して、「民族統一」と強弁しているです。
もとより、言語も宗教も人種すらも異なるウイグル人まで「中華民族」と呼ぶことは、彼らも「真っ赤な嘘」であることは自覚しているでしょう。しかし、「嘘も百回言えば真実となる」のが、共産党の手口なのです。
我々日本国民は、それが「真っ赤な嘘」であることを国際社会で百回でも繰り返して主張し、また日本国内でも「真っ赤な嘘」であることを国民全体で認識しなければなりません。
もともと嘘を嫌う日本人の国民性からして、こういう「真っ赤な嘘」との戦いは苦手なのですが、周辺に嘘を平気でばらまく国がある以上、降りかかる火の粉は払いのけなければならないのです。
(了)
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