(続編2として、物部氏も関わる事や、三角縁神獣鏡にまつわる氏族どうしの大和争乱の伝承などをまとめました)
魅力ある、いかにも意味深そうなお名前を持ち、現代では美の神様として美容師さんや鏡業界の方々の参拝が多いという神社です。拝殿前の「記念碑」によると、昭和19年の地震で拝殿が倒壊したのちしばらく再建が出来なかった時期があり、全日本鏡工業協会会長辻本善治郎氏が発起され、鏡業界硝子メーカ等の協賛により氏子崇敬者の皆さんが一体となり、昭和44年に本殿修理、拝殿造営が叶ったそうです。拝殿前の空間は、有名硝子メーカなどの名の入った玉垣で囲われています。
・入口鳥居
【二種のご祭神】
ご祭神は、神社入口のご由緒掲示(名義は「田原本町」。「歴史街道」のラベル付)では、天照国照彦火明命、石凝姥命、天糠戸命となっていますが、谷川健一氏編「日本の神々 大和」の大和岩雄氏の文章内では、天糠戸命が天児屋根命になっています。その論考の中ではさらに過去のご祭神が記されています。「大和志料・下」によれば、1533年の社記に、中央:石凝姥命、右:天糠戸命、左:天児屋根命とあり、これが明治時代の「志料」執筆時点までその通りだったようです。その後、天糠戸命がいなくなって火明命が中央に祭られるようになり今(80年代)に至ると書かれています。実は境内中ほどにも゛観光協会゛名義の少々汚れた説明板があり、そこにはこの「日本の神々」記載のご祭神三柱が記載され、入口と合っていないのです。
・こんもりとした長い参道
大和氏は、「磯城郡誌」(大正4年)に載る社伝も紹介していて、どうも入口の掲示説明はこの内容を少し調整しているように思います。入口の要旨を以下に記載しますが、社伝に対し<>内を追記してるよう。”中座は天照大神の御魂なり。崇神天皇の時期、この地で日御像の鏡を改鋳し、天照大神の御魂となす。今の内侍所の神鏡是なり。本社は<(試鋳せられた)>像鏡を<天照国照彦火明命として>祭れるものにして、この地を号して鏡作と言う。(以下は掲示では省略)左坐は麻気神即ち天糠戸命なり。日の御像を作る。伊勢の大神是なり。右坐は伊多神即ち石凝姥なり。日像の鏡を作る。紀伊国日前神是なり”。ただ、大和氏は「磯城郡誌」文の元となった「大倭神社注進状」は宝永年間の偽書とされる、とも書かれています。ちなみに、田原本町のHPでは、”観光協会”の天児屋根命がご祭神の方で書かれています。
・拝殿
【天照御魂神】
上のように社伝自体には火明命の記載はないのですが、大和氏は和田萃氏の”鏡作神社の祭神は、ご神体の鏡を、天照御魂神として祀ってあると考えるのが至当であろう”という説でまとめています。こういう考えから、入口掲示では天照御魂神を明記しのたでしょう。「延喜式」神名帳では一座となっていて、元々は天照御魂神(天照大神ではない)でした。それが三座とするのは、「八尾鏡作大明神作法書」が”三社鏡作大明神を号し奉る”として、式内の鏡作伊多神社(2社有り)の石凝姥命と、鏡作麻気神社の天糠戸命を当社でも祀ったからです。なお、鏡作神社は石見にもありますが、式内社は当社の八尾社の方です。
・鏡池。社殿に向かって左側にあります。ここから鏡石が発掘されています
天照御魂神が火明命になる理由は、一つにその美称”天照国照彦”に天照御魂神的性格が示される事と、もう一つは、大阪府茨木市の新屋坐天照御魂神社の記事でも紹介しました通り、天照御魂神を祀る氏族がことごとく火明命を祖とするからです。当社の神職は水主直で、「大同類聚方」(807年、日本固有の医方集)には、水主直に伝わる゛阿可理(あかり)薬゛の元祖が天香山命だと書かれています。火明命の児であり、゛阿可理゛は火明命から来ていると考えられます。
・新しい拝殿。奥は本殿
【鏡作神社と尾張氏】
「新撰姓氏録」で、天賀吾山(天香山)を始祖とする尾張連と同祖とある氏族は伊福部宿祢だけです。伊福(五百木)は”息吹き部”の意味で、踏鞴を掌る製鉄・製銅関係の部と推論されます。この伊福部氏に関わる尾張連には゛天火明之男天賀吾山之後也゛と記載があるのに、尾張国造の尾張連には゛天火明廿世孫阿曾禰連之後也゛とあり、同じ尾張氏でも系統が異なる、と大和氏は書いています。前者の尾張氏が鍛冶に関わる氏族なのです。尾張氏の本貫については尾張と葛城の二説ありますが、葛城を本拠地とする尾張氏は、”高尾張邑に赤銅のヤソタケルあり”と書かれ赤銅に関わります。そして、「先代旧事本記」の天孫本紀は天香語山命の孫の瀛津世襲命を、”亦葛城津彦命と云う、尾張連等祖”と書いています。つまり、「新撰姓氏録」の天賀吾山命を祖とする尾張連は、葛木津彦の後といえて、鏡作神社が尾張系の神と結びつくのです。
・本殿。連棟式の流造
同じ田原本町にある多神社が、ちょうど東西南の三方に三輪山、二上山、畝傍山を見る特殊な場所に有りますが、この八尾の鏡作神社はほぼ春分と立冬の日、朝日は三輪山から登り、夕日は二上山の雄岳・雌岳の間の鞍部に落ちます。そして、その三輪山との直線状には、纏向古墳群の中でも最古級のもので、3世紀築造とされる石塚古墳の中心線が重なるのです。石見の鏡作神社も南に5世紀末から6世紀初頭の特異な祭祀遺跡を持ちますが、石塚古墳との関係を考えると八尾社の方が古くなりそうです。
(参考文献:谷川健一氏編「日本の神々 大和」)
【尾張氏の伝承】
東出雲王国伝承では尾張氏は、海部氏と共に、元々はアマ氏と呼ぶべき天香語山、その御子の天村雲の後からそれぞれに分かれた家系だと云います。本来丹後を拠点とし、出雲系登美氏が先に移住していた葛城に後から入ってきた氏族で、とにかく天香語山の後だという説明です。
・鏡作神社の東に鎮座する鏡作麻気神社
・社伝ではご祭神は天目一箇命ですが、天糠戸命説もあり、大和氏は後者を支持されてました
出雲伝承の説明によれば、沼河耳大王が天下を取った時、神八井耳と共に劣勢になった尾張氏の人々が伊勢湾地方に移住して、その地を治める事になりました。その後も2世紀に九州からの第一次東遷勢力が大和に入ってきて、大和の(ヤソタケルらの)旧勢力を圧迫した際にも、大和にいた尾張一族は摂津三島に退散。その人々の一部が尾張地方に本家を頼って逃れていったと云います。別の人々は丹後に逃れ海部氏となります。以前、新屋坐天照御魂神社の記事でも少し触れたように、摂津三島がアマ氏の分岐地点だったらしいです。
愛知県の尾張氏は海部氏と同祖で、゛都落ち゛後もお互い婚姻関係もあったようですから、先祖の説明から天香語山が欠落したのは、その経歴の複雑さで分からなくなったか、単に記載を省略したとか、伝承を前提とするなら、そんな憶測でしょうか。あるいは、記紀に対する忖度がはたらいたのでしょうか。
鏡作神社については、次回も続けたいと思います。
・麻気神社に向かう途中、寺川側から見た鏡作神社の社叢