摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

井於神社(いおじんじゃ:茨木市蔵垣内)~出雲井於神社と共に下賀茂の霊泉にまつわる井上神

2022年08月20日 | 高槻近郊・東摂津

 

最初、漢字名を見ただけでは読み方も意味も分からなかったですが、吹田インターチェンジ横に有る八丁池とご縁があるらしく、その八丁池が現在も茨木市の飛び地になっているのは当社の為なのだろうか、と想像してしまうくらいのご由緒を感じさせる水の神様です。現在は本当に狭い道を経て辿り着くような住宅街にある地域の神社風ですが、堂々の「延喜式」式内社です。

 

・移築された常楽寺の門が入口に有ります

・獅子の巴蓋瓦。向かって左側です

 

【ご祭神・ご由緒】

主祭神は、戦国時代以来現在に至るまで、素戔嗚命です。そして、相殿に天児屋根命と菅原道真公が祀られています。神社名の読みは、「延喜式」神名帳の吉田家本・金剛寺本、伴信友の「神名帳考証」、そして「神社覈録」のいずれも、゛ヰ(イ)ノヘノ゛とあるので、「式内社調査報告」で生澤英太郎氏は、゛ヰノヘノ゛と訓むのであろう、と考えられていました。゛井゛は泉や流水から水を汲みとる場所であり、゛井於゛は井の上、または井の邊の意味になります。そして、これが転訛して、今は隣町の地名となる宇野邊になったようです。

かつての宮司さんの言葉によれば、山田村の大阪万博会場横の地にある八丁池の水が氏神の神水で、氏子へ配っていたそうです。神社名からすると、古代人の生活に欠くことの出来ない水源の井は重要なもので、もともとは素朴な農業神である水の神を祀っていたのではないかと、生澤氏は推察されていました。八丁池の周りは吹田市ですが、冒頭述べた通り、この池と周囲は茨木市の飛び地(茨木市小坪井)になっています。

 

・境内。手前は絵馬所で奥が社殿

 

【祭祀氏族等】

神社のご由緒でも、「続日本紀」766年に、゛摂津国人正七位下甘尾雲麻呂賜姓井於連゛と載る井於連が氏神として崇敬した社ではないかと説明されます。生澤氏は、「長秋記」の1130年にも井於庄というこの地域の地名が記される事からも、この社と関係ある氏族と考えられます。一方で「日本古代氏族事典」では、井上姓と通じていて、阿智使主の後裔伝承を持ち、その名は河内国志紀郡井於郷の地名にもとづくという説明もあります。

 

・拝殿

 

そもそも当社は元は宇野邊村にあったようですが、現在は旧称の三宅村大字蔵垣内(読みは、゛くらかきうち゛)にあります。三宅とは、屯倉・屯田の事で皇室の直轄地のことです。「大日本地名辞典」には、この三宅村が三宅連の故里であり、「日本書紀」天武天皇の時代の三宅連石床という人を挙げています。壬申の乱で天武天皇が吉野より伊勢鈴鹿へ下った時、国司守として出迎え、五百の兵で鈴鹿参道をふさいだ人です。三宅連は、天日矛命の孫である田道間守の後裔となる新羅系渡来氏族であり、難波屯倉などの屯倉の管理者として諸国に分布していたと考えられています。

平時忠の叔父にあたる平信範の日記「兵範記」の中に、12世紀後半の時期に、信範が箕面寺(瀧安寺)参詣の帰路、総持寺へ赴く途中で三宅助の許に寄った事が記載されていて、三宅氏が古くから茨木にいた豪族である事が記録からも窺えます。

 

・幣殿でつながる拝殿と本殿

 

【中世以降歴史】

「摂津志」(1736年)には、゛三宅城は東蔵垣内村に在り、三宅国村、此に居る゛と書かれ、三宅氏の菩提寺の常楽寺も三宅村に在りました。井於神社は、享徳年間(1452~1454年)に宇野邊村からこの地に遷座し、相殿に祀る天児屋根命は永正年間(1504~1520年)に三宅出羽守が勧請したと伝わっています(「大阪府全志」)。生澤氏は、三宅氏と井於連の関係は明らかでないとされています。

三宅氏は「多聞院日記」によれば、三宅五郎左衛門が、摂津守護・細川政元の郡代薬師寺長盛によって少郡代に任ぜられ、井於庄の庄官から有力武士になりました。素戔嗚命が祀られたのは戦国時代で、織田信長に兵火で焼かれるのを免れるために、疫神牛頭天王社にすれば信長もこれを信じているから手を出さないだろうと、祭神にしたと伝わります。

