摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

磐手杜神社(いわてもりじんじゃ:高槻市安満磐手町)~安満宮山の夜啼き石は古代海士(アマ)氏の別れの地を偲んだのか

2020年11月14日 | 高槻近郊・東摂津

 

高槻市の有名な遺跡、安満宮山古墳から見下ろした麓の位置に鎮座する、何とも気になる神社です。記録で見える限りでは南北朝から存在が確認される安満村の鎮守社でした。゛安満゛の由来については、北接する成合村にあった金龍寺の旧称安満寺にによる(大阪府全志)とか、古代淀川の海士(アマ)が居住したことによる(高槻市史)という説が言われています。゛磐手杜゛とは境の社叢の事で、古来より歌枕(和歌の題材とされた日本の名所旧跡のこと)として有名だったらしく、確かに鬱蒼として威厳すら感じる空気感を感じさせてくれました。なお、入口向かって左に広い駐車場があります。

 

・入口の石標

 

【ご祭神、ご由緒】

ご祭神は、武甕槌命、斎主(イワイヌシ)命、天児屋根命、姫大神、そして安閑天皇です。中世には安満社と呼ばれ、近世は春日神社と呼ばれていました。社伝によれば、天智5(666)年に藤原鎌足が勧請したと言います。この付近は、大和春日社領の安満荘(荘園)に属しており、当社も安満荘の鎮守としていつの頃にか勧請されたのであろうと、「角川日本地名大辞典 大阪府」に書かれています。

 

・拝殿。舞殿のような感じです

 

【中世以降歴史】

1195年に西行法師が参詣して歌を詠じ、後鳥羽上皇も御幸され太刀が奉納されました。当社北西には後鳥羽院磐手行宮跡と伝える地があるそうです。15世紀初頭くらいまで社領も整い、祭礼もにぎわっていました。しかし以降、社領が退転。氏子も減るものの、藤原姓で古来より格式を保っていたそうです。16世紀後半には山右近の焼き討ちに遭い、社殿始め社宝、旧記などを失います神霊及び神輿、一部の神宝を、神官弥五郎が山崎の宝寺に隠し、その災いを免れたと伝わります。その後1622年に社殿は再興されました。

 

・本殿。千鳥破風を持つ流造のよう。神門が修復中でした

 

明治4年に磐手杜神社と改称し村社に列しました。さらに同43年には下の春日神社、別所の雲峯神社を合祀、大正3年安満の千観神社、大将軍社を境内に移転します。雲峯神社は、白鳳年間、役小角がこに来た際、峰に白雲の立ち登るのを見て山峯に安閑天皇を祀り、峯山蔵王権現と崇め奉ったものです。

 

・夜啼(ヨナキ)石。拝殿前にあります

 

【夜啼き石伝説】

これは最近、高槻市の広報誌でも紹介された話ですが、この神社は「夜啼き(ヨナキ)石」と呼ばれる石が社殿前にあります。かつて高槻城主永井氏の家臣長田文八郎が、社頭にある奇石を認めて城下の自分の庭園内に運んだところ、毎夜「あまへいの~(安満へ帰りたい)」と鳴き声が聞こえたので、再び神社に戻したとう伝承がある、ちょっとミステリアスな石です。これ以上説明れる事はなかなかないのですが、三善貞司氏の 「大阪伝承地誌集成」に解説がありますので、下の伝承の項で併せて取り上げます。

 

・社殿に向かって右側の森の中に摂末社がまとまって鎮座します

 

【夜泣き封じの神様】

摂末社の一つ、鶴尾八幡神社の説明に不思議なご由緒がありました。「本多知気命(応神天皇幼少名)。社記によれば神功皇后三韓征伐に際し当時四才のご祭神を養婆に託されしが帰還されるまで母恋しいと泣かれた事がなかったとの事から通称゛夜泣きの神様゛として夜泣きする子供たちの守護神である」応神天皇は神功皇后が帰還されてから九州でお生まれになったとされてるのに、実は遠征前に生まれていたかのように取れる話は、他に聞いた事がないです。凱旋後の、忍熊王との戦いの時の話でしょうかね。一時、皇后と別行動をされていたようですから。そうであれば、紛らわしい説明という事になります。確かに、香椎宮の摂末社鶏神社や京都の三宅八幡宮などにも夜泣き封じの御利益があるそうですね。

 

(参考文献:「大阪府神社名鑑」「角川日本地名大辞典」「日本歴史地名大系28 大阪府の地名Ⅰ」)

 

・左が鶴尾八幡神社、右が千観神社。摂末社それぞれにも説明板があります

 

 

【中臣・藤原氏とアマ氏】

高槻市や茨木市あたりには、春日の地名や春日神社が散見され、安威地域の藤原鎌足伝承阿為神社の記事でも書きましたようにこの摂津三島の地が中臣~藤原氏と縁が深そうだと理解されています。東出雲王国伝承にはその裏付けとなる説明がされていて、つまり、中臣氏の先祖は常陸国仲国造の武借馬であり、「古事記」にはこの氏族は神八井耳命の後だと書かれています。そして、出雲伝承によれば神八井耳命は、海部氏・尾張氏の祖先となる丹地方の海(アマ)氏と、東出雲王家の分家・登美氏の血を持つ御方だったので、この両氏族と縁の深摂津三島に中臣~藤原氏が進出してくるのは、自然なように見ます。

