摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

天太玉命神社(あまのふとだまのみことじんじゃ:橿原市忌部町)~「古語拾遺」の忌部移住と当社の関係

2022年08月27日 | 奈良・大和

 

当社の北に拠点(宗我坐宗我都比古神社)を持つという蘇我氏よりもはるかに古くから古代王権に関わっていそうな斎部(忌部)氏ゆかりの神社ですが、今は、境内の雰囲気は良いものの、相当にこじんまりとした神社でした。斎部氏というと奈良時代以降勢いが衰えていったようですが、なんとなくその歴史が思い出されました。そんな古い斎部氏の神社がこの地に有るのには興味深い「玉」にちなむ経緯があるらしく、参拝をさせていただきました。

 

・二の鳥居前より

 

【ご祭神・ご由緒】

忌部(斎部)氏の祖神である天太玉命と、「古語拾遺」「先代旧事本紀」によるとその御子神だとする大宮売命、豊石間戸(窓)命、そして櫛石間戸(窓)命の四柱がご祭神です。近世の頃には春日神社と呼ばれていましたが、元禄十年(1697年)に松下林見が「太玉命社記」を著して、当社を式内社「太玉命神社四座」に比定して以降はそれに依っています。現在は尊称の「天」を冠しています。

天太玉命は有名な記紀神話にあるように、中臣氏の遠祖天児屋根命とともに岩屋戸にこもった天照大神に出ていただくための神事を執り行い、さらに五部神(五伴緒)の一神として邇邇芸命の天孫降臨に従うという、大変重要な役割を果たされた神様。このご由緒のとおり、古代王権にあっては中臣氏と共に朝廷の祭祀を司る氏族として重責を担っていて、これは「養老令」神祇令に定められていました。当地はその忌部氏の本拠地と考えられています。

 

・拝殿

 

【祭祀氏族】

元々は忌部表記ですが、「忌」の字が凶事を連想させるとして、803年に忌部宿禰浜成の申請により斎部に改められています。「新撰姓氏録」は右京神別に、゛斎部宿禰。高皇産霊尊子。天太玉命之後也゛と祖神を説明します。そして、この太玉命の孫が天富命(天富貴命と同じとされる)です。上記の通り中臣氏と宮廷内の神事に携わり、祭祀に必要な物資を貢納する忌部を統率した伴造氏族でした。部民である忌部は諸国に設定されていて、「古語拾遺」に幾つか記載されていますが、主な国を挙げます。

  • 阿波国忌部等祖:天日鷲命之孫。
    「古語拾遺」によると・・・天富命が天日鷲命の子孫を率いて、肥沃な地を求めて阿波国に移り住んだ。その地で、穀や麻を植えたので麻殖郡の名がついた。かれらは祭祀の時に、木綿や麻布などの品を宮廷に納めた。

  • 出雲国玉作祖:櫛明玉命
    出雲国には意宇郡に忌部郷があり、「出雲国風土記」の同郡条によれば忌部神戸がおかれた。

  • 上総・下総・安房など東国
    「古語拾遺」によると・・・天富命がさらに肥沃な地を求めて、阿波忌部の半分を連れて東の土地を目指した。そこは麻に適した土地で、当時麻が「総」と呼ばれていたので、総の国と呼ばれた。その上総国に阿波忌部の親族が多く住んだ所があり、安房郡の名を使った。後に安房国になった。天富命はそこに太玉命社を立てた。今は安房社と謂う。

 

・本殿周囲の垣が高いです

 

【神階・幣帛等】

壬申の乱で、忌部首子人は将軍大伴吹負に属して都を守り、その功により天武天皇九年に連の姓を賜り、続く十二年には宿禰姓となりました。704年には子麻呂が伊勢奉幣使となり、中臣氏と共に務めましたが、次第に中臣氏によってその役から排除され、735年一族の虫名・鳥麻呂が訴えて復活するも、ついには完全にその任から除かれてしまいました。斎部広成が「古語拾遺」を著して、自家の由来を主張したのはこの頃でした。

