「赤い花なら曼殊沙華 オランダ屋敷に 雨が降る・・・」という歌がある。私が小学校の低学年ごろ、父が仕事をしながらよく口ずさんでいた。父は、口笛で軍歌や歌謡曲を奏でていたが、歌詞を付けて歌うのはまれだった。曼殊沙華は彼岸花と呼ぶのが一般的だ。曼珠沙華は別名で、法華経などの仏典に由来し、「天上の花」という意味も持っていて、それは白くやわらかな花だそうだ。お彼岸頃に咲くので、彼岸花というらしい。由来はともかく、彼岸花が咲く頃になると、「赤い花なら・・・」と歌う父の声と共に、ランニング姿で仕事をする父を思い出す。このブログのプロフィールにある人形の部品をロクロなどで作る姿が懐かしい。
わが畑の法面に咲く曼殊沙華。
シロバナマンジュシャゲ。ちなみに葉っぱは隣に植えてあるシランの葉。
わが庭の彼岸花も咲く頃となってきた。赤い曼殊沙華は畑の法面に植えてあり、以前からちらほら赤い花が見ることができたが、入り口近くの大きな山ツツジの下に咲く、シロバナマンジュシャゲが一輪咲きだした。妻が昨日気が付いた。十分花は開いているので、大分前から咲きだしたと思われるが、花の好きな妻でも昨日気が付いたと言う。
歌にあるように彼岸花は、赤が本種だ。しかし、色素形成異常により白っぽい花があるという。シロバナマンジュシャゲは交配によってできたヒガンバナ科に属する別種だとのこと。
さて、父が歌っていた「赤い花なら曼殊沙華・・・」は、「長崎物語」という昭和14年(または13年?)に作られた歌謡曲。
江戸時代初期、イタリア人(男性)と日本人(女性)との混血女性の「お春」という人物が長崎に住んでいた。後に幕府の鎖国政策の一つ混血児追放令のため、長崎市内にいた混血児たちはバタビア(現インドネシア)に追放された。お春もその一人で、お春の強い望郷の思いで、ジャカルタ(現ジャカルタ)から日本へと宛てたとされる手紙「じゃがたら文」を基に作られた歌とのこと。
父も戦地の中国洞庭湖で、夜間、天上の、また、湖に映る月をみては、故郷に思いを馳せていたとよく語っていた。「本国の家族もこの瞬間、同じ月を見ているのだろうか」と。
今回、「赤い花なら曼殊沙華・・・」の歌をネットで検索し、歌の題名やお春の物語を知った。今になって、父の歌詞を口ずさむ理由が分かった。戦地での望郷の念をフィードバックし、「長崎物語」に共感しつつ、自分が生存しているという現実を確かめていたのかも知れない。父が他界してから16年だ。今日、新たな父を知った。
わが畑の法面に咲く曼殊沙華。
シロバナマンジュシャゲ。ちなみに葉っぱは隣に植えてあるシランの葉。
わが庭の彼岸花も咲く頃となってきた。赤い曼殊沙華は畑の法面に植えてあり、以前からちらほら赤い花が見ることができたが、入り口近くの大きな山ツツジの下に咲く、シロバナマンジュシャゲが一輪咲きだした。妻が昨日気が付いた。十分花は開いているので、大分前から咲きだしたと思われるが、花の好きな妻でも昨日気が付いたと言う。
歌にあるように彼岸花は、赤が本種だ。しかし、色素形成異常により白っぽい花があるという。シロバナマンジュシャゲは交配によってできたヒガンバナ科に属する別種だとのこと。
さて、父が歌っていた「赤い花なら曼殊沙華・・・」は、「長崎物語」という昭和14年(または13年?)に作られた歌謡曲。
江戸時代初期、イタリア人(男性)と日本人(女性)との混血女性の「お春」という人物が長崎に住んでいた。後に幕府の鎖国政策の一つ混血児追放令のため、長崎市内にいた混血児たちはバタビア(現インドネシア)に追放された。お春もその一人で、お春の強い望郷の思いで、ジャカルタ(現ジャカルタ)から日本へと宛てたとされる手紙「じゃがたら文」を基に作られた歌とのこと。
父も戦地の中国洞庭湖で、夜間、天上の、また、湖に映る月をみては、故郷に思いを馳せていたとよく語っていた。「本国の家族もこの瞬間、同じ月を見ているのだろうか」と。
今回、「赤い花なら曼殊沙華・・・」の歌をネットで検索し、歌の題名やお春の物語を知った。今になって、父の歌詞を口ずさむ理由が分かった。戦地での望郷の念をフィードバックし、「長崎物語」に共感しつつ、自分が生存しているという現実を確かめていたのかも知れない。父が他界してから16年だ。今日、新たな父を知った。