摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

松尾大社(まつのおたいしゃ:京都市西京区)~秦氏の祀った「酒神」の本来の意味が語るもの

2022年07月30日 | 京都・山城

 

当社といえば、とにかくお酒の神様、醸造祖神としていつも語られて、古代史的には朝鮮半島より渡来した秦氏が総氏神とした著名な神社と理解されます。その秦氏は太秦の大酒神社も祀ったとされますから、よほどお酒に縁が有るのかと思いきや、神社によるとそれは近世以降という事で、そもそも酒の信仰はどんな風に始まったのかしらと思いつつ、参拝させていただきました。大社らしいゆとりある境内と格式有る社殿と共に、奥では神々しい「霊亀の滝」や岩壁も拝見出来、さすがに神威に満ちた見ごたえある神社だと感じました。有料で、昭和の名作庭家・重森三鈴氏の「松風苑」三庭が併設されていますが、まず今回は純粋に神社の参拝だけにさせていただきました。なお、南に10分弱ほど歩いた地に摂社月読神社が鎮座しています。

 

・鳥居をくぐると船がお出迎え。神幸祭の船渡しのものですが、今年は舟渡しは中止されてます

 

【ご祭神・ご由緒】

「延喜式」神名帳の山城国葛野郡二十座のなかに載る、「松尾神社二座」が当社で、ご祭神の二柱は、大山咋神(神社は゛おおやまぐい゛と読んでいます)と市杵島姫命です。

大山咋神、亦の名山末之大主神について、本居宣長は「古事記伝」で、どういう故かわからないとしつつ、山は日枝山であり、゛咋とは、亦名の大主と同意にて、其山に主はき坐意にや、又山に末と云は、麓を山本と云に対ひて、上方のことなり゛と書かれ、研究者によるこれに近い諸説があるようですが、「日本の神々 山城」で大和岩雄氏は、大国主神が国の主なら、山末之大主神は山頂の主であり、大山咋神は山頂を示す咋すなわち山頂に坐す境の神だとされています。

 

・楼門

 

「本朝月令」が引く「秦氏本系帳」(「三代実録」より881年に松尾社から提出されたと思われる)の記述には、天智天皇七年三月三日に松崎日尾(松尾山山頂)に胸形神が天降り、大宝元年(701年)に川辺腹の男(秦都理)と田口腹の女(秦知麻留女)が松尾大社の創始にかかわり、知麻留女が阿礼木を建て、知麻留女の子が初代の祝になった、とあります。大和氏は、松尾大社の祭祀の主体は、賀茂社の斎王と同じく、知麻留女に代表される巫女であり、そのために市杵島姫が祀られたと考えられています。

創建時期については議論が有るようですが、社殿を初めて建てたという意味では、大宝元年の説を大和氏は採られていました。これは、「続日本紀」によれば同年木嶋神葛野の月読神など四神の神稲を中臣氏に給するという記述があり、松尾社の創建がこの年の中臣氏の登場と無関係ではないと思われるのです。伊勢神宮も含めて、日神・月神関係の神社のみに中臣氏が関わっており、大宝律令の施行に伴う藤原不比等と中臣意美麻呂による神祇政策によると、大和氏はみられます。

 

・拝殿

 

【祭祀氏族・神階・幣帛等】

上記由緒の通り、秦氏創建の神社です。「秦氏本系帳」は、「山城国風土記」逸文における賀茂社の伝承である、丹塗矢(火雷命)が川上から流れて来た話を載せた上で、゛又伝゛として秦氏女子が葛野川で洗濯をしている時に上流から矢が流れて来て、その矢を持ち帰って戸上に置く話を載せます。この神こそが松尾大明神であり、鴨上社、鴨下社、松尾社をもって秦氏が三所大明神を奉ると書いているのです。この戸上の矢を松尾大明神とする説明こそ賀茂氏と秦氏の関係を裏付ける重要なポイントの一つと、大和氏は述べています。

