世界遺産姫路城に隣接して鎮座し、地域を代表する神社としておおいに発展している神社です。大国主命をお祀りするということで縁結びの神と信仰され、境内にはブライダルサロンや結婚式披露宴会場「長生殿」も併設し、神社境内を望める会場として魅力をPRされています。国道2号線に面した大鳥居と神門の間は、「ひめじ縁結び通り」として整備され、51個(コイ)のハートの並んだプレートが22枚(いい夫婦)埋め込まれるという、記紀の時代から日本人が親しんだ駄洒落で街を活気づけています。
・南鳥居。ここから神門までが「ひめじ縁結び通り」
【ご祭神・ご由緒】
社殿は戦災により焼失し、昭和28年に元和九(1623)年の形式で再興されたものですが、その戦災前の社殿に関する記録によれば、本殿の内陣は三つに区画されていました。その中殿は空室で、東殿に射楯大神(素戔嗚命の御子五十猛命)、西殿に兵主神(神社は大己貴命つまり大国主命とする)が祀られ、祭祀は西殿から東殿の順で行われていたと、「日本の神々 山陽」で浅田芳郎氏が紹介されています。さらに、1181年に合祀された播磨国内の百七十四座は、本殿すぐ後ろの十二社合殿と、東播磨総神殿そして西播磨総神殿に分祀されています。
「播磨国風土記」飾磨郡因達里の条には、゛因達と呼ぶのは、息長帯比売命が韓国を平定しようと渡海されたとき、御船前の伊太氐の神がここにおいでになる。よって神の名を里の名とした゛とありその地に射楯大神が祀られたと考えれられます。同じく伊和里の条にも「因達の神山(八丈岩山)」の名が見えます。神社によれば、その後欽明天皇二十五年に伊和里の水尾山に兵主神が鎮座されましたが、787年に坂上田村麻呂が勅命によって兵主神を国衛の小野江に移し、さらに891年に射楯神を併せ祀り、ここに射楯兵主神社を号すようになりました。「延喜式」神名帳では、゛射楯兵主神社二座゛と記載されます。
・神門。門前に駐車場ありますが、30分超えると有料になります
・境内。左に見えるのが恵美酒社と住吉社(住吉三神、息長帯姫命)
【祭祀氏族】
射楯神について吉野裕氏は「風土記」で、゛海人族の祭った神とする説(松岡静雄)、射立ての意で山の狩猟者の行為と関係のある神名とする説(松村武雄)など数説あるが、簡単に斎楯の神として水軍の祭った神と見た方がよい。「神名帳」に見える同名数社は、--丹波国桑田郡を別にすれば--紀伊(伊達神社)、播磨(当社、中臣印達神社)、伊豆(伊大氐和気神社)、陸奥(伊達神社)などの水軍の要地にある゛と述べていたと、先の浅田氏は紹介されていました。
・拝殿
・銅鐘
【中世以降歴史】
播磨国総社となって以降は武家の崇敬が篤く、「軍八頭正一位惣社伊和大明神」と呼ばれました。室町時代には播磨国守護赤松氏の保護を受け、特に赤松政村は1506年に「播州飾東郡国衛惣社推鐘」を寄進。さらに1521年には自ら山車や花台を繰り出させて踊りを奉納し、これが明治維新まで続く「修羅踊り」の起こりになったと言われます。1581年には豊臣秀吉が、神領を没収して新たに百石を寄進。池田輝政は、姫路城中濠の東南隅に広大な神域を安堵して、榊原忠次は巨大な石鳥居を寄進しました。
・本殿。千鳥破風付が二つ見え二座の内陣が有る事を示します
・本殿後ろから。今の社殿は、二間社流造のようです。
【鎮座地、比定】
浅田氏は「日本の神々」の文章で、そもそもの鎮座の姿を論考した鎌谷木三次氏の説を引用されます。つまり、「播磨国風土記」の゛因達里゛を1249年の正明寺文書に見える「因達北条」と見て、射楯神を航海の安全を司る住吉系の神に比定します。また市川の河口に近い゛阿成(あなせ)゛を大和の穴師坐兵主神社の神戸三十九戸のあった所に擬し、そこに穴師坐兵主神社が勧請された可能性を考え、そのあたりが1485年の山内文書に見える「因達南条」であると考えられたのです。浅田氏は、これは市川下流右岸の北条・南条に射楯・兵主両神の創祇を推定する試みとして高く評価されていました。
・総社殿に向かう入口にも鳥居が有ります
・手前から、東播磨総神殿、十二社合殿、西播磨総神殿と並びます
【社殿、境内】
境内は、拝殿・本殿以外は、合殿や総社殿も含めて15棟の摂末社が、本殿北側と東側に鎮座しています。築造、再建はいずれも昭和の時代です。本殿向かって左側にある赤松政村寄進の銅鐘は、張りの有る曲率の鐘身を持ち全体的に良く形が整っていると評されます。江戸時代には姫路城城下の人々に時を告げて親しまれたと、掲示には説明されています。
・東播磨総神殿。明石郡、美嚢郡、多可郡、賀茂東郡、賀茂西郡、賀古郡、印南郡、神東郡の大小名神
・西播磨総神殿。神西郡、飾東郡、飾西郡、揖東郡、揖西郡、宍粟郡、佐用郡、赤穂郡の大小名神
【祭祀・神事】