 

・本殿

 

【社殿、境内】

かつての三宅氏の菩提寺・常楽寺は、明治6年に廃寺となりましたが、その門遺構は当社の正門になり、一方小堂が当社の神楽所として残っています。

 

・こちらも常楽寺の名残の神楽所

 

【祭祀・神事】

上記の大阪万博会場の地にある八丁池の水が農業に必要な事から、吹田市山田東に鎮座する伊邪那岐神社へ「三所神輿」を交換したという言われがあると生澤氏は書かれていますが、記録・文書類は残っていないようです。茨木市地域は昔から旱害に苦労したため、水を司る神々を信仰してきており、そこから市内竜王山の付近にあった天然の湧水をたたえた池への龍王信仰が生まれたそうです。当社近郊でも、かつては雨乞習俗として雨が降ると、若い人たちが龍をかついで村中を廻り、最後は池に投げ込むという行事を行っていました。

 

・皇大神社。ご祭神は、天照大神・八幡大神

 

【゛井於゛名の神社】

式内社で他に井於の名称を持つ神社には以下が有ると、生澤氏は挙げられています。いずれも読みは、「ヰノヘ」です。

  • 出雲井於神社(山城国愛宏郡)・・・賀茂御祖神社(下鴨神社)の境内社で水の神といわれる
  • 井上神社(但馬国養父郡)
  • 泉井上神社(和泉国和泉郡)

京都下鴨神社(賀茂御祖神社)の境内社・出雲井於神社(比良木神社)に関しては、以前、大阪の゛出雲井゛にある枚岡神社の記事でも引用しました、゛井上神社゛と強く関係しているという宮井義雄氏の説が印象に残っています。つまり、゛社殿がもと出雲井と称する霊泉の直上にたてられていた事は、原初の霊泉信仰を想起させる・・・出雲井から連想されるのは、賀茂の出雲井於神社であろう。肥後和夫氏によれば、出雲井於神社も三井社も井上社も、ともに下賀茂の霊泉に立脚して定位された水神を祀ったのである゛というお話です。

 

・厳島神社。ご祭神は、市杵島姫命

 

下鴨神社が鎮座する賀茂川と高野川の合流する辺りは、古代は出雲郷と呼ばれ、現在も出雲橋など地名に名残があります。「正倉院文書」に載る726年の「山背国愛宕郡雲上里計帳」「山背国愛宕郡雲下計帳」にはこの地域の出雲臣氏が多数記され、また「新撰姓氏録」山城国神別にも゛出雲臣。天穂日命之後゛と有る事から、出雲国造系の出雲氏が中央官人化して居住した事によって命名された地だと考えられています。井於神社の創建時期は判然としませんが、゛井上゛信仰が下鴨神社の霊泉に立脚するということは、古い出雲の信仰と関係しそうなロマンを感じたくなります。

 

・八幡神社。ご祭神は、須賀八耳命、八幡大神、天照大神、豊受大神

 

【伝承】

東出雲伝承は、出雲臣とはもともと旧出雲王国王家の家系を指す呼称であり、古墳時代以降に力を持った出雲国造家と旧王家が婚姻関係を持ってから、国造家も出雲臣を名乗るようになった、と説明します。この話を聞くと、では上記での出雲臣はどちら?と考えなくてはいけなくなります。一方、賀茂氏は旧出雲王家から分家し大和で豪族となった後裔で、古墳時代以降に京都に移住した人たちだと、出雲伝承は一貫して説明しています(大和岩雄氏も、雄略天皇期に秦氏と共に移住したと論考されてます)。その賀茂氏の神社のそばに住んだのだから、京都の出雲臣は先祖のつながる旧王家系と考えればよいのか、或いは当時政治的に力の強い出雲国造系だと見ればよいのか・・・奈良時代、まだ京都は政治の中枢ではないから前者で良いのかな、と悩むところです。

出雲伝承は、出雲には弥生時代から出雲井信仰があったと主張するので、出雲王国の領地だったという摂津三島にもその出雲井信仰が伝えられたのが井於神社だったのでは、というロマンが湧きます。そして、出雲と井於連に何か関係があるのかは全くわかりませんし、当社が三宅村に移ったのも15世紀のようですが、朝鮮渡来系で息長氏系三宅氏の管轄になっていくのは、やはりそういう流れか?と、何となく思っています。

 

・「井於社」「三宅村」銘の石標。拝殿向かって右側にあります

 

(参考文献:井於神社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、「角川日本地名大辞典」、「式内社調査報告」、谷川健一編「日本の神々 摂津/山城」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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