さらに滋賀県の日吉大社に関して、その創始以来の禰宜の祝部氏は賀茂氏の出自ですが、日吉社が大三輪の神を祀った天智天皇七年三月三日というのは、松尾社が宗像の神を祀ったとしているのと同じ日です。この事からも、三社の関係と共に両氏を無関係とみるわけにはいかないと考えられます。

 

・境内

 

神階は、「続日本紀」に載る、784年の桓武天皇の長岡京への行幸で、都を遷すに伴い従五位下に叙すという記述が出てきます。以降次々と昇叙されていき、866年に正一位まで昇りつめました。これは、秦氏が祀る有名な伏見稲荷大社が正一位となった1081年に対しはるかに速かったのです。

平安中期の二十二社制については、965年にまず十六社として上位から4番に選ばれ、以降追加社がでても順位は変わらず、「二十二社註式」には上七社として、伊勢石清水、賀茂、松尾、平野、稲荷、春日の中に名を連ねています。この四位の座は室町時代まで変わりませんでした。

 

・神門。拝所です

 

【酒の神様】

中世以降、当社は酒の神として信仰され、今も全国の酒造業者の崇敬篤く、奉納された酒樽が境内で目を引きます。社殿背後の「亀の井」の水は、混ぜると酒が腐敗しないとのいわれがあり、醸造家の方々が汲んで持ち帰るそうです。

大和氏は、「古事記」の神功皇后の歌を引用され、酒造の神の少御神(=少彦名神)が常世の神だとされます。また、少彦名神と同様に海から依り来たという、茨城県日立市の養蚕神社の金色姫が蚕を持っていた伝承や、「日本書紀」皇極紀の、蚕に似た虫を大生部多が゛常世の神なり゛と言って人に薦めた話と関連付けられます。蚕も酒も常世神・福神で、秦氏は常世神信仰にかかわっていると考えられている事から、秦氏の神社である事と当社の神が酒の神になった事とは無関係ではないと考えられます。

 

・神輿庫の前の奉納酒樽。占いのアトラクションもあります

 

秦氏が太秦で祀った、ズバリのお名前の大酒(おおさけ)神社は、「延喜式」神名帳によれば元の名は「大辟」だと明記されています。播磨にも大避神社があり、その社伝によれば、秦河勝がその地で没したあと秦氏の祖酒公をまつったので、大荒(おおさけ)または大酒と称したが、1068年に大避の文字に改めたようです。今その地名は坂越ですが、むかしはシャクシ(尺師、釈師表記も有り)と呼ばれていて、柳田国男氏によれば、「シャクシ(シャグジ)」は石神、塞(サイ)の神、道の祖神(注:つまり、猿田彦神)を言い、塞の神の「サイは限境の義」であり、「サケ」「ソウ」もサカ(坂)・サキ(崎、前)・サク・セキ・ソキ・ソク・ソコらも同義の語で「凡て皆隔絶の義」だと指摘されています。

山城国乙訓郡に酒解神社もありますが、これら神社に「酒」の字をあてるのは「坂(サ)」に手向ける「饌(ケ)」すなわち「坂饌」の霊威を示す最も代表的なものが酒だからであり、松尾大社の祭神大山咋神が酒の神となったのも、「酒」表記の神社の性格に通ずる神格をもっていたからであろう、と大和氏はまとめられていました。

 

・本殿。全体を拝見するのは難しいです

 

【社殿、境内】

社殿は1285年の火事で焼失しましたが、本殿は1542年に建造されたものです。桁行三間、梁間四間の両流造(前後両方に同じように屋根が拭き下ろされる)という珍しい大型の形態です。平安中期から後期に生まれ、厳島神社や宗像大社・辺津宮大宰府天満宮など著名な神社でのみ見られます。庇の柱(前後の隅の柱)は略式の角柱ではなく、円柱が使われます。背面側の庇は、特別に高い社格に応じて朝廷等から奉献される神宝を納める宝庫として使われたようです。当社本殿の一部には、1423年の古材も用いられているそうです。

 

・神門から本殿正面を拝見

 

【所蔵神宝】

「神像館」に重要文化財である平安初期にのご神像三体を含む、合計21体のご神像が展示されています。「松風苑」の見学とセットで、大人500円です。

 

