大阪でエビス神社といえば、とのかくこの神社。お正月の三が日が過ぎて間もなく行われる「十日戎」が大阪の風物詩となっていて、゛商売繁盛、笹持って来い゛の有名な掛け声と共に商売繁盛の神様゛えべっさん゛として親しまれています。そのお祭りの時は通常は大混雑するので、コロナ禍が続いた今年は諸々の特別対応(後述)をして斎行されたようです。今回は通常の日に参拝させていただき、意外にこじんまりした境内をじっくり拝見しました。
・地下鉄堺筋線の恵美須町駅出口からの通天閣。このような雰囲気に鎮座します
【ご祭神・ご由緒】
ご祭神は、天照皇大神・事代主命、素盞嗚尊、月読尊、稚日女尊の五柱です。創建は600年、推古天皇八年に聖徳太子が四天王寺の建立に当り、同地西方の守護神として鎮齋せられ、翌年には太子自ら当社に祈請し市場鎮護の神として尊崇せられたと、当社は説明されます。
「市の神」として庶民の信仰を集めると共に、平安時代には「御厨子所」が設けられ、難波津が近い事から宮中へ「海の幸」である鮮魚を奉献する「朝役(ちょうやく)」を務めていました。そのために京都の四条油小路に四間四方の家屋を拝領していましたが、この地が八坂神社の氏地だった事から、祇園祭に奉仕して「駕輿丁(かよちょう)」(貴人の駕籠や輿を担ぐことを業とする者)を送る事になり、後にこれは「神役(じんやく)」と称せられるようになりました。
・拝殿
【中世以降歴史】
当社に関しては祭祀氏族の事は見えません。古代、付近は漁民の集住する地で、当社はその漁民の豊漁をもたらすエビス信仰として祀られるようになったと考えられています。平安時代、彼らは今宮供御人と呼ばれ、中世には朝廷から与えられた供御の余剰魚介類を販売する特権を与えられ、八坂神社の神人としての権威をもって商業活動を展開していきました。
・拝殿と本殿。昭和の築造です
「朝役」や「神役」のことは、鎌倉時代の後宇多天皇の1274年の文書にもみえていて、室町時代にも後奈良天皇1557年の綸旨にも記されているようです。当社が商売繁盛の神として発展するのは、14世紀に四天王寺西門前の浜市が成立して以降に熟成してきたものであり、近世末まで四天王寺との密接な関係を保持していました。桃山時代になると、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行にして社殿を造営し、十八石六斗五升五合の社領を寄進しています。
やがて、西宮神社が本宮とされるようになったことから、当社は本宮に対する新しい宮、若宮という意味で「今宮」と名付けられたのだろうと、「日本の神々 摂津」で東瀬博司氏が述べられています。この戎神信仰は、浪速町人が繁栄する共に十日戎の祭として発展していき、「摂津名所図会」からは、江戸時代の元禄期には今日に伝わる形の祭礼になっていたことがわかるようです。
・三間社流造の本殿。
【織田信長と戎様】
三善貞司氏の「大阪伝承地誌集成」に、゛商売繁盛戎さん゛の始まりについてエピソードが紹介されています。室町時代に商人たちが台頭してきますが、彼らが仲間との連帯や資金融通のために共済組合としての講をつくり、そのシンボルに戎像を置いた事から「戎講」と呼ばれました。これに目を付けた織田信長が、清州城の城下町を発展させようと、商人の頭目伊藤宗十郎のアイデアを採用、1月10日にバーゲンセールをやらせ成功したのが、戎と商売繁盛を結びつける最初となったとの事です。江戸時代に入ると、業種別戎講が大坂でも盛んになり、その日と1月20日に神社の境内を借りて特売をするようになります。それが収拾がつかないほど混雑する事から、江戸時代後半ころから笹に縁起物を付けて福を授かるという仕組みに変わっていったと説明されています。最終的に、当社の十日戎が有名になっていったようです。
後ろにも拝所が有ります。社殿は、大阪空襲で焼けた後、昭和31年に再建されました
【廣田神社】
「廣田神社もある!」知らなかったものですから、駅改札前の周辺図を見て軽く感動しました。当社のほぼ北方の見えるところに廣田神社が鎮座しているのが興味深いです。丁度、兵庫県の方の西宮神社と廣田神社の位置関係を縮小したような感じに見えました。ご祭神は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命つまり天照大神の荒魂で、これも兵庫の廣田神社と同様です。四天王寺の鎮守で今宮村の産土神ですが、創建年代は不詳とされています。大阪市のホームページによると、江戸時代は廣田の杜と呼ばれた鬱蒼とした広い森の中にあったようです。その当時、紅白二種の萩を植えた茶店があって、「萩之茶屋」と呼ばれていた事が近隣の今の地名につながっているようです。
