標高330mのモノローグ

富士山の10分の1、東京23区最高峰の10倍の山間に暮らして20年。地域の自然や思いを綴ります。

厳寒の中、咲き始めたローバイの花

2018-01-25 16:19:14 | 日記
都合により早めのアップ!
今週初め大阪城公園では、ロウバイの花が見ごろを迎えているというニュースが載っていた。甘い香りが漂い、1月末まで楽しめるそうだ。

我が家のロウバイは、先週開き始めたかなと思っていたが、今朝、マイナス8度の中、咲き始めたつぼみが下を向いていた。この寒波が去ったら来週あたりから、開くかもしれない。


雪の降る前に咲き始めたロウバイの花。おしべも見える。


今朝のロウバイ。下を向いているつぼみ。

昨日も午前午後と雪かきを行っていた。今回の降雪は、寒かったので水分が少なく、サラサラした雪質だった。雪はかきやすかった。従って一昨日の雪かきで、路面はおおかた除雪できた。しかし、車に踏み固められた部分は、路面に凍り付いていた。かけずに残ってしまった。そして、昨日は、午前中に雪というより氷の上に塩化カリウムを蒔いておいた。午後は融雪剤により緩んでいるので氷を割り、路面を露出させた。しかし、融雪剤の効果が及ばず路面に張り付いているところは、割り切れず作業を終了した。

氷の部分は、幅20cmほど、長さ2m位で、硬いままだった。車の通行にはさほど影響はなさそうなので、しばらくそのままにしておくことにした。

東京は今朝、最低気温がマイナス4度となり、48年ぶりだという。わが家の周辺は、今朝はマイナス7度だった。マイナス7度前後は毎年、厳寒期には何日もある。この地に居住して20年が過ぎたためか、マイナス4~5度だと比較的暖かいと思うようになった。
人間の感覚も置かれた環境や慣れなどによって左右され、相対的なものだとつくづく思う。


朝見たローバイの近くに、残雪の上に残った小動物らしい足跡を見つけた。畑に残った作物などを掘って探したのだろうか。この時期食べ物は少ないと思われる。必死に生きていく痕跡が見られた。

今日の昼下がり、大分陽ざしが明るくなった。風がなければ気温が低くても、陽だまりは暖かさを感じる。陽ざしやロウバイの開花を見ると、寒中の最中でも自然は春の準備を確実にしている。花粉はうっとうしいが、私たちの心の暖かさを保ちつつ、少しずつ増やしていきたい。
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「噴火速報」が出なかった。口コミなどの情報も速報に生かすべきではないか!

2018-01-24 19:03:43 | 日記
今回の白根山の噴火について、気象庁は予知できなかった。地震予知の困難さを改めて認識したという。

しかし、ロープウエイのゴンドラに乗っていた人や周辺にいた人などは、異音や噴煙を見ている。気象庁は何らかの情報は入っていたが、監視カメラや気象関係の人の目視観測ができず、確認できなかったので、「噴火速報」が出せなかったという。
今回は、2次災害が出なかったので結果的には速報が出なくても、ことなく済んだ。

原発の安全神話もそうだが、地震や火山においても科学が進歩し、予知できるという方向に向かいすぎていたのではないかと思う。科学的な見解に頼りすぎていたのではないか。御岳山の噴火により噴火の脅威は体験で来ていたはずだ。この後「噴火速報」が設定されたが、残念ながらこれが活かされなかった。



もし、科学的な地震予知等がなかった時代であったらどうだろう。口コミにより噴火したぞという情報が少なくとも周辺には伝わったかもしれない。

噴火予知などの技術にはまだ、限界があることを知るべきである。限界を知っていれば、誰かが噴煙を見た、噴石が落ちてきたという少ない情報の時点で、「幾つかの情報によれば、白根山地域で噴火が起きた模様」というような「速報」を流すことができる。たとえ、それが誤報であったとしても、後で訂正すればよい。

しかし、今回は「噴火速報」を発するには情報がないとのことで、発表を躊躇したようだ。客観性や厳密さを求めるのも理解はできる。しかし、予知のために、くまなく観測体制を敷いているのなら分かるが、今回も白根山だけに集中的に観測していて、本白根山はノーマークであったという。リスク管理ができていない状態だ。限定的に噴火予知の精度は高くても、「噴火速報」が発令されないのであれば、安全性は劣る。

科学が進歩するにつれ、リスクを想定できる範囲や程度は広がり、高くなる。しかし、それだけに頼りすぎると人の安全はたもたれない。たとえ誤りでもよいので、科学的な予知情報だけでなく、低次元かも知れないが、口コミなども考慮した、より安全性を追求した「噴火速報」であってほしい。
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昨夕から雪かきの一日。そして白根山噴火とアラスカでのM8.2の地震。改めて自然の驚異を知る。