・霊亀の滝前から背面に拭き下ろす大きな屋根が見えます

 

【祭祀・神事】

現在でも松尾祭として行われる祭礼は、古くは四月上申(サル)日に行われていましたが、応仁の乱(1467~1477年)の後は上酉(トリ)日に変わっています。一方、賀茂社の葵祭は四月中酉日に行われましたが、1502年に中絶し、1694年に再興されます。松尾祭も別名葵祭と呼ばれるようですが、その還御祭(松尾七社の神輿が、渡御祭でそれぞれ御旅所に二十日以上とどまった後に戻る祭)では、葵鬘を社殿と神輿に飾り、神職らが葵鬘を挿頭(かざし)にします。平安朝の頃からこのように賀茂社と松尾社はそれぞれ似た祭をおこなっていた事がわかっていて、大和氏はたぶん両者の共通性から、賀茂祭の中絶以降は賀茂祭を合わせた形で当社で葵祭がおこなわれただろう、と述べられていました。

日吉社の大祭も同じ四月の中申の日に行われていて、日吉山王七社神輿の琵琶湖渡御式があります。日吉祭は渡御・還御を一日で行うところが異なりますが、他は共通点が多いようです。日吉祭では申日の前日に、東本宮の拝殿で「みあれの神事」を行うようですが、これは賀茂社で五月十五日の大祭を前にした十二日の夜に行われる「御阿礼神事」と共通する名前です。こうした賀茂社、日吉社と松尾社の共通性から、松尾社でもみあれの神事が行われていただろう、と推定する見方があります。

 

・本殿向かって左に並ぶ境内社。手前から、祖霊社、金刀比羅社、一挙社、衣手社

 

【伝承】

大和岩雄氏は、「日本の神々」の岡田鴨神社の項でも賀茂氏と秦氏の密接さを論じられていましたが、秦氏の神社として有名な松尾大社の酒信仰や、同じく秦氏の祭る大酒神社の呼称が、塞の神信仰や猿田彦神とつながる論考はとても興味深いです。東出雲王国伝承では、塞の神信仰は出雲王国の国教だった「サイノカミ(幸の神)信仰」が大元だと説明しているからです。今も東出雲の武内神社に「幸(サイ)の神」の小さな石碑があります。夫婦神と御子神の三柱のセットで、その御子神が猿田彦であり、道の神・岐(チマタ)の神です。そして母神が幸姫命で、いわゆる八岐比売であり、弥生時代に東出雲王家の富氏の分家・登美氏が摂津三島(現在の高槻市付近)や葛城を経由して大和の三輪山付近に移住したとき、三輪山に祀ったとの伝承を、大元出版本は一貫して説明しています。

 

・神泉・亀の井

 

その大和の地で、登美氏(後に、賀茂氏・三輪氏に分かれる)と連携したのが、丹後から移住したアマ氏(後に、海部氏と尾張氏に分かれる)と言うべき人たちで、斉木雲州氏は、この丹後系アマ氏が元々のハタ氏であり、その元ハタ氏と朝鮮渡来系の人々が混同されて朝鮮系渡来人を秦氏と呼ぶようになってしまったと、ごく簡単に主張されています。この話は、木嶋神社内の養蚕神社廣峯神社の記事で触れました。

 

・霊亀の滝

 

山城で秦氏が出雲の古いサイノカミ信仰をこのように守っていたと捉えるなら、賀茂氏と共に山城に行った秦氏はアマ氏とつながっていたと思いたくなります。もしかして、アマ氏の中で海部氏にも尾張氏にもならなくて、弥生時代から登美~賀茂氏と一貫して行動を共にした人たちがいたのでしょうか。その人たちは、朝鮮渡来系の功満王を祖とする人たちと葛城で意気投合したのでしょうか。だから当社で「船」が大切にされるのでしょうか。このような話をされる研究者は知らないのですが、個人的にはロマンを感じています。

 

・楼門を入ってすぐにある、秦氏がつくった「葛野大堰」から流れる水路

 

(参考文献:松尾大社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 山城」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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