氏神である当社も、859年に従五位下から従五位上に昇叙されたあと、急速に衰えていったようです。「延喜式」神名帳では名神大社であったのに、神戸の施入がないというのは珍しいと、「日本の神々 大和」で木村芳一氏が述べられています。

 

・背面より、中央本殿と、左右の境内社が確認できます

 

【中世以降歴史】

中世以降の歴史は詳らかでありませんが、1441年の興福寺官務牒疏によれば、この頃すでに興福寺の末になっている事がわかるようです。そして松下林見が訪れた1693年には、春日神社と呼ばれていたのです。かつて藤原氏に迫害され続けた斎部氏の神社が、藤原氏の氏寺の支配を受け、さらにその氏神をも勧請する事になったのは、歴史の皮肉という他はないと、木村氏は書かれています。

 

・本殿は千鳥破風付流造、境内社は春日造のようです

 

【伝承の語る忌部氏】

信仰としては、太玉命が邇邇芸命の天孫降臨に従われたとされるほどの大変重要な御方だったとの理解で良いかと思いますが、実際はどんな御方なのでしょうか。東出雲王国伝承では、忌部氏は出雲王国・富氏の分家だったと説明しています。島根県の忌部の里に忌部神社がありますが、その地に住んでいて、勾玉を作っていた家系だったそうです。紀元前2~3世紀頃に、富氏から分かれた分家・登美氏が高槻市を経由して大和磯城に移住した動きがあり、それを頼って大和に行ったのが太玉命だといいます。登美氏は、丹後から来たアマ氏(海部氏)と共同で(九州東征勢力より前の)初期大和勢力を築きますが、その頃の事が「古語拾遺」に書かれたらしいです。

゛鳥見山を霊畤(祀りの場)として、太玉命の孫・天富命が幣を連ねて、祝詞を申して皇天を祭った。・・・天富命が忌部の諸氏を率いて、様々の神宝や鏡・玉・矛・盾・木綿・麻などをつくった。・・・奇明玉(櫛明玉)命の孫は、御祈玉を造った。かれの子孫は今なお出雲に住んでいる゛

 

・境内

 

櫛明玉命は、今は出雲の玉作湯神社に祀られていて、八坂瓊の勾玉を作ったと「古語拾遺」に書かれていますが、この御方も富氏の分家だと説明され、そして忌部氏の先祖だという説明もあります。この神の子孫も太玉命に従って大和に行ったという事でしょうか。なお、「古語拾遺」にある阿波忌部の東国への移住は、2世紀の彦五瀬命による九州東征の動きを避けたものだと考えられると、「事代主の伊豆建国」で谷日佐彦氏が書かれています。この東征は、四国南岸を進んだというのが出雲伝承の主張です。

 

・境内社の両脇にも狛犬がいます

 

【当社と曽我玉作遺跡】

大和でそんな古い経歴を持つ忌部氏の本拠地として、なぜ当社の地が知られるようになったのかですが、出雲伝承によれば後のオオド王(継体天皇、お墓は今城塚古墳とされる)の施策が大きいらしいです。事業としてこのあたりで勾玉や管玉を大々的に生産するため、大和の大君になる前の本拠である北陸の人々を現在の曾我町に移住させ、その南の当地には忌部氏一族が住み込みで直接玉造をしたといいます。琥珀が下総国で採れたので同族である安房の忌部氏に送ってもらう事が出来ました。またその橿原市曾我玉作遺跡からは、東出雲の松江市花仙山産とされる碧玉製管玉に、出雲特有の片面穿孔を施す工人の存在も確認できるようです。この事業の時期について、オオド王が大君になる前か後かで二説がありますが、後だとその遺跡の想定年代(5世紀後半から6世紀前半)と食い違うためか、新しい書(「飛鳥時代の宗教争乱」)では北陸王の時代に始めた、となっています。

 

 

(参考文献:中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 大和」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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