特殊神事として、「三ツ山祭」と「一ツ山祭」が特に有名です。平安時代に始まり、もとは不定期でしたが1593年以降は「三ツ山祭」が21年毎、「一ツ山祭」が61年毎に定期的に行われるようになりました。いずれも境内の広場に「置山」を作る祭で、木や竹を底径約10メートル、高さ16メートルの円筒型に組み、頂を弧形にしてそこに小祠を安置し、胴には蚊帳を巻き、全体を多彩な色布で飾ります。
一ツ山は、青・黄・赤・白・紫の布を巻くので「五色山」と呼ばれ、胴部には源頼光の「大江山鬼退治」の造り物を飾り付けます。三ツ山は同じような山形を三つこしらえ、東西一列に並べます。東の山には白と浅黄の布を巻くので「二色山」と呼ばれ、俵藤太が三上山の百足を退治する造り物を飾り付けます。中の山は一ツ山と同じ飾りにし、西の山は「小袖山」と呼ばれ、氏子や崇敬者たちが奉納した小袖を飾り立てます。三ツ山祭は最近では平成25(2013)年に行われました。一方の一ツ山祭は前回は昭和62(1987)年に行われ、次回は2048年です。
・十二社合殿。一ノ宮社、二ノ宮社、日岡社、角社、手置帆負社、彦狭知社、秋葉社、羽黒社、道祖社、鞍屋社、柿本社、東照宮
【葬られた王朝】
「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」で梅原猛氏は、播磨国一之宮の伊和神社と当社を訪れ、伊和神社があまりに辺鄙な地にあるので、新たに惣社として射楯兵主神社が置かれた、と書かれています。そして「三ツ山祭」と「一ツ山祭」も伊和神社から移されたものだと説明されていました。もっとも伊和神社の方は、それぞれ実際の山上に参って祭が執り行われるので、様相が全く異なります。また、伊和神社では「一ツ山祭」が21年毎、「三ツ山祭」が61年毎で反対になっています。
梅原氏によると射楯兵主神社の神事は、全国から集まってきた三千の客人神を山にもうけた「山上殿」に招き入れ、神門の上の「門上殿」に祀られる射楯兵主神と対峙させる祭です。同じ大国主命を祀る出雲大社の神在祭について、日本全国の神々が出雲にお悔みにやって来るいわば大国主命の葬式だとするのに対し、「三ツ山祭」「一ツ山祭」はむしろ生きている射楯神と大国主命に敬意を表して全国の神が集まり、その神々をもてなす祭りだと考えておられました。そして、「播磨国風土記」から読み取れるという出雲王国内の内乱やアメノヒボコとの戦いの記述を通じて、播磨には深く大国主命の影が差し込んでいて、大国主命王国の滅びの原因が密かに語られている、とまとめておられました。
・案内八幡宮。案内社(猿田彦神)と八幡者(誉田別命)を一つにあわせる
【伝承】
東出雲王国伝承を語る「出雲と大和のあけぼの」や「出雲王国とヤマト政権」では、大和の穴師坐兵主神社を゛射楯兵主神社゛と呼び、初期大和勢力(葛城王国~磯城王朝)の勃興期に創祇されたと説明します。そして、射楯神(五十猛命)と兵主神を祀りました。兵主神とは中国の古代八神信仰の武神・蚩尤の事で、大和岩雄氏も大和の穴師坐兵主神社の論考でこの説明をされています。つまり、中国渡来系の信仰であり、それを信仰したアマ(海部・尾張)氏と、出雲王国からの分家・登美氏が連携した初期大和勢力の信仰にもなったようです。ただ、大和の穴師神社が射楯神も祀っていたとは、一般の理解では馴染みにくいところではありますが、出雲伝承はあまり詳しく説明していません。
そして、時期の説明は有りませんが、大和から分祀されたのが、播磨の射楯兵主神社だと伝承は説明します。遷座地は八丈岩山で、因達の里の隣に昔は穴師の里があったらしいです。市川河口の阿成の事でしょうか。それはともかく、「播磨国風土記」に゛天火明命゛が登場するのは、播磨の地にそのアマ氏系の人達が古くから住んでいた為らしく、その移住の経緯は廣峯神社や白國神社の記事で触れました。
・長壁神社。祭神は姫路刑部大神と富姫神。姫路城天主にも祀られる地主神。「富姫」、気になります
播磨の射楯兵主神社の兵主神が大国主命になっているのが興味深いです。播磨はもともと゛大国主命王国゛の領土だったという梅原猛氏のお考えや、出雲伝承の説明を前提とすると、土地の信仰に合わせてより人気のある神様に変えたのでは、と思えてきます。そして出雲族とアマ氏のそれぞれを代表する神が播磨の地で並び建った、本当に由緒ある神社であると感じられます。
・境内の長生殿。大木の奥に、粟嶋社(少彦名命)など多くの摂末社や鬼石があります
(参考文献:射楯兵主神社公式HP・境内掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 山陽/大和」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)