昨日、徳島の名方郡について少しかきました。色々調べていくと、名方は
めい‐ほうとも読み、薬の調合がすぐれていること。有名な処方。また、その薬。「唐土 (もろこし) の医者の―、不老不死の薬を、、云々、、」とでてきました。
ということで、今日は不老不死について書いてみたいと思います。
秦の始皇帝が不老不死の妙薬を探すために、徐福(じょふく)という人物を日本に遣わした話があります。
そのとき薬を求めて富士山の麓を訪れたとも伝えられており、富士山周辺の各地には、徐福にまつわる伝説が今も多く残っているようです。
モーセは約束の地カナン(天国)を求め、東へ東へと向かいます。最果ての東の国、日本に来た話も事実かはわかりませんが言われています。
また、『竹取物語』の最後、かぐや姫を迎えにきた天人が持ってきた不死の薬は、帝に贈られますが、かぐや姫を失った帝は嘆き悲しみ、薬を最も天に近い山の頂で焼くように命じました。その山を「ふじの山」と呼ぶようになったのです。焼いた煙が今も立ち上っている、と物語の最後は結ばれています。
神仙ものの中国ドラマ、十里桃花でも、本来不老不死の神仙が大切な命を脅かされた時には、自分の修練と引き換えに、自己を痛めて炉により不老不死の丹薬を作ります。
若狭国小浜の高橋権太夫という長者の娘が、権太夫が 持ち帰ってきた、奇妙な形をした肉をたべ、800歳まで生きた話があります。周りが皆亡くなるのに年をとらないことをなげきます。八百比丘尼伝説といいます。

手塚治虫さんの火の鳥の中にも出てきます。ずっと生き続ける尼として苦悩が描かれます。

韓国ドラマトッケビでは、不老不死の男が出てきます。恋愛ものではありましたが面白かったです。
不老不死をあつかう物語は色々あります。
花の色は移りにけりな悪戯に我が身世にふるながめせしまに
美しい小野小町も移ろいゆく美貌をなげきます。
こればかりは避けられない流れのようにも思われます。年はとる。猛スピードで。。肉体も衰え、外見はまあ、それなりで、と私は老には抗う気持ちがありません。自然のままに年取れるといいなと思っています。
不老を外見に求めれば求めるほど、虚しくもなるだろうし
不死も抗えないけれど、
しかし、
年を重ねるごとに若い頃は感じなかった
命を与えられて生きるのは凄いなぁ、
両親や、祖先に感謝しないとなぁと、
そういう事を感じるようになりました。
神社の朱色が、古代は鉛から練り
水銀から丹を取り出し朱色にし、朱の赤は、邪気を祓うと信じられ、貴重な朱色を鳥居に塗り鳥居は邪を祓う結界になりました。
自分の中にも、邪を祓い要らないものを削ぎ落としたら、死んだり老いたりしない欠けないものがあると思います。
目に見えない心。
自分も他人も生かし大切にし愛し、
育んでいく気持ちを持って、
言葉、行動に気をつけながら、
年齢は老いても、心は老いない、
肉体がきえても、心は残る、
人は死んでも死ねないことを信じると、
天国は生きている
今が天国だと感じたなら
生死の境なく、すでに天国はあり、
命をいかに大切に生きるかということだと感じてます。
1日1日を大切に生きたか、
日々反省し、
幸せの青い鳥は、
外ではなくて内にあったんだ、
わざわざ外を探す必要もなく、
他を奪ったりする必要もなく、
今を否定しなくても良くて、
全てありのままにあるだけなんだ!
みたいに感じています。
空海さんがおっしゃる
三界の狂人は狂わせることを知らず。四生の盲者は盲なることを識らず。生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、 死に死に死に死んで死の終りに冥し。
何世生きても、なかなか抜けられない状態から、暗く冥い状態を今生こそ明るくしようと思います。
目の前におこることを
ただありのままに受け入れる挑戦を
繰り返していき、喜怒哀楽に流されず
真ん中に愛とか優しさとか誠実さとか、そういう普遍的なものを大切にし自分の身魂を磨きつづける
永遠のテーマ♾です。