摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

阿久刀神社1(あくとじんじゃ:高槻市清福寺町)~延喜式内、嶋上郡筆頭社にまつわるご由緒の数々

2020年12月19日 | 高槻近郊・東摂津

”2”の記事で、当神社から今城塚古墳周辺の発掘成果も含めて、古代加茂氏との関係、ご祭神のことなどを考えてみました)

 

わが高槻市の「延喜式」式内社、摂津国部門で西成郡の坐摩神社に続き、嶋上郡の堂々筆頭(といっても、後は野見神社神服神三島鴨神社の少数精鋭ですが)に登場する小社です。神社の背後すぐに東流する芥川の堤防があり、神社の南側一帯は弥生時代中期から古墳時代の遺物が発掘された郡家川西遺跡が検出されており、奈良時代の嶋上郡衙跡(郡役所跡)も近いです。古くから人々が集まる地だった事が想起されます。しかし、皇學館大学「式内社調査報告 第五巻」で吉井良隆氏は゛由緒について伝える資料は何ら残存しないので明らかでない゛と述べておられます

 

・住宅密集地に鎮座します。右に見えるのが一の鳥居

 

【祭祀氏族、ご祭神】

上記調査書で吉井氏も書かれてますが、三島県主の奉斎した社だったろうと考えられています。その後、氏族制度の崩壊と共に、この地方の農民の氏神となりました。度重なる芥川の氾濫のために水神河伯を祀る必要に迫られて、江戸時代の1799年にご祭神変更を行い、現在のご祭神である住吉三神を祀るようになったのではないか、と吉井氏は推論されていました。

 

・拝殿。新しいです。お正月三が日には一の鳥居で茅輪くぐりが出来ます

 

一方、ご祭神の異説として、「摂陽群談」では、住吉神に触れつつも、信濃国諏訪郡二祭神、建御名方富命と八坂入姫命の諏訪大明神をご祭神としていますが、根拠は明らかではありません。さらに別の説として、当社の旧記なるものによれば、ご祭神は羽山戸神(大年神の子。兄に大山咋神がいる)と大気都比売の間に生まれた御子秋比売神であると云い、一説はこの神が「古事記」にある阿久斗比売だとしています。そし「古事記伝」はこの姫の亦の名が淳名底仲姫だと述べているよです。確かに、「古事記」と「日本書紀」の記述を見比べれば、安寧天皇の皇后であり懿徳天皇を生んだ姫として、阿久斗比売と淳名底仲姫は同じ御方としか見えません。

 

・小ぶりな本殿ですが、二重の破風を持ちます。奥は芥川の堤防です

 

このアクトに関して「日本歴史地名大系」では、「神名帳考証」が当社に関して「新撰姓氏録」左京諸蕃、調首の説明を引いている事を挙げています。つまり、百済国怒理村主の後、応神天皇の御世に帰化し、孫が阿久太、という記述です。さらに、その子孫が顕宗天皇の御世に蚕織絁絹(フトキヌ)の様(見本)を献じたと続いています。この怒理村主は、「古事記」にも見え、仁徳天皇の皇后石姫に三種の虫、すなわち蚕を献上した山城筒木の韓人怒理能美の事である事から、養蚕機織の技術をもつ渡来人の子孫阿久太がこの地域に住み、その後裔・阿久刀連によって祀られたのが当社だとする説となっています。

 

・拝殿向かって左に並ぶ摂末社を奧から。大将軍社(武甕槌命)。いずれの社も、小さな古い祠が建屋に収まっています

 

【神服神社と朝鮮渡来人】

阿久刀神社の2キロ北方に、允恭天皇の御世に織部司に任ぜられた、朝鮮渡来系と考えられる服部連の祀る神服神社が鎮座しますが、「式内調査報告」曰く30年前(昭和の戦前?)までは阿久刀神社と神服神社の間で相互に神輿の渡御祭を行っていたといい、深いつながりがありました。さらに、阿久刀は「久度」であり、百済の貴須王(三国史記の第十四代近仇首王)の「貴須」の音義が転訛したもの、とする説もあります(内藤湖南氏)。また神服神社の北に接する原にいた原首は、「新撰姓氏録」では百済福徳王の後とされてるようです。この地域に多くの朝鮮渡来系の人達が住んでいた事は間違いなさそうな感じです。

 

・井内五社(天照大神、天児屋根命、素戔嗚命、八幡大神、仁徳天皇)

 

摂津三島地域が朝鮮渡来系と関わりが深い事は、同じく式内社の論社である2つの三島鴨神社の公式見解からも感じられます。三島江の三島鴨神社の由緒掲示では゛仁徳天皇が茨田堤を築かれる際、淀川鎮守の神として百済より摂津の「御島」に大山祇神をお祀りした事が起源゛としています。一方、赤大路の鴨神社は、仁徳天皇の時代に百済から武寧王(斯麻王)、つまり御島(三島)神が渡来(「伊予風土記」より)し淀川沿いから北上。これが三島氏として先住の鴨族と共生、その後三島県主となって強大な支配力をつけていった、と公式HPで主張しています。厳密な内容はともかくとして、難波・河内王朝時代に渡来系の大きな勢力が入ってきたらしい事は共通しており、これが現在、公に言われている事です。

 

・諏訪大明神(建御名方命)。続きの写真は次回に・・・

 

【鴨氏の進出と真上】

さらに三島と゛鴨゛の関連の話を続けますと、京都の賀茂神社の奈良時代の禰宜に白髪部造がいました。白髪部は子のない清寧天皇の名代部ですが、後に光仁天皇の諱をさけて真髪部に名称が変わります。一方、阿久刀神社のある芥川周辺が古代白髪郷とされておりそれは阿久刀神社と上宮天満宮の間付近で「白髪郷」と書かれた石川朝臣年足の墓誌銘が見つかっている事から確認できます。そして現在は、「白髪」から転じた「真髪」に由来する地名である真上町、東/西真上になっており、この地が鴨(賀茂・加茂)系族の進出してきた地だったと考えられる、と「日本の神々 山城」で大和岩雄氏が述べておられました。

 

今回はこれまでにしまして、”2”の記事でこの地域で調査されてや神社のご神、東出雲王国伝承の主張している事等々にいをめぐらしてみようと思います。

 

(参考文献:「式内社調査報告 第五巻」、「日本歴史地名大系」、谷川健一編「日本の神々 摂津/山城」)


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