摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

保久良神社(ほくらじんじゃ:神戸市東灘区)~神戸に「灘の一つ火」を灯した古代海部の椎根津彦命

2020年11月21日 | 兵庫・西摂津・播磨

(2022.12.02. ヘボソ塚古墳出土銅鏡写真追加)

 

兵庫県の神社を初めて取り上げます。阪急岡本駅からも歩ける距離ですが、この日は閑静な住宅街本山北町のコインパーキングに車を停めて参拝しました。

 

・登り坂の手前に掲示

 

【鎮座地】

六甲山を背後に控える金鳥山の中腹、保久良山と呼ばれる平坦な地に鎮座します。金鳥山一帯がハイキングコースとして親しまれている地でその入口にあたるのですが、そこまでが断崖状で結構な勾配のつづら折りの道が続きます。張り切って登り始めたら、瞬間に息が切れてしまいました。途上からなかなかの景色でしたが、神社前に辿り着いて南面に広がる神戸や大阪湾の絶景は感動ものです。

 

・「灘の一つ火」の真ん前が一の鳥居

 

【灘の一つ火】

その崖側に「灘の一つ火」と呼ばれる石灯篭があります。石碑によれば1825年のもの。往古はかがり火を燃やし、中世の昔より゛油゛で千古不滅の御神火を点し続けた最初の灯台として船人の目印にされたとの事です。ふもとの北畑村の天王講の人々が交代で点灯を守り続けてこられましたが、今は見出し写真で見ての通り電灯になってます。

 

・椎根津彦命の神像

 

【ご祭神、ご由緒】

「延喜式」神名帳では摂津国菟原郡所属。ご祭神は主神が須佐之男命で相殿に大歳御祖神、大国主命、椎根津彦命が祀られています。しかし、入口の鳥居の横に堂々と置かれた、亀にお乗りになってい神様像を拝見すれば、その神、椎根津彦命が本来のご祭神であると誰しも理解するでしょう。須佐之男命は、元禄(1688-1704年)の時代に祇園信仰の影響を受けて合祀された神で、それで一般に「天王さん」と呼ばれてきたと、谷川健一編「日本の神々 摂津」で、松本翠耕氏が書かれています。

 

・鳥居をくぐるとこんもり薄暗く。干支のかわいい石像がお出迎え

 

椎根津彦命は珍彦とも言われ、神武天皇に倭国造に任ぜられた御方です。名神大社である大和神社の祭祀氏族倭直の始祖ともされます。この神社の「大倭神社註進状」の裏書に大倭氏の興味深い古伝承があります。椎根津彦命が難波に遊行し釣りをしていたが、ある夜、天から光があって海原を照らしました。行ってみるとそこに磐クス舟が浮かんでいたので引いて持ち帰りましたが、明くる晩にまた光が浜を照らしたので、武庫の浜に宮代をたて、その船を収めて蛭児神の神体とし斎祀りました。広田西宮三良殿がこれで、また奧夷社の祭神は椎根津彦命である云々。

 

・拝殿

・摂社祓御神社。ご祭神は天照皇大神と春日大神

 

【椎根津彦と西宮神社】

松本氏は上記の伝承から、吉井良隆氏の説を引用されます。つまり、「椎根津彦は西宮附近を中心として大阪湾北岸を支配する海部の首であったと思われる。西宮えびす神社には古く境外社に奧夷社がったが、後に境内に移され現在荒えびす社としてえびす神の荒御が祀られている。元は椎根津彦命だったのではないか。そして、その子孫の倉人水守(8世紀の人)によって椎根津彦命を祀った奥夷社の元鎮座地がこの保久良神社だったのでは、と推測される。灘の一つ火が代々伝えられて来た背景に、椎根津彦の神格の一面が承け継がれていると思われる」

 

・本殿

 

【境内、発掘遺跡】

境内は木々で鬱蒼とし、その中に巨石が散在して特異な雰囲気を醸しています。特に神々しい一部の岩には注連縄が張られ、お名前も掲示されています。戦前の調査で弥生期の祭祀遺跡である事が分かっていて、本殿を中心に東西150m、南北150mの方形の範囲に、点在する巨石が一定の配列で並んでいるそうです。本殿の裏から覗くと巨石群の一部が見え、その上に本殿が建っているとの事です。さらにこの地は、古代だけでなく室町時代まで続く祭祀遺跡であった事も判明しています。

 

・境内にある「立岩」

 

【扁保曾塚の里謡】

さらに神社の背山である金鳥山遺跡では、数基の竪穴式遺構など高性の集落跡が見つかっており、保久良神社遺跡との関連が考えられています。山麓はかつては多くの古墳があり、代表的な扁保曾(ヘボソ)塚は古墳時代初期の前方後円墳でした。古い里謡に゛岡本の袁佐婆(オサバ)にたてる扁保曾塚、布織る人は岡本にあり゛があったそうですが、その意味も由来も分かっていません。旧正月二日、この辺りで布を織る音が聞こえるとか、塚の松を刈ると祟りがある、などの地元伝承があった事を、前記の松本氏が紹介されていました。

 

・東京国立博物館所蔵、ヘボソ塚古墳出土 三角縁三神二獣鏡。4世紀。

 

(参考文献:谷川健一編「日本の神々 摂津」)

 

・社務所裏にある「神生岩」

・神社境内の周囲もこんな感じです

 

【伝承の海部氏】

亀に乗る椎根津彦命像は、元伊勢籠神社にも「倭宿禰命像」の名で存在し、社家海部氏の四代目だと説明しています。東出雲王国伝承では一貫して、「海部氏勘注系図」と同様に、大和宿祢(倭宿禰)は海(天)御蔭のことであり、始祖から数えて四代目、海部氏として分かれた初代だと説明します。つまり、天香語山命の孫で、建田背命の曾祖父にあたるというのです。「出雲王国とヤマト政権」で富士林雅樹氏は、大和に居ただろうが本貫地の丹後へ戻った人と推定し、九州東征勢力は後の別時代だとします。舞鶴市にこの御方を祀る彌伽宜神社があります。ご祭神の別名は天目一箇(アマノマヒトツ)命。そういえば、保久良神社の西側に東灘区゛御影゛の地名がありますね。一方で、「出雲と大和のあけぼの」では、珍彦が海部氏とは分家になる伊国造始祖、高倉下の後の人で、九州東征勢力と戦った説を紹介ています。とにかく、この御方が九州東征勢力の味方だったという話は載っていません

 

・神社までの登り坂。木々が色づきだした頃です

 

「お伽話とモデル」では、神武東征の途中の話には神功皇后凱旋のの事が書かれている、と不思議な事を言ってました。「出雲王ヤマト王権」には、゛海部゛の氏名は神功皇后の新羅遠征に協た功績で付けられたとあるので、それからするとその凱旋後に大阪湾を望む地に始祖を祀ったのではないか、と想像します。つまり、神功皇后にまつわる源説の゛矛倉゛説は検討余地があるのではないでしょうか。

 

・大阪方面も見渡せます


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