鹿の頭を75頭捧げる諏訪大社のミサクチ神事について、昨日から書いています。関連がありそうな話をウィキペディアでみつけましたので紹介します。
それは、
金印(漢委奴国王印)が出土したことで知られる志賀島にある志賀海神社の神事です。志賀はシガで、シカと似てます。
しかも、
この志賀海神社は志賀島の北側において、表津宮(うわつぐう)・仲津宮(なかつぐう)・沖津宮(おきつぐう)の3宮から成っていたといわれており、境内の鹿角堂(ろっかくどう)では、1万本以上ともいわれる多くの鹿の角が奉納されているようです。
まるで、ムナカタ三女神を祀る宗像大社の沖津宮、中津宮、辺津宮のようですね。タケミナカタ神のミナカタはムナカタと響きが似ています。
しかも、、
諏訪の地は阿曇族の地。志賀海神社もまた、古代氏族、阿曇族の神社であり、鹿の古代祭祀は、九州からタケミナカタ神を通して信濃に引き継がれ、その後土着の信仰と融合し守られたのではないかと思いました。
927年成立の『延喜式』の神名帳には筑前国那珂郡に「志加海神社三座 並名神大」と記載され、名神大社に列している。ともありました。
名+神です。
諏訪大社の建御名方神の尊称を省くと、名方。ご神名は、名、もしくは、名方。
名神大社とは、タケミナカタ神のことだと思いました。
また「亀石(かめいし)」として、神功皇后による三韓征伐の際、阿曇磯良が亀に乗って皇后らの前に現れたという伝承に因んで後世奉納された霊石がある、とのことです。
以前かきました阿具磯良の話とも繋がり、阿曇族が古代、非常に広大な勢力を持っていたことが伺えます。
そして、鹿の神事は阿曇族(安曇族)が守りつづけた神事だったのかもです。それが諏訪の地で土着のミシャクジ信仰とも結びつき、現代まで繋げられたのかもしれません。
現在も志賀島の全域は神域とされ現在の神主家も阿曇氏の後裔を称しているようです。ウィキペディアにも、阿曇氏の活動は日本全国に展開したといわれ、長野県安曇野市、石川県羽咋郡志賀町、滋賀県安曇川、愛知県渥美半島といった「しか」・「あつみ」という地名は、その遺称地と伝えられる。
とのことです。
九州の神社はまわる予定ですが、行きたい所がおおすぎて😅志賀海神社はいけるかどうか?素敵な神社ですね。
志賀島から出土した金印には、奴国の印があるわけですが、阿曇氏ひいてはその氏神たる志賀海神社と奴国の関わりを推測する説もあり、同東区名島の名島神社では阿曇氏を儺(那)懸主であるとしている。
この中にも、ナ、の響きが沢山でてきます。強引かもですが、漢字が中国から伝わり音に漢字を当てはめ様々な書き方となっただけで、
言霊の響きが同じものには、じつは共通の何かがあると感じています。また、ご神名や地名にも、その傾向は強いと感じています。
なので、安曇族に関係あります土地や神名の建御名方のナ方や、名島のナや奴国のナの共通する響きは偶然ではない気が勝手にしています。
タケミナカタ神は、古事記では一回しか表記がなく、国譲りに負けて信濃に逃れたとありますが、諏訪神社は全国に5000以上もあり、八幡神社に次ぐ数を誇る神社であることを考えると、タケミナカタ神は、信濃だけでなくもの凄く力のあった現人神だったのだと私は感じています。
古事記、日本書紀を簡単に目にできるのは今の時代であり、昔はなかなか一般人は目にできないものだったとすると、伝承や口伝、どちらかというと、記紀より風土記とかの方が、その当時生きた人の生身の真実があったりするかもと感じます。
九州やら、四国の名方、出雲、信濃、などなど、そして後日書きますが、渥美半島あたりにも、タケミナカタ神のお名前が残っていたり、伝承があるということは、
タケミナカタ神は古代各地で力があった御方だったのかもしれません。
つづく
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