2018-01-23 20:00:07 | 日記

使わなくなった高さ25cmほどの水槽の上に積もった雪

今回の雪は、関東でも平野部の降雪量が多かったようだ。我が地域では、大雪警報の割には例年より少なかった。とは言え、20cmは積もっていた。

公道に出るまでの幅4m長さ15mほどの通路だが、湿った雪が20cmを超えると、雪かきの労力が大変だ。従って昨夕の積もり始めた頃に、第1回目の雪かきを行った。16時ごろだったが、5cmほど積もっていた。しかし、3mくらい作業をして、その跡をみると、すでにうっすらと雪がかぶっている。仕方ないのでスピードを上げて、残りの部分の雪をかき、すみやかに開始地点に戻った。スコップを竹箒に換えてまるでパウダーシュガーが蒔かれたような路面を掃いた。終点まで掃き、開始地点を見ると、再びパウダーシュガーが積もっていた。きりがないので今日の通路での雪かきは終わりとした。

次は、手作りウッドデッキの屋根の雪かきだ。4年前の大雪(60cmの積雪)で、屋根の一部が壊れたことがあった。同じ事故にならぬよう、2階の窓から、屋根にスコップをおろし、アクリル波板トタンの上にそっと足を着地させ、屋根を傷つけぬよう、丁寧に雪をおろした。7cmほど積もっていた。後は、4年前のように積もらないよう、願うしかなかった。



昨日の21時ごろ玄関から通路から公道方面を見る。
幸い雪は止んでいるようだった。ホッとして床に入った。


今朝の通路

今朝からは、例年の降雪時のように朝から雪かきだった。地域の皆さんとの共同作業だ。声をかけ合い集まるのではなく。三々五々、道路に出てくる。作業の役割もめいめいが持ってきた道具で自ずと決まる。誰が号令をかけるわけでもなく、ひたすら、雪を割る人、雪をかく人、あるいはのこぎりで垂れ下がった枝や竹を切る人、様々だ。日ごろは、夏と秋の地域清掃以外は、集合する時はないが、雪かきは、時間も長く、合間におしゃべりをする良い機会でもある。

それぞれの家の周り、道路だけでない。特に、カーブの坂道、日陰で雪が解けにくいところ、そして、車が走った後に圧雪され氷に化した硬い部分などは共同作業で除雪する。

これらの作業は、午前中だけでは終わらない。昼食をはさんで夕方までかかる。日の沈む直前は、滑りそうなところを確認し、融雪剤の塩化カリウムをまいて、終わりとなる。


今日の15時ごろ。陽ざしがあったので雪かきしたところはすっかり溶けている。

小中学生がいる家庭の親御さんは、子供のため、自身の通勤のため、懸命に雪かき作業をする。夕方、作業が終わりホッとすると同時に、今年の雪はこれきりだといいねなどと談笑する。

昼食後テレビを観ていたら、今朝、群馬県の白根山が爆発し、被害者が出ているというニュースが流れていた。3000年ぶりの爆発だとのこと。夜のニュースでは、噴石で死者、重傷者がいるとの報道だ。また、アラスカでM8.2の地震が発生したとの一報も入った。

雪かきで大変だと思っていたが、自然の驚異を改めて感じた。大雪も侮れないが、火山の噴火、地震は、残念ながら予知できない。地球上の生きとして生けるものにとって試練だ。今日を平穏に終わることができるのを感謝しなければならない。
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都道府県対抗男子駅伝、埼玉県優勝! 来年も期待!

2018-01-22 19:28:00 | 日記
昨日は、全国都道府県対抗男子駅伝が行われ、埼玉県が優勝した。大会が始まり、前半は集団の中の一員として焦らず安定したペースを維持し、後半次第に順位を上げ、4位でタスキを受けたアンカーの設楽選手が快調な走りを見せ、2位に40秒の差をつけ優勝した。予想された通りだった。しかし、最初から先頭に立ち、最後は逃げ切るというひやひやする勝ち方でなかったので、安心して、落ち着いてみることができた。スポーツ音痴なので、専門的でないが、埼玉県はよい試合運びではなかったと思う。

埼玉県人となって20数年。競技観戦等で埼玉県を応援するのが最近になりやっと定着してきた。高校野球などは埼玉県人になってからも、10年ほどは、私の出身県である神奈川県や妻の高知県などを応援していたと思う。埼玉県は、常に応援順位としては3位であった。

私は、スポーツ観戦は好きだが、プレイするのは苦手で、小中学校時は短距離走は常に"びりっけつ"だった。だが、唯一長距離走はある程度得意だった。長距離走の要素の一つとして、耐久力が問われ、これには少し自信があった。優勝とまではいかないが、長距離走で"びりっけつ"にはならなかったと記憶している。しかし、大学に入学直後、学校周辺の道路を周回する体育の授業があった。半ばで走れなくなり、クラスメイトに背負われ帰校したことがあった。その後は、自身の長距離走には関心がなくなってしまった。



さて、駅伝に話を戻そう。1月13日には都道府県対抗女子駅伝が行われ、残念ながら埼玉県は25位であった。女子駅伝のテレビ中継の冒頭で、アナウンサーが「駅伝は京都から始まった」ということを述べていた。調べてみると、1917年に最初の駅伝が行われた。関西組と関東組に分かれ京都の三条大橋を午後2時に出発し、東京の上野不忍池までの23区間、約508kmを昼夜問わず走り抜けるもの。先着の関東組がゴールに到着したのは翌々日の午前11時34分だったとのこと。それで、京都三条大橋と東京不忍池にそれぞれ「駅伝発祥の地」があるという。