・(廣田神社)鳥居
・(廣田神社)境内と拝殿
【゛えべっさん゛の説明する「えびす様」の語源】
神社境内の掲示にえびす様についての説明が有りました。「え」は入り江の「え」、「び」は古語の神霊を意味する言葉。「す」は居られるところ。合わせて「えびす」とは海の近くに居られる神のこと、となります。海の神様ですが、特に海から幸をもたらす神様です。なので、えびす様のお姿は片手に竹竿を、そしてもう片手に鯛を持っておられるようです。後に「市」の守り神としても祀られ、やがて貨幣経済の発展とともに商売繁盛の神様としても信仰されるようになり、今日に至っている、と当社はご説明されています。
・大国社。珍しい現代的な社殿
【祭祀・神事】
通常の「十日戎」は、1月9~11日に開催され、今年令和4年も内容・日程を変更して実施されました。まず7日の餅撒の行事(今年は中止)から始まります。8日に表千家家元による献茶式(今年は神事のみ)があり、9日の「宵戎」に入ります。ここから通常なら境内は人で溢れ、あの゛商売繁盛、笹もってこい゛の大唱和のなか、福娘が福笹を授与します。10日が「本戎」になり、御神楽が奉納され(今年は中止)、さらに南地五花街から紅白の布や梅の造花で飾った駕籠に乗せられた芸妓が、「ホエカゴホイ」の掛け声で祭りに艶やかさをそえる「宝恵駕籠(ほえかご)行列」もやってきます(今年は中止)。最後の11日は「残り戎」と言われ、三日間にわたり多くの参詣者で賑わった境内もその後は平静さをとりもどしていきます。今年は福笹の授与所を縮小するかわりに、授与期間を1月16日まで延期して、参詣者が分散する形にしたようです。
十日戎でいただく福笹についてですが、まず「笹お渡し所」で孟宗竹の枝である生竹をいただき、それを「福笹授与所」へ持っていって希望の吉兆を付けてもらいます。吉兆は「きっちょお」または「きっきょお」と呼ばれ、神社は古くから「子宝」といいます。銭袋、銭かま、末広、小判、丁銀、大福帳、鳥帽子、打出の小槌、鯛などを一まとめにしたもので、野、海、山の幸をあらわしているとされています。その福笹を授けてくれる福娘は毎年応募で決められますが、これに選ばれれば見合いや就職にも有利になると言われ、今も昔も大阪の未婚女性たちから応募が殺到するそうです。
・稲荷社
【伝承】
東出雲王国伝承では、いわゆる聖徳太子が四天王寺(荒墓寺)を建てた時に西門の鳥居は立てたらしいですが、当社も創祀したという話は載ってなかったと思います。朝廷との関係が深く、祭祀氏族として海部などとの関係が見えないことからすると、漁民間の民間伝承で西摂津方面からエビス信仰が伝わったということでしょうか。少なくとも西宮神社が元であるのは間違いなさそうです。
蛭子命(恵比須様、少彦名神)が海の彼方から寄り来て福や神意をもたらす様は、゛客人神゛(社会の外から来訪して、その土地に祀られた神)とかかわりが深く、また、エビスの名は、゛夷゛つまり異民族に由来するとの説も一般にあるようです。これに関して出雲伝承の目線からすると、少し無難な言い方をしているように見えます。というのも事代主命の子孫達は、一時(九州東征以降の)大和勢力にとっての゛蝦夷(まつろわぬもの)゛だった時期が有る、と言うのです。例えばそのおひとりが大彦命であり、記紀ではその意味合いが変えられたが、実際には゛エミシ゛だったと主張しています。
・東門の石標。境内玉砂利の均しを神職の方がされていました
ただ、当社の有難い「えびす」の語源説明を拝見したり、近世以降のとにかく縁起の良いエビス信仰によって文化が形作られた確かな歴史を思うと、出雲伝承の転訛説のような語源説明は、一般には素直に話題になりにくいのかも、とも感じたりします。
最後に。見出し写真のとおり、当社の鳥居は三つ鳥居です。中央区の本町にある坐摩神社も同様なのですが、なぜ大神神社や檜原神社と同じなのかな?と思っています。宇佐公康氏の言われていた通り(坐摩神社の記事の最後で触れました)、それまでの信仰(三輪、和邇、物部、宇佐の信仰)が難波・河内王朝の頃に宮中祭祀として統合された名残を、現在に残しているのでしょうか。
・境内。十日戎では両側全てに福笹の授与所が設置されます
(参考文献:今宮戎神社公式HP・境内掲示、大阪市HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、三善貞司「大阪伝承地誌集成」「角川日本地名大辞典」、「式内社調査報告」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)