大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

縄文時代の人々

2022-05-22 05:55:00 | 神仏について

諏訪の土着のモレヤ一族が守りつづけていたのが、縄文時代から続くミシャクジ信仰です。


一説では、モレヤの神長官がミシャグジ神を笹に降ろし、ソソウ神(白蛇)と合わせる儀式だそうです。


春は冬籠りした大蛇が地上にでてきます。大蛇を大地のエネルギー、つまり、静から動への流れのようにみなしたのでしょうか。


タケミナカタ神のシンボルともいえる藤の弦が絡み合って上に伸びゆく姿は、木を蛇が絡みつきながら上る姿のようですね。


蛇は脱皮しながら成長することから、古代エジプトでも不死再生の象徴、また、蛇にはアダムとイブの話しにあるような正邪、陰陽、静動を併せ持つエネルギー体のようにも感じます。


狩猟や農業が主体だった縄文時代は、人々は自然と共に生きていたと思います。


エネルギーを増幅させ大地の恵みをたくわえる冬は、食も乏しく辛い時期ではあるけれど、春に向けてエネルギーを貯める大切な時期です。


御柱祭で使われる縄はまるで、まるで蛇のようです。縄で御柱を曳きます。



ホテルにて


御柱祭の時、街中の色んなところホテルのロビーでもこの縄をみました。縄でつくったトグロを巻いた蛇を象っていました。


どうして蛇なんだろうと思いながら、同時にこのトグロを巻いた蛇のような縄を見た時に、私は、ヨガなんかでいわれるクンダリニーを思いました。


縄文人は、体で感じるエナジーをこの縄で現したのではないか?


クンダリニーについては、ウィキペディアで次の説明がされています。


クンダリニー螺旋、コイル、巻き毛、環などを意味するKundalini(クンダラ)から派生しており、焼く、燃えるを意味する kund (クンド)、「皿」「穴」を意味する kunda (カンダ)が、の語根である。


クンダリニーは普段は尾てい骨付近にある第1チャクラ、ムーラーダーラに眠っているという説明が一般的ですが、平凡な誰しもが自分でも気づかないほどの穏やかなレベルで覚醒しているというような見解もある。


伝統的な考え方におけるクンダリニー覚醒は、シヴァ神(ヒンズー教の破壊神)と離れ離れになり3回半とぐろを巻いた蛇としてムーラーダーラに眠っているシャクティ女神が目覚め上昇し、頭頂部上方のサハスラーラに鎮座するシヴァ神と再結合を果たすといった描かれ方がなされる。


等、説明されていました。


シャクティ女神が絡まりシヴァ神と頭頂で和する、、?🤔シャクティにも、ミシャクジ信仰にもシャクがあり、尺取虫みたいに、伸びたり縮んだりしながら上る感じかな?


ヨガの図はこちら。





ところで、縄は依って作ります。螺旋状に絡まり合う感じです。縄文人は、身体にもある畝る螺旋の渦、遺伝子の渦なんかも、自然の中で生きていく中で、無意識に感じとったのかもしれませんね。


全ての生命が繋がり、生命をそれぞれが補完しながら、大地と繋がり生きていることを感じたのかもとも思いました。

宇賀神という蛇の姿の神様がいます。




↓と似てませんか?





三輪山などは、蛇をご眷属とされる山が御神体です。また、太古から、日本には多くの火山があります。聳え立つ山の中で、静かな時はトグロを巻きエネルギーを溜め、また溜め込んだエネルギーは、畝るようにのぼり突き上げ、時には恐ろしい炎をふき天頂で噴火し溢れだすことさえあります。

燃えるを意味する kund (クンド)、「皿」「穴」を意味する kunda (カンダ)が語源なのが、ヨガのクンダリニーでしたが、まさに、穴蔵に溜め込んだものが燃える、静と動を山は表している気もします。


御柱祭のトグロを巻いた縄で表されているのは、蛇にも見えますが、眠っていた自らのエネルギーの流れが身体に流れるのを体感し、頭頂に渦を巻きながら流れる溢れた時に、人知を超えた爆発的なエネルギー体となり自然や天、宇宙、森羅万象全と一体となる姿かもしれません。縄文人は、自然に生きる中で、大地と繋がる人々で溢れ、ヤオロズノ神様を自然に感じたのかも、、、とも思いました。


神社には、しめ縄があります。出雲大社のしめ縄は本当に大きいですね。





2本の縄をぎゅっと結びます。注連縄は結界でもあります。因みに遺伝子🧬2本が絡まり合うようにみえて、目に見えない3本目が絡まりあっているときいたことがあります。





神社にいき、なんともいえない良い感覚を覚えたり、自然の場所で癒されたりするのは、人のもつエネルギーが自然のすべてと繋がり絡まり合いながらひとつになるからかもですね。


大地から生まれて大地に死ぬ、人はそうして自然と自分を分離していなかったのが縄文時代。


空気・水・光・森羅万象・エネルギーの中で、人も同じエネルギー体として輝いていた時代。


自然を愛する人は、全ての生命を愛し、さらには、戦いなど起こるはずがないのが縄文時代だったのかなと。


自然のエネルギーを感じる純粋な縄文人の感覚は、今を生きる人が持つ競争意識、分離意識、差別意識、我良しの意識とはかけはなれた意識であり今を生きる自分が取り戻したい意識でもあります。


【写真はお借りしました】