さらに私にとって、最も関心のある駅伝は、箱根駅伝だ。1979年から1983年までは東京12チャンネル(現テレビ東京)が、テレビ中継していたが、1984年から現在までは、日本テレビが中継放送をしているということだ。1月2日、3日に行われているので、多分中継放送がはじまって以来、ほぼ観戦していると思う。また、私にとって関心のある理由の一つは、私の出身地である神奈川県を横断するコースだからというのもある。各区の中継所はもちろん、選手の背景に出てくる風景や家並みなど、実際に通った経験があるので、私の記憶に親しみを感ずるからだ。

もう一つ駅伝ファンである要因を思い出した。かつて、5年連続優勝した大学出身者で、実際当時箱根路を走った人と同じ職場だった時があった。ユーモアがあり尚且つ、無骨で飾り気のない人だった。そして、思い込んだらゆずらず邁進する、真っ直ぐなところがあった。彼が箱根路を走っていた姿は見たことがなかったが、きっとががむしゃらに、ひたすら走り続けたのだろうと想像していた。

元日の朝は、前夜の夜更かしのため、起床するのが遅くあまり正月らしくない。しかし、2日、3日の駅伝中継を見ると正月という気がする。ことしも、3つの正月駅伝が終わった。男子駅伝は埼玉県が優勝したので、来年は2連覇を目指して走ることを期待したい。できれば、女子駅伝も頑張ってほしいと願う。「埼玉県選手は、"陸王"を履けば、きっとすばらしい成績がでる!?」という夢が走ってしまいそうだ。
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明日は大雪。4年前の降雪時の転倒、そして顔面骨折のつらい思い出

2018-01-21 20:10:22 | 日記
今日は、午前中は会議、午後は孫の世話、そして夕刻は買い物だった。会議と孫の世話は予め入っていた予定だったが、買い物は、急遽入ったものだ。明日の雪に備えた食料、車の燃料、暖房用の灯油を購入に行った。数日前から天気予報で関東平野部でも大雪が降るかもしれないと報道されている。日が沈んだ直後に出かけたが、道路は上下とも混んでいた。ホームセンターでは、雪かき用のスコップは、売り切れの品物もあり、選ぶ余地はないくらい品数が少なかった。幸い我が家は、雪かき道具はそろっている。

スーパーマーケットは、混雑していた。年末と同じくらい混んでいた。予定の品物を買い、ガソリンを入れ帰路についたときは、すっかり日が暮れていた。

雪に備えた準備は何とかできた。この記事を書きながら天気予報がテレビで行われている。予報では、明日の夕方から大雪の可能性があると、数日前よりも降る方の確立が強まった語り口だ。

しかし、準備万端だからといっても、憂鬱だ。4年前の大雪時には、数日間、道路が使えず、極端にいえば孤立状態だった。やっと除雪車が来て、そのあと凍結していた路面の氷を割る作業を行っていた。作業の途中、いきなり顔面に激痛を感じた。雪の上にうづくまった自分を感じ、はじめて坂道で滑ったのだと認識した。それでも、スコップなどの道具をもって、痛みをこらえ、50mほど歩いて家にたどり着いた。リビングに入った途端、横たわってしまった。「大丈夫?」という妻やご近所の方の声が聞こえたが、何んと応答したか覚えていない。やがて、救急車を呼ぶということとなったという、微かなI記憶が残っている。

"大雪だとこの思いが強く過る。夏でも、犬の散歩時に滑った坂道を通ると、足がすくみ、歩速が落ちる" これがトラウマなのかと思う。



やがて、救急隊が来て担架にのせられた。最初は、雪道を走るため小型の搬送車に乗り、大通りに出たところで、大型というか、通常の救急車に乗り換えた。後日妻から聞いた話で、記憶をたどるとこのようになる。私としては、担架に横たわっていること、体が小刻みに揺れる感触、救急車のサイレンの音は良く残っている。また、救急隊員の「救急車が通ります」というアナウンスも残っている。しかし、隊員が私に話しかけていたが、なんと言われたか、なんと応答したかは覚えていない。痛みのショックのためか、どこか意識がもうろうとしていたようだ。

診断では頬骨骨折ということだった。外科的な処置はなく、痛み止め等の処方をもらった。後日、大学病院に受診し、入院予約をして、手術をしたのは、10日ほどたってからだった。手術は、口内から切開し、骨折部分にチタンを埋め込むということだった。頬骨なので、骨折後は咀嚼ができなくなっていた。直後から術後しばらくは流動食だった。術後は、頑張って顎を開く自主トレーニングと神経を活発化するためのビタミン剤の服用が、リハビリと私の治療だった。

数か月後、ハンバーガが何とか頬張れるようになった時は、うれしかった。しかし、未だに骨折側の上唇のしびれが残っている。口笛が吹きづらくなったのは口惜しい。
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