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「日日是好日」 ものを習うということ 森下 典子 

2016年05月19日 00時15分57秒 | 雑学知識
 「日日是好日」 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ 森下 典子 新潮文庫 2008年(平成20年)

 第一章 <「自分は何も知らない」ということを知る> 「ものを習うということ」 P-46

 「武田のおばさん」が15分ほどでやったお点前に、私は1時間以上もかかった。もっとも、自分ではその倍に感じたほどだった。
 水屋の床に、足を投げ出し、しびれきった指を折り曲げて、じんじん来るむず痒さにのたうっていると、
「これも慣れなのよ。いまに何時間でも平気で正座できるようになるわよ」
 何時間もなんて、とても信じられなかった。
 そのとき「武田のおばさん」が言った。
「典子ちゃん、どう? 今やったこと、どのくらい覚えているか、お点前もういっぺん通してやってごらんなさいな」
「・・・」
 足はまだじんじんしているけれど、「どのくらい覚えてるか」と言われると、対抗心がムクムク頭をもたげた。学校の成績は、まあまあだった。記憶力は悪くないつもりだ。運動神経は鈍いけど、代わりに手先は器用だとよく言われた。
(「お茶」なんて、たかが、カビくさい稽古事でしょ。そんなのチョロいわよ。結構デキるところを見せて、『武田のおばさん』から『あら、あなた、結構スジがいいじゃない』って、一目置かれよう)
 そんな欲もちょっとあった。
「はい、もう一回、やってみます」
 ところが・・・。
 歩けない。どこに坐ればいいのかわからない。どっちの手を出せばいいのかわからない。何を持つのか、どう持つのか・・・。手も足も出ないのだ。
 できることなど、一つもなかった。ついさっきやったばかりのことなのに、何一つ残っていなかった。
(ほら、できないでしょ? これもできないでしょ? )
 一つ一つ、念を押されているみたいだった。一から十まで指示されて、操り人形のように動くしかなかった。
「カビくさい稽古事」と、高をくくっていたくせに・・・。なにが「スジがいい」た・・・。
「チョロい」はずのものに、まるで歯がたたなかった。学校の成績も、今までの知識も常識も、ここでは一切通用しなかった。
「そんなにすぐに覚えられたら大変よ」
 慰めるような口調で微笑んだ「武田のおばさん」の、キリッとした着物姿が、なんだか手の届かない遠くに見えた。
(いつかこの人のように、流れるようなお点前ができる日が、来るのだろうか? )
 その時から、「武田のおばさん」は、「武田先生」になった。
 そして、私の目からウロコが一枚、ポロリと落ちた。
(高をくくってはいけない。ゼロになって、習わなければ・・・)
 ものを習うということは、相手の前に、何も知らない「ゼロ」の自分を開くことなのだ。それなのに、私はなんて邪魔なものを持ってここにいるのだろう。心のどこかで、「こんなこと簡単よ」「私はデキるわ」と斜に構えていた。私はなんて慢心していたんだろう。
 つまらないプライドなど、邪魔なお荷物でしかないのだ。荷物を捨て、からっぽになることだ。からっぽにならなければ、何も入ってこない。
(気持ちを入れかえて出直さなくてはいけない)
 心から思った。
「私は、何も知らないのだ・・・」

 森下 典子 1956年(昭和31年)、神奈川県横浜市生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業。大学時代から「週間朝日」連載の人気コラム「デキゴトロジー」の取材記者として活躍。その体験をまとめた「典奴どすえ」を1987年に出版後、ルポライター、エッセイストとして活躍を続ける。(中略)20歳の時から茶道を習い始め、現在も続けている。