摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

須久久神社(茨木市宿久庄)~有力神社の奉幣使を独占した大中臣氏の住んだ地

2024年12月21日 | 高槻近郊・東摂津

[ すくくじんじゃ ]

 

茨木市ののどかな安威の山あいに鎮座する小さな神社で、こんもりと森におおわれた良い感じの境内でした。車で行くには梅花女子大学の門の前から左に曲がって行けば、細い道も短くストレスなくたどり着くことが出来ます。駐車スペースに関してはネットの情報を見ていると、「有」としているものもあるのですが、そうとも言えず要注意ですので、そのあたりについても下に記しました。

 

 

【ご祭神・ご由緒】

「式内社調査報告」で吉井義隆氏は、創建年代としては不明としつつ、鎌倉時代に上代からの伊勢神宮の由緒、経営、行事などについて、朝廷の記録文書にもとづいて編述したという「神宮雑例集」に記載があり、740年、右大臣大中臣清麻呂が致仕した後に島下郡須久久郷に隠樓していたことから、家の近くに春日御社を須久山社に奉遷したことが創祀だと書かれています。

吉井氏はこの地域は早くから藤原~中臣氏の本貫であったろうかとし、藤原鎌足古墳(大職冠神社)や中臣太田連の太田神社を例に挙げていますが、その他にも中臣藍連の阿為神社も鎮座しており、中臣氏の領地として早くからひらけたところだったと見られています。

現在のご祭神は、素戔嗚命と相殿に稲田姫命を祀っています。吉井氏は理由は記載されていませんが、何らかの理由(織田信長の焼き討ち回避の為?)で変わったようです。

 

 

【祭祀氏族・大中臣氏】

大中臣氏は中臣氏の後裔氏族で、始祖は同じ天児屋根命。中臣氏には、中臣常磐大連公の子可多能祜に御食子、国子、糠手子の三子があり、分かれて三門となります。第一門の御食子の子が藤原姓を賜った鎌足で、第二門の国子の系統から神祇伯の意美麻呂・清麻呂らが出ました。意美麻呂が藤原不比等と同世代の人です。中臣氏は本姓連で、684年に朝臣姓を賜り、鎌足にならって藤原朝臣を称しましたが、694年に藤原姓は不比等の系統だけに許されることになり、その他は全て旧姓の中臣に復しました。

その後、意美麻呂の子である清麻呂が中納言だった769年に神祇伯を再度兼任した功により、優詔によって大中臣朝臣の姓を賜る事になったのです。「日本古代氏族事典」で高嶋弘志氏は、「大」の字は天皇への奉仕を明示する冠辞(修飾する言葉)とみるべきだ、と書かれています。神祇伯には清麻呂の後も、子老(こおゆ)、諸魚(もろな)、淵魚(ふちな)が就任していき、大中臣氏は神祇大副以下の要職を占めて神祇官の実権を握り、さらに伊勢神宮など有力神社への奉幣使を独占するようになっていきました。

 

拝殿

 

【「延喜式」神名帳二座】

「延喜式」には二座とあり、吉井氏によれば、当社はその内の一座にあたります。もう一座は、同じく茨木市清水の春日神社で、元須久久神社と呼ばれています。吉井氏によれば、古くは両社とも須久庄に所属していましたが、1655年に分かれて二つの村になったもので、古くは両社とも須久久神社と称していました。春日神社のご祭神は、天児屋根命、武甕槌命、経津主命、比売大神の四柱を祀っていて、吉井氏によると、伝承によればもともと清水の春日社の方が中心だったようですが、いつしか分離した後は春日神社として今日に至っています。例祭日も両社同じ日です。

 

社殿

 

【「須久久」の読み】

「和名抄」の摂津国島下郡に「宿人」とありますが、「人」は「久」の誤りで、「宿久」即ち「スクク」と読みます。後の宿久庄にあたり、社名としては「須久久」の文字を記しているのです。「延喜式」神名帳の吉田家本は「スクク」と訓んでいます。渡会延経の「神名帳考証」に「須久神社」と書かれていますが、吉田氏は須久久神社が正しいとします。

 

本殿

 

【社殿、境内】

須久久神社は小高い須久山の上に鎮座しています。吉井氏の記述によれば、本殿は間口一間、奥行一間の春日造となっていますが、現在は入母屋造の拝殿の背後に近接して立つ流造の社殿で近年の神社建築で見られる白壁によるもので、後に再建されたようです。

 

境内。ベンチもありくつろげる感じです

 

【駐車スペースのこと】

入口鳥居にむかって左に車を停めやすそうな場所があるので、今回は停めさせていただきました(一方、反対の右の方はお寺の駐車場です)。参拝中に、本殿の裏を拝見しようとしたら警報が鳴り出したということもあってか、参拝後に車に戻ると、地主さんと思われるおば様が待っておられ、この場所は神社の駐車場ではなく私有地だと教わりました。その方は「神社なら良いけども…」とはおっしゃっていましたし、怒られたわけではないのですが、やはりヨソの人間が人の土地に勝手に侵入するのはよろしい事とはいえないと思いました。

 

境内から一の鳥居方面

 

(参考文献:中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、前田豊「徐福と日本神話の神々」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍

 


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