 

・大将軍社。ご祭神は、八衢比古神・八衢比売神・久那度神。出雲伝承の云うサイノカミということでしょうか

 

 【アマ氏と摂津三島】

高槻市に弥生時代後期初頭の遺跡、古曽部・芝谷遺跡がありましたが、その地集落の形態や墓壙内破砕土器供献遺物が、後地方と類似する事から、木津川市教育委員会の肥後弘幸氏が「丹後の人が高槻に来て葬られている」と述べられていました。いわゆる倭国大乱(2世紀後半)の前の時代から、高槻には丹波・丹後人々が乗込んできていた事が、発掘成果からも確認されています。出雲伝承を元に考えると、天香語山の子孫となるアマ氏だと想像されます。

 

【アマ氏と摂津三島】

鏡作神社の記事でも触れましたように、尾張氏、海部氏が大和で州東遷勢力に対し劣勢になり、その一部勢力が摂津三島に逃れて来たらしいです。そして尾張氏が東に向かい(後に熱田神宮を創建)、海部氏は北の丹後、つまりアマ氏の本拠地(同じく元伊勢籠神社を創建)に戻って行ったと出雲伝承は云います(「古事記の編集室」「親魏和王の都」)。倭国大乱の時期の事です。安満宮山古を訪れると、もちろんその淀川方面の絶景にまず目がいくのですが、少し西側に行けば北西の亀岡方向 ~その先は丹波・丹後地方~ の見晴らしも素晴らしい事が分かります。地図で見れば、古真南でなく南西の方向に向いています。まったくのヒラメキなのですが、尾張氏と海部氏惜別の地点がここ、安満宮山古墳~磐手杜の地だったのではないか、との思いになるのです。

 

・安満宮山古墳。三角縁神獣鏡が出た3世紀の古墳(安本美典氏が三角縁鏡は3世紀古墳から出てない、と書いてましたが・・・)

 

さらにロマンチックに空想をめぐらせると、その時、この安満の地に残って見送た人たちもいたのでしょう。この時期、九州勢力の追手は三島の地にも及んだと、「出雲王国とヤマト政権」に書かれています。そういえば、淀川対岸の枚方市には「伊加賀」の地名があります。この数十年後、銅鏡が好れる時代になり、再び東遷勢力の脅威に見舞われた際、出雲や丹波・丹後の日本海地域をルーツする当時の大和政権(いわゆる葛城王国)は、田原本町の鏡作神社あたで作った銅鏡を連携氏族に配ったと、出雲伝承は説明します。先の戦乱で尾張氏、海部氏の逃避行を支援した功労者である高槻のアマ氏後継の有力者に、優先的に田原本町三角縁獣鏡などの鏡が配られたのではないか、と像したす。

 

・安満宮山古墳近くから北西方向の絶景。名神高速が北西方向を向くところ。古墳は高槻市営墓地の中にあります

 

【夜啼き石と出雲の信仰】

「夜啼き石」は、割と新しそうな感じの話で、ここ以上に有名な泣き石伝説は大阪はもちろん各地にありますね。鶴尾八幡神社の夜泣き神から連想された伝承?というのが単純に思いうかびますが、古代より日本人の信仰の対象であった岩石が「あまへいの~」く話に、何となく古代から続く怨念が根幹にあるようにも感られます。なぜそんなに安満の地にこだわったのでしょうか。つまり、大和の王権の座を奪われた゛アマ氏゛の遺の地を偲んで泣いたのかしら・・・、なんて想像してしまうのす。出雲伝承に浸った目でこの石を見ると、(まるで出産をすために)2つの太ももで踏ん張った女性の下腹部に見えて、アマ連携していた古代出雲氏族の女岩信を思ってしまうのです。

三善貞司氏の 「大阪伝承地誌集成」には、この磐手杜神社の夜啼き石の事が説明されています。夜泣き石は全国に幾つかのパターンがありますが、当社の夜泣き石は石自体が鳴くもので、これは村境にある「境の神」の石であり、移動するとその機能を失うので泣く、つまり「道祖神」の信仰から生じたものだと断定されています。「境の神」「道祖神」といえば、出雲伝承は、出雲王国の信仰である幸(サイ)の神信仰と同じと説明しています。やはりこの石は出雲の信仰がかかわり、その出雲族とかつて連携したアマ氏の無念が潜んでいるのでは・・・と想像してみたいです。

元伊勢籠神社の八十一代宮司海部穀定氏は、「日本書紀」が彦火明命を瓊瓊杵尊の子としたのは作成当時の撰者による作為だ、と「神代並上代系譜図記」で主張されていたそうです。

 

・安満宮山古墳から淀川方面の絶景


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