どくとるマンボウこと北杜夫氏との手紙のやり取りができるという幸運に恵まれた事で生涯の運を使い果たしたと
しても何の悔いもない。そもそも氏の「どくとるマンボウ航海記」が大ベストセラーになった事で、北杜夫という作家
の書く本のファンになった人が多かったのではないか?と推測するのだが、北杜夫は実は芥川賞作家でもある。
さらに、精神科医でもある北氏はソウウツ病という名前を世間に認知させた立役者でもある。
現代とは違い当時は精神領域の病は差別を受けるくらいだから、その敷居はエベレスト程に高かった。
ところが今の時世は「欝」がひとつの流行であり精神科の門を叩き壊すほど「うつ病」が蔓延している。
「つれ欝」というより「ズレ欝」ではないかと想う程である。欝にうつつを抜かして休職をして海外旅行に行った
人もいると聞くのだが、最近の精神科医には「死にたい」なんていわれるとすぐに敷居すべりよろしく「欝」だと診断
してしまう傾向があるようだが海外に行ったとかいう話は結局偽病がばれたから広がった話だろう。
北氏の場合は自身をある程度はコントロールする事ができたと想うのだが、それでも「病としての欝」は氏の
実生活を支配していた事は事実である。本当はたいへんな想いをしていることを裏付けるように、欝の時は
手紙ではなくはがきで一行の時もあった。そこまでしてお返事を頂いていたのは胸が痛んだ。
ー大事な原稿の方を優先してくださいーと返信しようかと想ったことは何度もあったが、手紙を書くと
またお仕事の邪魔になるだろうと考えたりもした。
欝は長く続いていたと自身の著書にもあるが、一転して「躁」は長続きしなかったけれど、まさに別人のように
なって例えば「徹子の部屋」に2回分の衣装をもってでてみたり(躁状態がいつ鬱になるかわからないので
2階分を撮りますと言っていたそうです)佐藤愛子等とシェークスピアをやってしどろもどろになってみたりと
武勇伝は沢山あるのだった。そうはそうで相当大変だそうだ・・と想ったものだった。
「鬱勃たるパトス(情熱)をもって(どくろルマンボウ青春期より」という氏が旧制高校時代に好んで使った
言葉をそのままに・・という表現するとしっくりいくかもしれない。
ところで、北氏は読者に対して年賀状を送ってくれる事が2000年まであったのは有名な話だ。
なかなかユーモアとウィットにとんだ文章(印刷)だった。
ただ、文通を重ねつつもうかつにも私自身北氏に年賀状をださなかった。
宛先はおそらく氏の秘書兼お手伝いさん(氏をボスと呼ぶように云われていた方)が書いていたようだが、
印刷の隙間には、北氏のあの独特な小さな文字が書かれていたのだった。
それを見て、なぜか涙がでそうになった。それは、北杜夫という昭和の、後半の偉大な作家である人の
人間そのものをあらわしていることであり、あまりにも純真な心がなせる事だと感じたからである。
(つづく いつかに)